The Project Gutenberg eBook of 下宿人

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Title: 下宿人

Author: Marie Belloc Lowndes

Translator: Kiyotoshi Hayashi

Release date: June 26, 2010 [eBook #32978]
Most recently updated: February 24, 2021

Language: Japanese

Credits: Produced by Kiyotoshi Hayashi

*** START OF THE PROJECT GUTENBERG EBOOK 下宿人 ***

下宿人

マリー・ベロック・ローンズ


「あなたは愛する者と友とをわたしから遠ざけ、わたしの知り人を暗やみにおかれました」

詩篇第八十八編第十八節


第一章

 ロバート・バンティングと妻のエレンは、弱々しく燃える埋み火のまえに座っていた。

 この部屋は、彼らの家が不衛生とまでは言わないまでも、すすけたロンドンの通りに面していることを考えると、ことのほか清潔で手入れが行き届いていた。ふらりと訪れた客、特にバンティング夫婦より上の階級に属する客は、その居間のドアを開けるやいなや、二人の姿に安らかな結婚生活の、暖かく心地よい一場面を見出しただろう。深々とした革の肘掛け椅子にもたれていたバンティングはきれいにひげを剃って、こざっぱりした身なりをしている。その風采にはむかし長年にわたって勤めあげた「誇り高き使用人」のおもかげが今も残っていた。

 背もたれがまっすぐの、座り心地の悪い椅子に座っている妻には、過去の奉公生活のあとは夫ほど明らかではなかった。しかし、あることはある。こぎれいな黒いラシャのドレスと、入念に洗い立てられた無地のカラーとカフスにそれはあらわれていただろう。ミセス・バンティングは、独身の頃は、いわゆる有能な女中というやつであった。

 しかし外見は人目をあざむくという古い英語のことわざは、とりわけ平均的なイギリス人の生活に当てはまる。バンティング夫婦の部屋はずいぶん立派なもので、二人が若かった頃は――いま思うとはるか昔のことのようだ!――妻も夫も自分たちで慎重に選んだ家財道具を誇らしく思っていたものだ。部屋のなかのすべてのものが頑丈でどっしりしていた。どの家具も個人宅で開かれた、きちんとしたオークションで購入したものだった。

 だから霧に包まれ、雨のそぼ降るメリルボーン通りの景色を遮断している赤いダマスク織りのカーテンは、ほんのはした金で手に入れることができたし、おまけにあと三十年はもとうというしろものだった。また床を覆うアクスミンスターカーペットも掘り出し物だった。鈍く燃える小さな火を見つめながら、いまバンティングが身を乗り出している肘掛け椅子もそうだ。実を言うとこの肘掛け椅子はミセス・バンティングが大いに奮発して買ったものの一つなのだ。彼女は一日の仕事を終えた夫にくつろいでもらいたいと、この椅子に三十七シリングを払ったのである。つい昨日のことだが、バンティングは椅子を買い取ってくれる人を探そうとした。ところが品物を見に来た男は、夫婦の窮迫につけこんで、たったの十二シリング六ペンスしか出そうとしなかったのだ。そういうわけで、いまのところ肘掛け椅子は彼らの手もとに置かれているのである。

 物質的な豊かさは、この世にあるかぎり、バンティング夫婦にとって望ましいものではあるけれど、しかし夫婦というものはそれ以上の何かを求めるものだ。だから居間の壁には、もう色あせかけているとはいえ、いくつもの写真が品のよい額に入れて飾られていた。それらはバンティング夫婦が以前仕えたいろいろな雇い主や、別々に暮らしていたとはいえ、二人が長きにわたって幸せな奉公生活を送った、美しい田舎屋敷の写真だった。

 しかし外見は人をあざむくだけではない。こういう不幸な人々の場合は普通以上に人をあざむくものとなる。質のいい家具――不遇に陥っても、賢明な人々なら最後まで捨てようとはしない世間体を、目に見える形で示す物質的なしるし――を持っているにもかかわらず、彼らは金が底をつきかけていたのである。すでにひもじさを学び、いまはこごえることを知りはじめたところだった。タバコは酒を飲まない人間がもっとも手放そうとはしない楽しみだが、バンティングはしばらく前から喫煙をあきらめていた。ミセス・バンティングでさえ――彼女なりに几帳面で、賢明で、注意深い女性であった――それが夫にとってどういうことを意味するのか、ちゃんと理解していた。実際、分かりすぎるくらい分っていたので、彼女は数日前にこっそり外に出て、夫のためにバージニアタバコを一箱買ってあげたのだった。

 女性からの気配りや愛に何年も心打たれたことのなかったバンティングもさすがに胸がいっぱいになった。苦い涙が思わず彼の目にあふれた。夫も妻も奇妙なくらい感情をおもてに出さなかったけれど、二人とも胸にじんとくるものがあった。

 幸い彼には思いつきもしなかったのだけれど――この反応の遅い、平凡な、やや愚鈍とも言える心にどうして考えつくことができただろう?――哀れなエレンはそれ以来、四ペンスと半ペニーをタバコの購入に使ったのは大まちがいだったと一度ならず後悔していたのである。というのは、今や彼らは、安全無事な高原に住む者――つまり、幸福とは言えないまでも、確実に世間体を保った暮らしができる人々――と、自らに欠けているものがあるため、あるいはわれわれの奇怪な文明を組織してきた条件のため、貧民収容施設や病院や牢獄で、死ぬまで這いあがる術をもたぬままもがきつづける水面下の大多数、この両者を分け隔てる底知れぬ深みのすぐそばにまで来ていたのだ。

 バンティング夫婦が下の階級、大勢の人々が「貧乏人」と呼んでいる大量の人々に属していたなら、親切な隣人がすぐに彼らに救いの手をさしのべただろう。また、彼らが長いこと仕えてきた人々、独りよがりで想像力はないけれど悪気もない人々に属していたとしたら、やはり同じことが起きただろう。

 彼らを助けることができそうな人間は世界に一人しかいなかった。バンティングの先妻の伯母である。裕福な男と結婚し、今は未亡人となっているこの女性といっしょに住んでいるのが、最初の妻とのあいだにできた一人娘、デイジーだった。バンティングはこの老婦人に手紙を書こうか、どうしようかと迷いながら、それまでの長い二日間を過ごしたのだった。もっとも、冷たくとげとげしい拒絶の言葉しか返ってきやしないさ、と内心思ってはいたのだけれど。

 彼らの知り合い、例えば以前の使用人仲間などとは、次第に行き来間遠になってしまった。ただ一人の友人だけが生活の苦しい彼らのもとをしばしば訪ねてきた。それはチャンドラーという名の若者で、バンティングは何年も以前、彼のお祖父さんの従僕を務めていたのだ。ジョー・チャンドラーは兵隊には行かなかった。警察が好きで、早い話が、実は刑事だったのである。

 夫婦がこの悪運の元凶と考える家をはじめて買ったころ、バンティングは若者に、ちょくちょく遊びにお出でと誘いかけたものだ。というのは若者の話は充分聞くに価したから――時にはおそろしく好奇心をそそったからである。しかし、今、あわれなバンティングはそんなたぐいの話を聞く気になれなかった。つまり巧妙な手で警察に「あげられた」人々とか、チャンドラーの見るところ、そんな連中ならいつ喰らっても当然の運命を愚にも付かない不手際のせいで逃れてしまった話などだ。

 しかしそれでもジョーは言われた通り、週に一二回は訪ねてきた。ただし、主人も奥さんも、彼に食事を勧めなくていいような時間を選んで。いや、それだけではない。彼は優しい思いやりから、父の古い知り合いに金を貸し与え、バンティングはとうとう三十シリングを受け取った。その金も今はほとんど残っていない。バンティングのポケットにはまだ銅貨が数枚ちゃらちゃら鳴っていたし、ミセス・バンティングは二シリング九ペンス持っていた。だが、それと五週間後に払わなければならない家賃が、彼らに残された全てだったのである。軽くて持ち出しがきく金目の物はことごとく売り払った。ミセス・バンティングは質屋を毛嫌いし、決して足を運ぼうとしなかった。絶対行くものですか、飢え死にしたほうがましだわ。彼女は断固としてそう言った。

 しかしいろいろな小物が次第になくなっていっても、彼女は何も言わなかった。それらがバンティングにとって貴重な品であることは知っていた。なかでも古い懐中時計の金鎖は彼がはじめて仕えた主人の形見だったのだ。長い、恐ろしい病に倒れたときは、最後まで忠実に、心をこめて看病した主人だった。螺旋状の金のネクタイピンや、大きな形見の指輪もなくなった。いずれも以前の雇い主からの贈り物だった。

 安定した生活と不安定な生活を隔てる深い穴のそばで暮らしているとき――そしてその不気味な穴の縁へ少しずつにじり寄っていくとき――人間は、どれほど生まれつきおしゃべりであっても、長い沈黙に陥りがちなものである。バンティングは口まめで通っていたけれど、今はもう話をしない。ミセス・バンティングもしゃべらなかったけれど、彼女はもとから口数の少ない女性だった。おそらくそれが、一目見た瞬間からバンティングが彼女に心を奪われた理由の一つだったろう。

 二人の馴れ初めはこんな具合だった。とある貴婦人が彼を執事として雇うことになり、彼は前任者に案内されて食堂に入った。そこで彼は、彼自身の言い方を使えば、エレン・グリーンを発見したのだ。彼女は当時仕えていた女主人が毎朝十一時三十分に飲むポートワインをグラスに慎重に注いでいた。新しい執事である彼はその仕事ぶりを見ながら、つまり彼女が注意深くデカンターに栓をし、ワインクーラーに戻すのを見ながら、こう思った。「この人こそわたしの妻になるべき人だ!」

 しかし今、彼女の静かさ、彼女のだんまりは、不運な男の神経に障った。暮らしむきのよかった頃はひいきにしてよく訪れた、近所のいろいろな店屋にも、もう行く気がしなかった。ミセス・バンティングもわずかな買い物をするときは遠くへ出かけた。飢え死にしないためには今でも毎日、あるいは一日おきに買い物に出なければならなかった。

 突然、十一月の暗い夕方の静けさを破って、誰かが走るどたどたという足音と、大きな鋭い叫び声が外から聞こえてきた。夕刊を売る少年たちの呼び声だった。

 バンティングは椅子のなかでそわそわと振り返った。日刊紙の購読中止はタバコの次につらい喪失だった。しかも新聞を読むのはタバコよりも古くからの習慣である。使用人というのは新聞の熱烈な読者なのだ。

 呼び声が閉じた窓と厚いダマスク織りのカーテンを通して聞こえてくると、バンティングは急に新聞が読みたくてたまらなくなった。

 何て恥ずかしいことだろう、何ていまいましいことだろう、世のなかで何が起きているのか、知ることができないとは!犯罪者だけではないか、牢獄の壁の彼方の出来事を知らないのは。それにあの叫び声、あのかすれた鋭い叫び声は、何かほんとうに刺激的な事件、個人的な苦悩をひとときなりとも忘れさせてくれる何かが起きたことを意味しているにちがいないのだ。

 彼は立ちあがり、いちばん近い窓にむかうと、耳をすませた。しわがれた叫び声がいくつも入りまじる混乱のなかから時々ひとつの単語がはっきりと聞こえた。「人殺し!」

 ゆっくりとバンティングの頭は騒々しい不明瞭な叫び声をひとつのつながりのある順序に並べていった。うん、こういうことだ。「身の毛もよだつ人殺し!セント・パンクラスで人殺し!」バンティングはセント・パンクラスの近所で別の殺人があったことをふと思い出した。ある老婦人が、自分の女中に殺されたのだ。起きたのはずっと昔だが、今でも生々しくおぼえている。使用人仲間のあいだでは当然ながら注目を浴びた事件だった。

 新聞の売り子たちは――メリルボーン通りに何人も売り子が来るのは、かなり珍しいことだ――ますます近づいてくる。いま彼らは別のかけ声を叫んでいたが、彼にはそれがはっきり聞き取れなかった。さっきからがらがら声を張りあげ興奮したように怒鳴っているのだが、ときどき一言か二言、聞き分けられるだけだった。突然「復讐者!またもや復讐者の仕業!」という言葉が彼の耳を打った。

 ここ二週間のあいだに、ロンドンの比較的狭い区域内で、四つのきわめて奇怪かつ残忍な殺人事件が起きていた。

 最初の殺人は特に注目を浴びなかった。二番目の殺人でさえ、バンティングがその時まだ購読していた新聞ではベタ記事にすぎなかった。

 そこへ三つ目の殺人が起き、それとともに強烈な興奮の波がわきおこった。というのは、被害者――泥酔した女だった――のドレスに三角形の紙がピンで留められていて、そこに活字体の赤い字で

「復讐者」

と記されていたからである。

 この手の無残な事件を捜査する人々だけでなく、そうした禍々しい謎に知的な興味を抱く大勢の男女も、その時になってようやく、この三つの犯罪が全て同じ悪者によって犯されたことを知ったのだ。その愕然とするような事実が大衆の心に染みこむまえに、また別の事件が起きた。そしてふたたび殺人者は特別のしるしを残して、自分が不可解な恐るべき復讐欲に取り憑かれていることを明らかにしたのである。

 今や誰もが復讐者とその犯罪の噂話をしていた!毎朝半ペニーの牛乳を戸口に置いていく配達人でさえ、ちょうどその日、バンティングにむかってその話をしたのだ。

******

 バンティングは煖炉のところにもどってくると、軽い興奮を感じながら妻を見下ろした。彼女の青白い無表情な顔、くたびれきって悲しみに沈んだ様子を見ると、いらだちが波のように身体を走り抜けた。彼女を揺さぶってやりたいような気分だった。

 その日の朝、バンティングがベッドに戻ってきて牛乳配達が話したことを伝えようとしても、エレンはほとんど聞く耳をもたなかった。実のところ、そんな怖ろしいことなど聞きたくないと、ひどく機嫌を損ねたくらいなのだ。

 ミセス・バンティングはほろりとさせる感傷的な話は大好きだったし、婚約不履行訴訟の詳細には冷笑を浮かべて聞き入るのだが、妙なことに、不道徳な話や暴力の話となると尻込みした。毎日新聞を、それこそ二紙も三紙も買うことのできた、昔の幸せだった頃、バンティングは心ときめく「事件」や「謎」について話したい気持ちを押し殺さなければならないことが何度もあった。彼にとっては楽しい気晴らしなのだが、そんな話を一言でもほのめかそうならエレンはかんかんになって怒ったのである。

 しかし彼は今、意気消沈のあまり、彼女の気持ちなどどうでもよかった。

 窓から離れると、ためらいがちにゆっくりとドアのほうへむかった。そこで半分だけむき直り、きれいにひげを剃った丸顔に、こずるいような、訴えるような表情を浮かべた。いたずらをしようとしている子供が親にむける、あの表情である。

 しかしミセス・バンティングはじっとしたままだった。やせ細った華奢な肩がかろうじて椅子の背の上からのぞいていた。背筋をぴんと伸ばし、虚空を覗きこむように前方を見ている。

 バンティングはむき直るとドアを開けて、すばやく暗い玄関へ行き――しばらく前からガスの火を灯さないことにしていた――正面のドアを開けた。

 板石敷きの小径を通り、湿った歩道に面する鉄の門を開け放った。しかしそこで彼はためらった。ポケットの銅貨は数が減ったようだった。四ペンスであってもエレンにとってはどれだけ役に立つだろう、と彼はそう思って悲しい気分になった。

 その時、一人の少年が夕刊を一束抱えて彼のほうに走ってきた。バンティングは猛烈な誘惑を感じ――それに負けてしまった。「サンをくれ」と彼はぶっきらぼうに言った。「サンかエコーを!」

 しかし少年は呼吸を整えもせず首を振った。「一ペニー新聞しか残ってないよ」と彼はあえぎながら言った。「どれにします、旦那さん」

 バンティングは恥ずかしく思いながらもいそいそとポケットから一ペニーを取り出し、少年の手から新聞を受けとった。イブニング・スタンダードだった。

 それからごくゆっくりと門を閉め、板石敷きの小径に沿ってじめじめした冷たい空気のなかを進んだ。寒さに震えながらも胸のなかは喜びと期待でいっぱいだった。

 思いきって使ったさっきの一ペニーのおかげで、一時間は幸せな時を過ごせるだろう。心配ばかりで希望のない、みじめな自分をいっとき忘れることができる。この気苦労からの息抜きを哀れな妻、心配にやつれ、困り切っているエレンと分かち合えないことが、彼をひどくいらだたせた。

 不安というか、ほとんど良心の呵責に近いものがバンティングの身体を熱い波のように襲った。エレンだったらあの一ペニーを自分のために使いはしなかったろう。それはよく分かっている。こんなに寒くて、霧が出て、こんなに――こんなに雨がそぼ降ってなければ、もう一度門を出て街灯の下で新聞を読むのだが。彼はエレンのライトブルーの目がむける、冷たい非難の眼差しがひどく恐かった。あの眼差しはこう言うのだろう。あなたには新聞に一ペニーだって無駄なお金を使う権利はないのよ、そのことはよく分かっているでしょう、と!

 突然、目の前のドアが開き、耳慣れた声が不機嫌に、しかし心配そうにこういうのが聞こえた。「いったいそこで何をしているの、バンティング。入りなさいよ。風邪をひいちゃうじゃない。そうでなくても大変なのに、病気になられたらたまったものじゃない」近頃、ミセス・バンティングが一度にこんなにしゃべるのは珍しいことだった。

 夫は重苦しい家の正面ドアをくぐった。「新聞を買ってきたんだ」彼はむっつりと言った。

 なんだかんだ言っても、おれはこの家の主人だ。彼女と同じように金を使う権利がある。今、おれたちが暮らしを立てている金は、あの親切な若者、ジョー・チャンドラーがおれに――エレンにじゃなくって――貸してくれた、いや、押しつけるようにして寄こした金なんだからな。それにおれはやれることはみんなやった。質入れできるものはみんな質に入れた。それなのに彼女はまだ結婚指輪をはめているじゃないか、と彼は苦々しく思った。

 彼は重い足どりで彼女の脇を通り抜けた。彼女は何も言わなかったが、夫がこれから楽しもうとしていることに不満を抱いていることは分かった。妻に対する怒りと自分に対するさげすみが爆発し、軽い、ほんの軽い罵り言葉を――エレンは自分の前ではどんな悪態も許さないと早い段階で彼に釘を刺していたのだけれど――口にし、玄関のガスをいっぱいに開いて火を灯した。

 「誰も下宿に来ちゃくれんぞ、看板すら見えなかったら」彼は怒ったように言った。

 確かにその通りだった。ガスに火をつけたので、「貸間有り」と表側に書いてある長方形の看板が正面ドアの上の古い明かり窓からくっきり見えるようになった。

 バンティングは居間に入り、妻が静かにそのあとに従った。夫は自分の快適な安楽椅子に座り、小さな埋み火を火かき棒でつついた。バンティングが火をつついたのは、一日がやけに長く感じられるようになってから久しぶりのことだった。この夫の権限を行使して彼は気分がよくなった。夫というものはたまに自分の権威を主張しなければならないのだが、バンティングは最近めっきり自己主張をしなくなっていた。

 ミセス・バンティングの白い顔にかすかな赤みがさした。こんなふうに馬鹿にされることに慣れていなかったのだ。バンティングは本気で腹を立てないかぎり、いたって穏和な人間だった。

 彼女は部屋のなかを歩き回って、目に見えないほこりを払ったり、置物の位置を直したりしはじめた。

 しかし彼女の手は震えていた――興奮と、自己憐憫と、怒りのために。一ペニー?たった一ペニーのことを心配しなければならないなんて、恐ろしいことだわ!でも、うちはとっくにそうしなければならないところまで来ている。夫にはそんなことも分からないのかしら。

 バンティングは一度か二度、首を巡らしてまわりを見た。エレンにそわそわするなと言いたかったのだが、彼は争いを好まず、また、おそらく自分の振る舞いを恥ずかしく思っていたのだろう、文句を言うのはやめにした。それに何も言われなくても、彼女のほうもじきに夫がいらいらすることをやめた。

 しかしミセス・バンティングは夫が望んでいるように椅子に座りはしなかった。新聞に熱中している夫を見るのが業腹で、近くに寄りたくなかったのである。居間から奥の寝室に通じるドアを開け、今や明るく燃える火の傍で心地よさげに椅子に座り、イブニング・スタンダードを広げるバンティングのしゃくに障る姿を閉め出すと、冷え冷えとした暗がりのなかに座りこみ、両手で額を押さえた。

 これほど絶望的な気持ちになったこと、今くらい打ちひしがれたことは、なかった。一生のあいだ、正直に、誠実に、自分に誇りを持って生きてきたとしても、それがこのようにまるでみじめな貧乏と惨憺たる生活に終るのであれば、いったい何の意味があるというのか。彼女もバンティングもほんの少し歳を取りすぎているから、家柄のよい人々はいっしょに使用人として雇うのをためらうだろう。もちろん妻のほうが本職の料理人であれば話は別だ。料理人と執事の組み合わせはいつだっていいところに就職できる。しかしミセス・バンティングは料理人ではなかった。彼女のところに来る下宿人が望むものは、簡単な料理なら、何でもつくることができたが、しかしそれだけだった。

 下宿人?下宿屋を営むなんて、何て馬鹿なことを考えたのだろう!それは彼女のはじめたことだった。バンティングは簡単に言いくるめることができた。

 それでも、海辺の下宿屋ということで、はじめのうちはよかったのだ。期待していたほどではなかったけれども、かなりの儲けがあった。ところが猩紅熱が流行し、彼らだけでなく、何十人、いや、何百人という不運な同業者に大損害を与えたのである。そのあと新しい商売に手を出したりもしてみたのだが、かえって悲惨な結果を招き、彼らは借金を背負いこんだのだった。気前のいい以前の雇い主に、とうてい返済できる見込みのない借金を。

 そのあとは、もう一度、使用人としていっしょに、あるいは別々に仕事をしてもよかったのだが、彼らは意を決して最後の努力を試みることにした。残された僅かな金を使って、メリルボーン通りのこの家を借りることにしたのである。

 彼らが昔、使用人というくびきをみずから受けいれ、そのかわりに守られた、機械的に仕事をこなすだけの、そして何よりも財政的に楽な生活をしていた頃、彼らはどちらもリージェント・パークを見下ろす家に住んでいた。家を持つならその近くがいいのではないかと思われた。男前のバンティングはコネのおかげで、ときどき個人宅のパーティーの給仕人を勤めることがあるから、なおさらその辺りがいいように思えた。

 しかしバンティング夫婦のような人々に対して人生は早足で、急に進む方向を変えたりする。以前の雇い主のうち、二人は引っ越ししてロンドンの別の場所へ移ってしまい、彼が知っているベイカー通りのパーティー差配業者は破産してしまった。

 そして今は?今は仕事があったとしても、制服を質屋に入れてしまったから、働くことができない。彼はよき夫がすべき通り、妻に一言の相談もなく、ただふいと出かけて制服を質に入れてしまったのだ。彼女は何も言う気になれなかった。それどころか、彼が質屋に行った晩、夫が何も言わずに渡してくれた金の一部で、最後のタバコの箱を買ってやったのである。

 ミセス・バンティングが座りこんでこうした辛い思いに浸っているとき、突然、玄関のドアをびくびくと自信なさそうにノックする音が二回大きく響いた。

第二章

 ミセス・バンティングはぎくりとして立ちあがり、暗闇のなかで耳をすました。ドアの下から差しこむ光が闇をいっそう濃くしている。ドアのむこうではバンティングが座って新聞を読んでいる。

 その時、ふたたびあのびくびくとした、自信なさげなノックが大きく二回響いた。いいことを知らせるノックじゃないわ、と彼女は思った。下宿を探している人なら鋭く、間をおかず、大胆に、自信たっぷりにたたくはず。そうよ。これは乞食か何かだわ。いかがわしい人たちは時間におかまいなくやってきては、泣いたり脅したりしてお金を要求するもの。

 ミセス・バンティングは、どの大都市にも浮遊している、名もなく、得体も知れない漂流者階級に――それも特に女たちに――おぞましい経験をさせられたことが何度かある。しかし夜中に玄関のガスをつけなくなってからは、その手の訪問者に煩わされることはほとんどなかった。彼ら、人間の形をしたコウモリは、灯りを見れば寄ってくるが、闇のなかに住む人々には手出しをしないのだ。

 彼女は居間のドアを開けた。玄関に応対に出るのはバンティングの役目だったが、やっかいな客や面倒な訪問者をあしらうのは彼女のほうがずっと上手だった。それでもその晩は何となく夫に出てほしいような気がした。しかしバンティングは新聞に夢中になったまま座りつづけている。寝室のドアが開く音を聞いて彼がしたことといえば、顔をあげて「ノックが聞こえなかったかい」と言うだけだった。

 その質問に答えることなく、彼女は玄関に出て行った。

 ゆっくりと彼女は玄関のドアを開けた。

 戸口にあがる三段の踏段の上に立っていたのは、ひょろりと背の高い男だった。インバネスに身を包み、流行遅れのシルクハットをかぶっている。彼はちょっとのあいだ眼をぱちくりさせて彼女を見ていた。たぶん玄関のガス灯の明かりに目が眩んだのだろう。ミセス・バンティングの鍛えられた目は、おかしな格好はしているけれど、この人は素性の正しい紳士であると、たちどころに見抜いた。以前、自分の仕事の関係で接触することのできた、あの階級に生れながら属している人だ。

 「ここは下宿屋じゃありませんか」と彼は訊いた。やや甲高くて、落ち着きのない、ためらうような声だった。

 「はい、さようでございますが」彼女はおどおどと言った。部屋を借りに人が来たのは、しかも世間体を重んじる彼らの下宿にふさわしい人が来たのは、よほど久しぶりのことだった。

 彼女が本能的に身を引くと、見知らぬ男は彼女の脇をすり抜けて玄関に入った。

 その時になってはじめてミセス・バンティングは、彼の左手に薄い鞄が握られていることに気がついた。新品の鞄で、しっかりした茶色の革でできている。

 「静かな部屋を探しているんです」と彼は言い、夢を見るような、放心したような口調で、「静かな部屋を」ともう一度繰り返した。そう言いながら彼は神経質そうにあたりを見まわした。

 血色の悪いその顔がぱっと明るくなった。玄関広間には家具が整然と備え付けられ、掃除も極めて行き届いていたからである。

 すっきりした形の帽子掛け兼傘立てがあり、見知らぬ男の疲れた足は質のいい、丈夫な暗赤色のドラゲット絨毯を柔らかく踏みしめた。その色は壁紙のフロックペーパーとよく調和していた。

 これは上等な下宿屋だ。管理人もしっかりした人らしい。

 「ここならとても静かでございますわ、旦那様」と彼女は丁寧に言った。「ちょうど空いている部屋が四室ございます。夫とわたくし以外、誰もおりませんの」

 ミセス・バンティングは慇懃な、落ちついた声でしゃべった。こんなふうに突然下宿を探している人があらわれるなんて、まるで夢のようだった。しかも相手の心地よく礼儀正しい声と話し方は、この哀れな女に遠い昔となった若い頃の、安定した幸せな日々を思い出させた。

 「それは悪くなさそうだな」と彼は言った。「四部屋ですか。それでは二部屋だけ借りましょうかね。でも選ぶ前に四つとも見せてください」

 バンティングがガス灯をつけたのはなんてすばらしい幸運だったのだろう!あれがなければこの紳士は彼らのところを通り過ぎてしまっていたはずだ。

 彼女は階段のほうに進んで行ったのだが、興奮のあまり玄関のドアが開けっ放しになっていることをすっかり忘れていた。足早に廊下を後戻りしドアを閉めたのは、彼女の頭のなかですでに「下宿人」となっていた見知らぬ男だった。

 「あら、申し訳ございません、旦那様」と彼女は大きな声で言った。「お手をわずらわしてしまいまして」

 一瞬、彼らの目が合った。「ロンドンで玄関のドアを開けっぱなしにしておくのは危険ですよ」と彼は厳しく言った。「こんなことは滅多にないようお願いします。誰でも簡単に忍びこんできますから」

 ミセス・バンティングはいささかうろたえた。見知らぬ男は、口調こそいまだに丁寧だが、明らかに機嫌を大きく損ねていた。

 「ご安心ください、旦那様、二度と玄関のドアを開けっ放しにしませんから」彼女はあわてて返事をした。「どうぞご心配なく!」

 そのとき居間の閉じたドアを通してバンティングの咳の音が聞こえた。ほんの軽い空咳だったのだが、ミセス・バンティングの未来の下宿人は腰を抜かすほど驚いた。

 「あれは誰ですか」彼は手を伸ばし、彼女の腕をつかまえた。「いったいあれは何です」

 「わたくしの夫でございます、旦那様。つい先ほど新聞を買いに外に出たんですが、風邪でもひいたのじゃないかと思います」

 「ご亭主――?」彼は彼女をじいっと、疑わしげに見つめた。「よ、よろしかったら教えてください。ご亭主のお仕事は?」

 ミセス・バンティングは昂然と頭をあげた。夫の職業について他人からとやかく言われる筋合いはない。しかし不快感を示すのはやはり得策ではないだろう。「給仕をしております」と彼女はよそよそしく言った。「夫は上流階級のお宅で召使いをしていたのでございます、旦那様。お望みでしたら旦那様のお世話もいたします」

 そういってくるりとむきを変えると、急な、狭い階段をあがっていった。

 最初の一続きの階段をあがりきると、ミセス・バンティングが「客間の階」と呼んでいる二階に出る。正面には客間があり、その奥には寝室がある。彼女は客間のドアを開けて、すばやくシャンデリアに火を灯した。

 この正面の部屋は家具を詰め込みすぎてややごたごたしていたかもしれないが、それでも充分に快適だった。床を覆っているのはコケに似せた緑の絨毯。部屋の真ん中にはテーブルがあり、四脚の椅子がまわりを取り囲んでいる。階段に通じるドアの反対側の隅には大きな古い飾り棚があった。

 暗緑色の壁には八枚一組の版画、レースとターラタンのボールドレスに身を包むヴィクトリア朝初期の美人画がかかっていた。古い美人伝の本から切り抜いたものだ。ミセス・バンティングはこれらの絵がたいそう気に入っていて、客間に優雅で洗練された趣きを添えるものと考えていた。

 急いでガス灯に火をつけながら、二日前にやる気を奮い起こし、この部屋を隅々まで掃除したのは大正解だったと思った。

 その部屋はいい加減でだらしない最後の住人が、警察に訴えるぞというバンティングの脅しに怯えて出て行ってから、長いこと放置されたままだったのだ。しかし今はきちんと整理されている。もっともひとつだけ大きな手抜かりがあって、ミセス・バンティングはそのことを痛いほど意識していた。窓に白いカーテンが掛かっていなかったのだ。しかしこの紳士が本当に下宿してくれるなら、そのくらいはすぐに何とかできる。

 しかしこれはどうしたことだろう――。見知らぬ男はそわそわとまわりを見まわしていた。「これは少々――わたしには少々もったいないな」と彼はとうとうそう言った。「ほかの部屋を見せてくれませんか、ミセス、ええと――」

 「バンティングです」と彼女は静かに言った。「バンティングと申します、旦那様」

 そう答えたとき、暗鬱な、重苦しい不安がふたたび彼女のみじめな、おしひしがれた心にずしりとのしかかった。やっぱり勘違いだったのだろうか――いや、ある意味では勘違いではなかったのだが、しかしこの紳士は貧乏な紳士なのだろう――お金がないからひと部屋分の家賃しか払うことができないのだ。週に八シリングか十シリングくらい。週に八シリングか十シリングでは彼女とバンティングにとってたいした収入にはならない。まあ、何もないよりはましだけれども。

 「寝室をごらんになりますか、旦那様」

 「いやいや、上の階の部屋を見せてもらえませんか、ミセス――」そう言いかけ、まるで脳味噌をフル回転させて思い出したみたいに「バンティング」と彼女の名前を口にした。それと共にあえぐような息がもれた。

 最上階の二つの部屋はもちろん客間の階のすぐ上にあった。しかし飾りが一切ないため貧相で見劣りがした。どちらの部屋も整理されたことがほとんどない。いや、実をいえば、バンティング夫婦が越してきたときとほぼ同じ状態といってよかった。

 とはいっても、流しと大きなガスストーブがでんと鎮座している部屋を、魅力的な、優雅な居間に変えることは難しい。ガスストーブは時代遅れの型式で、一シリングを投入口に入れて使うという厄介なしろものだ。バンティング夫婦の前の借家契約者の所有物だったのだが、こんなものは一銭の価値もないと、ほかの粗末な備品とともに残していったのである。

 ミセス・バンティングの持ち物はみんなそうだが、その部屋にあるわずかな家具もどっしりしていて手入れが行き届いていた。しかしそこはがらんとした、居心地の悪そうな場所で、下宿の女主人はもうちょっと借りたい気持ちを起こさせるよう仕度をしておけばよかったと今になって後悔した。

 ところが驚いたことに、相手の暗い、神経質そうな、細く尖った顔は満足そうに輝きはじめたのである。「すばらしい!申し分ありませんな!」と彼は叫び、手にした鞄をはじめて足元に置いて、細い手をすばやく、落ち着きなくこすり合わせた。

 「これこそわたしが探していた部屋ですよ」彼は大股にずんずんとガスストーブのほうへ歩いていった。「最高です。最高!こういうところに下宿したかったんですよ。ミセス――ええと――バンティング、わたしは科学者でしてね。そのう、いろんな実験をするんです。それでしばしば、何ていいますか、強い火力が必要なんですよ」

 彼はストーブを指差したが、彼女はその手が少し震えていることに気づいた。「これも役に立ちます――大いに役に立ちます」と彼は石の流しに触れ、縁を撫でさすった。

 彼は顔をあげ、広くひいでた額を手でぬぐった。それから椅子のほうに移動すると、ぐったりと座りこんだ。「疲れました」彼は低い声でつぶやいた。「疲れた――疲れた!一日中、歩き回りましてね、ミセス・バンティング。座るところがなかったんです。ロンドンは、疲れた人のためにベンチを置いてないのです。大陸にはあるんですけどね。ある意味じゃ、大陸はイギリスよりも人間的ですよ、ミセス・バンティング」

 「さようでございますね、旦那様」と彼女は丁寧に言い、そわそわした視線を投げかけたあと、彼女にとってはその答えが大きな意味を持つ大切な質問をした。「では、部屋をお借りになりますか、旦那様」

 「もちろん、この部屋をね」とまわりを見ながら彼は言った。「こういうところがないだろうかと、今まで何日も探しまわったんです」それから急いでこう付け加えた。「こういう場所に住みたいものだとずっと思っていたんです、ミセス・バンティング。びっくりするでしょうけど、こういう部屋はなかなか手に入らないんですよ。しかしわたしの難儀な家探しは終わりました。ほっとしましたよ――実に、実にほっとしました!」

 彼は立ちあがり、夢を見ているような、ぼんやりした様子で部屋のなかを見ていたのだが、急に「わたしの鞄はどこだ?」と訊いた。その声には強い怒りと恐れがこめられていた。彼は眼の前の物静かな女を睨みつけ、ほんの一瞬、ミセス・バンティングは全身がぞぞっと震えた。恨めしいことに、バンティングはずっと離れた下の階にいる。

 しかし奇矯な性格というものは、常に育ちのいい、教養ある人々の特権であること、彼らにだけ与えられた特別な贅沢のようなものであることをミセス・バンティングは知っていた。学者は、彼女がよく理解していたように、決してほかの人々と同じではない。そして新しい下宿人は疑いもなく学者である。「入ってきたときはこの手に鞄を持っていましたよね」彼は怯えたような、困惑した声で言った。

 「こちらにございます、旦那様」彼女はなだめるように言い、身を屈めて鞄を取ると彼に渡した。そのとき鞄がちっとも重くないことに気づいた。どうやら荷物が一杯に詰まっているわけではないらしい。

 彼は鞄をひったくるように受け取った。「失礼」と彼は小声で言った。「鞄にとても大切なものが入っていましてね。さんざん苦労して見つけたんです。また手に入れようと思ったら、たいへんな危険をおかさなければならない。それで取り乱してしまったんです」

 「契約の条件はいかがいたしましょう、旦那様」彼女は恐る恐る大切な、彼女にとってはいたって重要な話題に戻ろうとした。

 「契約の条件?」と彼は繰り返した。一瞬の間があった。「わたしはスルースといいます」と彼は唐突に言った。「S―l―e―u―t―h。警察犬という意味のスルースと同じです、ミセス・バンティング。(註 「探偵」の意味もある)これで名前を忘れないでしょう。身元証明書もさしあげられますが――」(彼が彼女を見る目つきを見て、妙な流し目だわ、と内心彼女は思った)「しかしよろしかったらそんな面倒ははぶきましょう。お金は喜んでお支払いします――そうですね、一ケ月分前払いでどうです?」

 ミセス・バンティングの頬に赤みがさした。安堵のあまり――いや、ほとんど痛みにも似た喜びのあまり――気が変になりそうだった。彼女はそのときまで自分がどれほど空腹であるか、どれほどおいしいものを食べたいと思っていたか、気がつかなかった。「結構でございます、旦那様」と彼女はつぶやいた。

 「で、いくら請求なさるのですかな」その声は優しく、親しみすら感じられた。「そうそう、身の回りの世話もお願いしますよ!身の回りの世話も。それから料理はもちろんできるんでしょうね、ミセス・バンティング」

 「もちろんですとも、旦那様」と彼女は言った。「腕のほうは普通でございます。一週間二十五シリングでいかがでございますか、旦那様」彼女は遠慮がちに相手を見た。彼が返事をしないので、口ごもりながら次のようにつづけた。「あの、旦那様、お高く思われるかもしれませんが、お世話のほうはできるかぎりのことをさせていただきますし、料理も気を配ってお作りします――わたくしの夫も――喜んでお仕えいたしますでしょう」

 「そんなことはいいんですよ」とミスタ・スルースは慌てて言った。「服の整理は自分でやります。慣れてますからね、自分で自分の面倒を見ることは。ただですね、ミセス・バンティング、わたしはほかの人といっしょに下宿するのが大嫌いなので――」

 彼女は熱心な口調でこう口をはさんだ。「同じ家賃で結構ですので二つの階をお使いください――その、別の下宿人が来るまでは。こんな裏部屋でお休みいただくわけにはいきませんわ、旦那様。ここはみすぼらしすぎますもの。お好きなようにお使いいただいてかまいません――こちらでお仕事なり実験なりなさって、お食事は客間で召しあがってくださいませ」

 「そうですね」と彼はためらうように言った。「それは有り難いのですが、じゃあ、さらに二ポンドか二ギニー追加しますから、わたし以外に下宿人が来ても断ってください」

 「かしこまりました」と彼女は静かに言った。「旦那様お一人のお世話をさせていただくだけでわたくしは満足でございます」

 「この部屋の鍵はお持ちですね、ミセス・バンティング。仕事の最中は邪魔されたくないのです」

 彼はしばらく返事を待ち、催促するようにもう一度言った。「この部屋の鍵はお持ちですね、ミセス・バンティング」

 「ええ、もちろんですとも、旦那様、ございますよ――とてもいい小型の鍵でございます。以前ここに住んでいた人が新しい鍵をドアに取り付けまして」彼女はドアを開けると古い鍵穴の上に円盤が取り付けられているのを見せた。

 彼は頷いて、しばらく何も言わず立っていた。まるで物思いに沈むような様子だった。「一週間四十二シリングですね?いいでしょう。わたしとしては願ったり叶ったりです。では最初の一ケ月分を前払いしましょう。四十二シリングの四倍は」――彼はふと頭をもたげ、新しい下宿の女主人を見つめた。はじめて笑顔を見せたが、それは奇妙に歪んだ笑顔だった――「ああ、ちょうど八ポンド八シリングですね、ミセス・バンティング!」

 長いケープのようなコートの内ポケットに手を突っこみソブリン金貨をひとつかみ取り出した。それを部屋の中央に置かれた剥き出しの木の机の上に一列に並べだした。「五、六、七、八、九、十ポンド。おつりは取っておいてください、ミセス・バンティング。明日の朝買ってきてほしいものがあるんです。今日はひどい目にあいましてね」しかし新しい下宿人は、どんな目にあったにしろ、気にしているような様子はなかった。

 「さようでございますか、旦那様。それはお気の毒でございました」ミセス・バンティングの心臓はどきん、どきん、どきんと高鳴った。気が動転し、安堵と喜びにめまいがした。

 「ええ、それはひどかった!荷物をなくしたんです、苦労して持ってきたのに」突然、彼は声をひそめた。「話すべきじゃなかった」と彼はつぶやいた。「何て馬鹿なことを!」そして今度はもっと大きな声で言った。「ある人に言われたんです、荷物がないと下宿屋に行っても断られるってね。でも、あなたは断らなかった、ミセス・バンティング。感謝しているんです、あ、あなたのご親切には――」彼は哀願するように彼女を見、ミセス・バンティングは胸を打たれた。彼女は新しい下宿人に好意を抱きはじめていた。

 「紳士の方は一目で分かるつもりでございます」彼女はきまじめな声を詰まらせながら言った。

 「あしたは服を探さなければなりません、ミセス・バンティング」彼はまた哀願するように彼女を見た。

 「旦那様、お手を洗ってはいかがでしょう。夕食は何になさいますか。大したものはございませんが」

 「ああ、あり合わせで結構ですよ」と彼は急いでいった。「わざわざ買い物に出る必要はありません。寒いし、霧が出てるし、じめじめした夜ですからね、ミセス・バンティング。バターつきのパンとミルク一杯があれば十分です」

 「おいしいソーセージがございますが」と彼女は口ごもりながら言った。

 それは上等のソーセージで、その日の朝、バンティングの夕食用に買ったものだ。自分は軽くパンとチーズですませるつもりだった。しかし今は――考えただけでもすばらしくて、茫然となるが――バンティングに彼らの好きなものを何でも買わせることができるのだ。十枚のソブリン金貨が心地よさげに、ほがらかに手のなかに収まっている。

 「ソーセージ?いえ、それはいただけません。肉は食べないのです」と彼は言った。「ソーセージを食べたのはずっと、ずっと昔のことです、ミセス・バンティング」

 「さようでございますか、旦那様」彼女は一瞬とまどってから堅苦しい声で尋ねた。「ビールかワインをお望みでしょうか」

 突然ミスタ・スルースは青白い顔いっぱいに奇怪な、荒々しい怒りの表情を浮かべた。

 「いりません。はっきり申しあげたはずですよ、ミセス・バンティング。お酒はたしなまないものと思っていたのですが」

 「はあ、その通りでございます、旦那様。生まれてこの方、お酒は飲んだことがございません。夫も結婚して以来、禁酒しております」平気で打ち明け話をするような女だったら、彼女は知り合ってすぐにバンティングに酒をやめさせたことを話していただろう。彼が禁酒したのではじめて彼女は戯言と思っていたバンティングの言葉が本気だと分かったのだった。はるか昔、彼が言い寄ってきたときの話だ。若いときに禁酒の誓いをしてくれてよかったと今、彼女は思った。そうでなければ、今ようやく漕ぎ抜けた逆境のなかで彼は酒浸りになっていただろう。

 さて、そのあとは下に降りて、客間とつながる素敵な寝室にミスタ・スルースを案内した。一階のミセス・バンティングの部屋と同じ家具の配置だったが、ただ、どれも彼女の部屋のものより少しだけ高価で、少しだけ上等だった。

 新しい下宿人は疲れた顔に不思議な満足と安らぎの色を浮かべてまわりを見まわした。「安息の地だ」と彼はつぶやいた。「『主は彼らをその望む港へ導かれた』。美しい言葉です、ミセス・バンティング」

 「その通りですわ、旦那様」

 ミセス・バンティングはちょっとびっくりした。誰かが彼女にむかって聖書を引用するなど絶えてなかったことだ。それは、いわば、ミスタ・スルースが紳士であることの確かなしるしであるように思えた。

 しかも下宿人といっても夫婦者ではなく、たった一人の紳士をお世話するだけなのだ。彼女はほっと胸をなで下ろした。ここロンドンだけではなく海岸のそばにいた頃も、ひどく風変わりな夫婦がバンティング夫婦の下宿を出入りしたものだった。

 まったくついていなかったわ!ロンドンに来てから、そこそこ社会的地位があって思いやりのある夫婦なんて一組として下宿に来たことがない。最後に下宿していた連中は恐ろしいやくざ者の男女で、昔は羽振りがよかったのだろうが、その頃はけちくさいぺてんをやってかろうじて生計を立てていた。

 「すぐにお湯をお持ちいたします、旦那様、それから清潔なタオルも」彼女は部屋から出て行きながらそう言った。

 するとミスタ・スルースがすばやく振り返った。「ミセス・バンティング」――少しどもりながら彼は言った――「身、身のまわりの世話といっても何でもやってくれということではありませんからね。わたしのために走り回ることはありません。自分のことは自分でできます」

 彼女は追い払われるどころか、冷たく突き放されてしまったような気がして、妙にうろたえた。「かしこまりました、旦那様。では夕食の用意ができたらお知らせにまいります」

第三章

 しかし下にいるバンティングにすばらしい幸運が訪れたことを伝えられる言いしれぬ幸福感と喜びに比べれば、少々冷たくはねつけられたことくらい何だというのか。

 冷静なミセス・バンティングは急な階段をひとっ飛びに飛び降りたように見えた。しかし、玄関広間に立ったときは気を引き締め、興奮を抑えようとした。彼女は感情をあらわにすることを嫌い、蔑んだ。そんなふうに気持ちを剥き出しにすることを、彼女は「馬鹿騒ぎ」と呼んでいた。

 居間のドアを開けたとき、彼女は夫の屈めた背中を見てはっと立ち止った。この一週間のあいだに夫がひどく老け込んだことに気づき、胸が痛くなった。

 バンティングは不意にうしろを振り返り、妻の姿を見ると立ちあがった。持っていた新聞をテーブルに置いて「それで、誰だったんだい?」と言った。

 彼は内心自分を恥じていた。玄関に応対に出たり、ぼそぼそと聞こえたああしたやりとりをするのは自分の役目だったのだから。

 そのとき妻が片手を突き出した。十枚のソブリン金貨がチャリンチャリンと鳴りながらテーブルの上に小さな山を作った。

 「見てごらんなさいよ!」興奮した、今にも泣き出しそうな声で彼女はささやいた。「見てごらんなさいよ、バンティング!」

 バンティングは見ることは見たが、その眼は困惑し、怒ったような色を浮かべた。

 彼は頭の回転が速いほうではない。とっさに妻が家具屋を呼んだものと早とちりし、眼の前の十ポンドは上の階の上等な家具をみんな売り払った代金だと思いこんでしまった。もしもそうだとしたら、それこそ終りのはじまりだ。二階正面の部屋にある家具には全部で十七ポンド九シリングを払ったのだ――エレンが昨日、苦々しくその事実を教えてくれたばかりだ――しかもどの家具も格安だった。それが十ポンドにしかならなかったとはあんまりだ。

 しかし妻を非難する気にはなれなかった。

 彼は何も言わずテーブルを挟んで彼女を見つめた。その困惑した、なじるような眼を見て、彼女は夫が何を考えたのか見当をつけた。

 「新しい下宿人よ!」と彼女は叫んだ。「それに、それに、バンティング、その人は立派な紳士なの!一週間二ギニーの部屋代を、一ケ月分前払いしてくれたのよ」

 「そんな、まさか!」

 バンティングは急いでテーブルのまわりを回り、彼らは小さな金の山に見とれながらいっしょに立ち尽くした。「しかしソブリン金貨が十枚あるじゃないか」と彼は突然言った。

 「ええ。あした買ってきてほしい物があるんですって。それに、ああ、バンティング、とても言葉遣いが丁寧な方なのよ。わたし本当に胸が――胸が――」そう言ってミセス・バンティングは一二歩よろめいて椅子に座り、小さな黒いエプロンを顔に当てると急に嗚咽しはじめた。

 バンティングはおどおどしながら彼女の背中を優しくさすった。「エレン?」彼は取り乱した妻を見て心を打たれた。「エレン?興奮しすぎるのはよくないよ、おまえ――」

 「ええ、ええ」彼女はむせびながら言った。「だ、大丈夫。わたしったら、馬鹿ね――本当にそう思う。でも、ああ、二度と幸運なんて訪れることはないと思っていたから!」

 彼女は下宿人がどんな人かを夫に話した――というより、話そうと努力した。ミセス・バンティングは口達者ではないが、一つだけ夫の心に強い印象を与えたことがある。それは多くの頭のいい人と同様、スルースも変わり者であること――つまり、人に迷惑を掛けない程度に変わり者であること――そしてあやすように扱わなければならないことである。

 「お世話されすぎるのはいやだと言っていたわ」ようやく涙を拭きながら彼女は言った。「それでもいろいろ面倒を見てあげないとならないと思う。お気の毒に」

 彼女がそう言い終わるやいなや、聞き慣れない大きな鐘の音が聞こえてきた。客間の呼び鈴が何度も何度も鳴らされているのだ。

 バンティングは張り切った表情で妻を見た。「わたしが行ったほうがいいんじゃないかな。どうだい、エレン」彼は新しい下宿人が見たくてたまらなかった。それにまた何かしていられるというのはほっとすることでもあったのだろう。

 「そうね」と彼女は答えた。「さあ、行ってらっしゃい!待たせちゃだめよ!いったい何の用かしら。夕食ができたら知らせるとは言ったんだけど」

 しばらくしてバンティングが戻ってきた。にやにやと奇妙な笑いを浮かべている。「何をご要望になったと思う?」彼は当ててごらんとでもいうようにささやいた。しかし返事がないので、こうつづけた。「聖書を貸してくれって言ったんだ!」

 「あら、別におかしなことじゃないでしょう」彼女はすぐにそう言った。「特に気がふさいでいらっしゃるなら。わたしが持っていくわ」

 ミセス・バンティングは二つの窓のあいだにある小さなテーブルから大型の聖書を取りあげた。それは彼女が嫁いだときのお祝いの品で、彼女が数年間お仕えした女性の、結婚している娘さんからもらったものだった。

 「夕食といっしょに持っていけばいいそうだよ」とバンティングは言った。「エレン。ありゃ、妙な人だな。今までお付き合いした紳士とはまるでちがうよ」

 「あの方は紳士よ」とミセス・バンティングはやや気色ばんだ。

 「ああ、確かにそうだよ」しかしそれでも彼はためらうように妻を見るのだった。「お召し物の片付けをいたしましょうかと訊いてみたんだが、エレン、服は持ってないって言うんだよ!」

 「お持ちじゃないのよ」彼女はすぐさま、かばうように言った。「運悪く荷物をなくしてしまったの。あの方はたちの悪い連中にカモにされるタイプだわ」

 「うん、いかにもそんな感じだな」とバンティングは同意した。

 それからしばらく会話は途切れた。ミセス・バンティングが夫に買ってきてもらう品々を小さな紙切れに書きつけていたのだ。彼女はソブリン金貨一枚といっしょにそのリストを手渡した。「できるだけ急いでね」と彼女は言った。「わたし、小腹が減ってるの。これから下に行ってミスタ・スルースの夕食を作るわ。ミルク一杯と卵二つでいいらしいの。卵は新鮮なのがあるからよかったわ!」

 「スルースか」とバンティングは妻を見つめながら鸚鵡返しに言った。「変わった名前だな!どう綴るんだい?S―l―u―t―hかい」

 「いいえ」彼女はすかさず答えた。「S―l―e―u―t―hよ」

 「へえ」と彼は腑に落ちぬ調子で言った。

 「あの方はね、『警察犬のスルースと同じだとおぼえておけば、忘れませんよ』って言ったのよ」そう言ってミセス・バンティングはほほえんだ。

 バンティングはドアのところまで行って振り返った。「チャンドラー君から借りた三十シリング、これでいくらか返せるね。嬉しいよ」彼女は頷いた。月並みな言い方だが、胸がいっぱいになって言葉が出なかったのだ。

 二人はそれぞれの仕事をしに出かけた。バンティングはびっしょり濡れる霧のなかへ、妻は地階の冷え冷えとした台所へ。

 下宿人に差し出すお盆の用意はすぐにできた。どの品もきれいに、おいしそうに盛りつけられている。紳士の食事のお世話ならお手の物だった。

 台所の階段をあがっているとき、女主人はふと聖書を貸してほしいというミスタ・スルースの頼みを思い出した。玄関にお盆を置いて、居間に入り聖書を取りあげた。玄関に戻ってきたとき、二往復すべきか、一瞬迷った。いいえ、何とか持てるわ。大きな重い本を脇の下に抱えながらお盆を取り、彼女はゆっくりと階段をあがっていった。

 ところが大きな驚きが彼女を待っていた。ミスタ・スルースの女主人は客間のドアを開けたとき、お盆を落としそうになった。実際、聖書のほうは落としてしまい、どしんと床に重い音をたてたのだった。

 新しい下宿人はミセス・バンティングの自慢のタネ、ヴィクトリア朝初期の美女を描いた、額入りの素敵な版画を全部裏返しにしていたのである!

 驚きのあまり彼女はとっさに声も出なかった。お盆をテーブルに置き、屈みこんで聖書を拾いあげた。聖書を落としたのは気まずかったが、しかしどうしようもなかった。お盆まで落とさなかったのが救いというものだ。

 ミスタ・スルースは立ちあがった。「か、勝手ですが、わたしの好みで、部屋のなかを変えさせてもらいましたよ」と彼はどぎまぎして言った。「そのう、ミセス、ええと、バンティング、ここに座っていると、あの女性たちの眼がわたしを見ているような気がしましてね。どうもいい気持ちがしないし、それどころか薄気味悪くなってしまって」

 女主人は小さなテーブルクロスを敷いているところだった。彼女は下宿人の言葉に返事をしなかったが、それももっともな話で、どう答えていいか分からなかったのだ。

 彼女が黙っているのでミスタ・スルースは不安になったようだ。長い沈黙のあと、彼はふたたびこう言った。

 「壁には何もないほうが好きなんですよ、ミセス・バンティング」やや動揺しているような話し方だった。「実をいうと、いつも何もない壁を見ていたので、そっちのほうが落ち着くんです」そのときようやく女主人は返事をした。静かな、なだめるような声で、どういうものか、それを聞いて彼も冷静さを取り戻した。「よく分かりますわ、旦那様。バンティングが戻ってきたら、絵を全部はずさせましょう。わたくしどもの部屋の壁にはたっぷり余裕がございますから」

 「ありがとう――感謝しますよ」

 ミスタ・スルースは大いにほっとしたようだった。

 「それから聖書をお持ちしました、旦那様。これでよろしゅうございますか」

 ミスタ・スルースはつかのま、目が眩んだように彼女を見つめた。それから気を取り直してこう言った。「ええ、ええ、その通りです。読むなら何と言っても聖書がいちばんです。どんな気持ちのときも、それからどんな身体の状態のときも、それにぴったりした一節が見つかりますからね」

 「さようでございますわね、旦那様」ミセス・バンティングは見るからにおいしそうな食事を置くと、部屋を出て静かにドアを閉めた。

 彼女は台所へ行って後片付けをするかわりに、まっすぐ居間へゆき、バンティングを待った。待っているとき、楽しい昔の思い出がよみがえってきた。はるか昔、彼女がまだエレン・グリーンと名乗り、ある老婦人の女中をしていたときのことだ。

 老婦人にはお気に入りの甥がいた。パリで動物画の勉強をしている頭のいい愉快な若者だった。ある朝、ミスタ・アルジャーノンは――ちょっと変わっているけれど、それが彼の洗礼名だった――有名なランドシーア画伯の美しい銅版画を六枚、平気な顔で裏返しにしてしまったのだ!

 ミセス・バンティングはその事件を昨日の出来事のように事細かにおぼえている。しかしそれでも何年も思い出したことはなかった。

 朝早く彼女は下に降りてきた――当時女中は今ほど大切にされておらず、彼女は女中頭と寝室が同じで、女中頭は仕事をするため朝早く下に降りなければならなかった――そして食堂でミスタ・アルジャーノンが版画のおもてを壁にむけているのを見つけたのだ!彼の叔母がとても大事にしていた絵だけに、エレンはひどく心配になった。優しい叔母を怒らせるなど、若き紳士にあるまじき振る舞いである。

 「まあ」彼女は狼狽して叫んだ。「何をなさっているんです」彼の楽しげな返事は今でも彼女の耳に残っている。「ぼくの義務を果しているんだよ、かわい子ちゃん」――彼は誰も聞いていないところではいつも彼女のことを「かわい子ちゃん」と呼んでいた。「朝昼晩と食事のとき、いつもこの半人半獣の化け物に見つめられてちゃ、ふつうの動物なんて描けやしない」ミスタ・アルジャーノンは小生意気な口調でそういったのだった。そして叔母が下に降りてきたとき、もっとまじめな、敬意を含んだ言い方だったけれど、この老婦人にも同じことを繰り返したのだ。いや、それどころか、いたって冷静な口調で、ランドシーア画伯の美しい動物を見ると眼がつぶれる、と断言したのだ!

 叔母は怒り心頭、彼に絵を元通りにひっくり返させた。結局、彼はそこにいるあいだ「半人半獣の化け物」に我慢して付き合わなければならなかった。椅子に座ってミスタ・スルースの奇妙な振る舞いについて考えていたミセス・バンティングは、はるか昔の青春時代に起きた愉快な出来事を思い出すことができてよかったと思った。それは新しい下宿人が一見そう見えるほど変人ではないことの証拠のように思えた。それでもバンティングが帰ってきたとき、彼女は下宿人の奇妙な行動について話をしようとしなかった。客間の絵を下におろすのは自分一人でも十分できると考えたのだ。

 自分たちの夕食を用意する前に、ミスタ・スルースの女主人は後片付けをしておこうと二階へ行った。すると階段をあがっている最中に物音が聞こえてきた。あれは話し声だろうか、客間で?ぎくりとして客間のドアの前で一瞬立ち止った。が、すぐにそれは下宿人が本を朗読する声だと分かった。抑揚をつけて読みあげられる言葉は、じっと聞き入る彼女の耳に何かとても恐ろしく響いた。

 「みだらな女は狭い井戸のようだ。彼女は盗びとのように人をうかがい、かつ世の人のうちに、不信実な者を多くする」

 彼女はドアの取っ手に手をかけたまま立ちつくしていた。ふたたび彼女のすくみあがった耳にあの奇妙に甲高い読経口調の声が聞こえてきた。「その家は陰府へ行く道であって、死のへやへ下って行く」

 それを聞いているとひどく背筋が寒くなってきた。しかしついに彼女は勇気を奮い起こし、ノックをすると部屋のなかに入った。

 「食器をお下げしましょうか、旦那様」ミスタ・スルースは頷いた。

 それから彼は立ちあがり、聖書を閉じた。「もう寝ようと思います。へとへとに疲れましたよ。長くてとてもくたびれる一日でした、ミセス・バンティング」

 奥の部屋に彼が消えると、ミセス・バンティングは椅子にのってミスタ・スルースの気分を害した例の絵をはずしだした。どの絵も壁に見苦しい跡を残したけれど――それくらいは仕方がなかった。

 彼女はバンティングに聞こえないよう足音をひそめ、二つずつ絵を下に運んでは自分のベッドの後に立てかけた。

第四章

 ミセス・バンティングは翌日の朝、実に、実に、久しぶりに、幸せな気分で目を覚ました。

 しばらくはどうしていつもとちがう気分でいるのか、わけが分からなかったが、次の瞬間、はっと思い出した。

 何という安心感だろう、二階の、ちょうど自分の頭の上に下宿人がいるということは。彼は、彼女がベーカー街のお屋敷のオークションでほくほくしながら買いこんだ上等のベッドに横たわっており、家賃として毎週二ギニーを支払ってくれる!彼女は何となくミスタ・スルースがいつまでも下宿してくれそうな気がした。そうならないとしても別に彼女の責任ではない。あの人の、何て言うのだろう、変人ぶりについて言えば、まあ、誰だって一つくらい妙な癖があるものだし。しかし起きあがって、時間がたつにつれ、ミセス・バンティングは少しずつ心配になってきた。というのは新しい下宿人の部屋から物音が一つも聞こえてこなかったからである。しかし十二時になると客間の呼び鈴が鳴った。ミセス・バンティングは急いで二階にあがった。ミスタ・スルースのご機嫌を取り、意を満たそうと、それはもう必死だった。なにしろ恐るべき破滅まであと半歩というところを彼に助けられたのだ。

 下宿人はとうに起きて身支度をすっかり調えていた。客間の真ん中にある丸テーブルに座り、女主人の大型聖書を前に広げていた。

 ミセス・バンティングが入ってくると顔をあげた。彼女はその疲れ切った表情が気になった。

 「コンコーダンスをお持ちじゃなかったですか、ミセス・バンティング?」

 彼女は首を横に振った。コンコーダンスが何か、見当もつかなかったが、そんなものがないことは確かだった。

 新しい下宿人はつづいて買ってきてほしい物を並べたてた。彼が持ってきた鞄には文明的生活に必要な小物――たとえば櫛とか剃刀とか歯ブラシ、そしてもちろん寝巻きなど――が入っているだろうと思っていたのだが、しかしどうやらそうではなかったらしい。ミスタ・スルースは今あげたようなものをみんな買ってきてほしいと頼んだからである。

 おいしそうな朝食を用意してから、ミセス・バンティングは彼がとりあえず必要としている品を急いで買いに出かけた。

 財布のなかにまたお金が入っているのだと思うと胸が躍った。それは他人のお金であるだけではない。今まさにこうして気持ちよく働き、自分のものにしようとしているお金でもあるのだ。

 ミセス・バンティングはまず近所の小さな床屋へむかい、櫛と剃刀を買った。妙な、きつい臭いのする店で、彼女は早々にそこを出た。彼女の注文を聞いた外国人が、二日前に起きた復讐者の猟奇的殺人、バンティングに病的な興味を抱かせたあの事件についてしきりに話しかけようとするものだから、なおさら長居するわけにはいかなかった。

 その話はミセス・バンティングの神経をかき乱した。このような日に痛ましい不愉快なことは考えたくなかった。

 家に帰り、買ってきた品々を下宿人に渡した。ミスタ・スルースはそのどれにも満足し、丁寧に感謝の意をあらわした。しかし寝室を整えましょうかと尋ねると、顔をしかめ、ひどく怒ったような色を浮かべた。

 「夕方まで待ってください」彼は急いで言った。「昼はずっとうちにいることにしているんです。明かりが灯るまで外を歩く気にならないんですよ。わたしは少々、ほんの少々、あなたが慣れていらっしゃる下宿人とちがうかもしれませんが、ミセス・バンティング、どうか我慢してください。それからお願いがあります。問題について考えているときは決して邪魔しないでください――」彼は急に言葉を切り、それから重々しく言い足した。「生と死にかかわる重大な問題ですから」

 ミセス・バンティングは快くその要望に応じた。ミスタ・スルースの女主人は、その几帳面な態度と規律にうるさい性格にもかかわらず、女性らしい女性だった。つまり男の気まぐれや奇癖に対して限りない忍耐力を持っていたのだ。

 もう一度下に降りたとき、驚きがミスタ・スルースの女主人を待ち受けていた。しかしそれはいたって嬉しい驚きだった。上で下宿人と話しているあいだに、バンティングの若い友達、刑事のジョー・チャンドラーが訪ねてきたのだ。居間に入ろうとしたとき、夫がテーブル越しにジョーにむかって十シリングを押しやるのが見えた。

 ジョー・チャンドラーのハンサムで気さくな顔が満足に輝いていた。お金が返ってきたからではない。どうやらバンティングが話していた知らせ――理想的な下宿人があらわれ、突然彼らにすばらしい運がむいてきたというニュース――を聞いて喜んでいたのである。

 「ミスタ・スルースはお出かけになるまで寝室の整理をしてほしくないんですって!」と彼女は大きな声で言い、一休みしようと椅子に腰をおろした。

 下宿人は朝食をおいしく食べており、彼女はほっと一息ついた。しばらくは彼のことを考える必要はない。あと少ししたら、下に降りて自分とバンティングのディナーを作ろう。彼女はジョー・チャンドラーに、いっしょに食事をしていけばいいわ、と言った。

 彼女は若者をやさしくもてなしたかった。ミセス・バンティングはめったに襲われたことのない気分――目にするものすべてに喜びを感じる気分になっていた。いや、それだけではない。バンティングがジョー・チャンドラーにあの忌まわしい復讐者の殺人の最新情報を求めたとき、おざなりにではあったけれど、彼の話に最後まで聞き入ったのである。

 バンティングがその日の朝からまた取りはじめた朝刊は、今やロンドンじゅうで話題になり出している奇怪な謎を三段にわたって報じていた。バンティングは朝食を食べているときその記事の一部を読みあげ、ミセス・バンティングは思わず身震いするような興奮を感じたのだった。

 「噂によると」とバンティングは用心深く前置きして言った。「噂によるとだね、ジョー、警察は手がかりをつかんでいるけど、発表しようとしないんだって?」彼は期待するような目で訪問者を見つめた。バンティングにとって、チャンドラーがロンドン警視庁の刑事であるという事実は、この若者に一種不吉な栄光を帯びさせているのだ。とりわけ今、身の毛もよだつ、謎に満ちた犯罪が、この都市を驚愕と戦慄に陥れているときは。

 「そりゃちがいますよ」とチャンドラーはゆっくりと言った。当惑したような、憤慨するような表情が感じのいい冷静な顔にひろがっていった。「警視庁が手がかりをつかんでるなら、ぼくも大助かりですけど」

 ミセス・バンティングが口をはさんだ。「どうしてなの、ジョー」彼女は優しくほほえんだ。若者の仕事熱心な態度を彼女は好ましく思っていた。ジョー・チャンドラーは彼らしい、ゆっくりした、着実なやり方で、ひたむきに、真剣に仕事に取り組んだ。職務に全身全霊を傾けていたのである。

 「うん、実をいうと」と彼は説明した。「今日からぼく、この事件の捜査に加えられたんです。ミセス・バンティング、警視庁はいらだってますよ、実際。ぼくらは、それこそ、みんな必死です。このまえ事件が起きたとき、通りで交通整理をしていた巡査にはまったく同情しますよ」

 「本当かね!」バンティングは信じられなそうに言った。「警官がいたのかい?現場のすぐ近くに」

 この事実は新聞では報じられていなかった。

 チャンドラーは頷いた。「その通りですよ、ミスタ・バンティング!彼はくやしくて気が狂いそうだって話です。叫び声は聞こえたんだけど、注意を払わなかったんですって。ほら、ロンドンのあの辺りじゃ叫び声なんて珍しくないですから。ああいう貧民窟じゃいつも喧嘩やいさかいが起きてるんです」

 「通り魔が名前を書いた灰色の紙を見たかい」バンティングは熱心に尋ねた。

 三角形の灰色の紙が、犠牲者のスカートにピンで留められ、そこに赤い無骨な活字体の字で「復讐者」と書きしるされていた、という噂が大衆の想像力を激しくかきたてていた。

 丸い、肉付きのいい顔は答えを聞きたくてうずうずしていた。両肘をテーブルについて期待するように若者を見つめている。

 「ええ、見ましたよ」とジョーは短く答えた。

 「妙ちきりんな名刺だねえ!」バンティングは笑った。その思いつきがおかしくてたまらなかった。

 しかしミセス・バンティングは顔色を変えた。「冗談を言うようなことじゃありません」と彼女はたしなめるように言った。

 チャンドラーは彼女のほうに加勢した。「ほんと、冗談じゃありませんよ」と彼はしみじみと言った。「この仕事で見せられたものは忘れられそうにありません。あの灰色の紙切れですがね、ミスタ・バンティング――いや、三枚の灰色の紙切れですがね」と彼は急いで言い直した。「今、警視庁にあることは知っているでしょう――あれは鳥肌ものですよ!」

 そう言って彼は飛びあがった。「そうだ、こんなふうに楽しく時間をむだにしているわけにはいかない」

 「一口でもディナーを食べていかない?」とミセス・バンティングはしきりに誘った。

 しかし刑事は首を振った。「いいえ。出かける前に食べてきたんです。ぼくらの仕事は変わった仕事なんですよ。大体のことは、何て言うか、自由にやっていいんだけど、でも怠けている暇もないんです、本当に」

 彼はドアのところで振り返り、いかにも何気ないふうをよそおって「ミス・デイジーはまた近々ロンドンに来ないんですか」と訊いた。

 バンティングは首を振ったが、顔は輝いていた。彼は一人娘が可愛くてたまらなかったのである。めったに会えないことが残念だった。「いいや。予定はないよ、ジョー。わたしらが『伯母さん(オールド・アーント) 』と呼んでる例のご老人がなかなか手もとから離そうとしないのさ。娘が六月に一週間うちに泊まったときは、気が気でない様子だったからなあ」

 「そうですか。じゃ、さようなら!」

 妻が彼らの友人を送り出すと、バンティングが愉快そうに言った。「ジョーはうちのデイジーに気があるみたいだね、エレン」

 しかしミセス・バンティングは蔑むように首を振った。彼女は娘が嫌いなわけではない。ただ伯母さん(オールド・アーント) がバンティングの娘を教育する仕方は賛成できなかった。甘やかすだけの、役に立たないしつけ方で、彼女自身が孤児院で受けた教育とはまるっきりちがう。ミセス・バンティングは子供のとき、思いやり深いキャプテン・コーラム(註 十八世紀英国の慈善家。ロンドンに孤児院を設立)が与えてくれた家と家族以外は、どんな家も家族も知らなかった。

 「ジョー・チャンドラーはしっかりしているもの、まだしばらく女の子のことなんか考えたりしないわ」と彼女は辛辣に言った。

 「ああ、そうだね」とバンティングは同意した。「時代が変わったんだなあ。おれが若かった頃は、そのことばっかり考えていたが。なに、ちらっとそんな気がしただけさ、やっこさんがそわそわと娘のことを訊くもんだから」

******

 街灯が輝き出す五時頃、ミスタ・スルースは外出した。その晩、二つの小包が女主人の元に届けられた。どちらにも衣類が入っていたが、しかしミセス・バンティングが見るところ、新品でないことは明らかだった。どうやらいい品を置いている古着屋で買ったものらしい。ミスタ・スルースのような本物の紳士がこんなことをするとはおかしい。それはなくした荷物は戻らないと、すっかり断念したことを意味していた。

 下宿人が出かけるとき、鞄は持っていなかった。ミセス・バンティングは自信を持ってそう言える。しかし部屋のなかを隈なく探してもその隠し場所が分からなかった。彼女が頭の切れる、記憶力のすぐれた女性でなかったら、さんざん調べたあげくに、こう思いこんでいたかもしれない。あんなものはなかったのだ、あると想像していただけなのだ、と。

 しかし、そんなはずはないのだ!彼女は奇妙で怪しげな見かけのミスタ・スルースがはじめて玄関の入り口に立ったときのことをはっきりとおぼえている。

 さらに最上階の居間で鞄を置き、ついぼんやりしてそのことを忘れてしまった彼が、怒りと恐怖の入り混じった声で、鞄はどこだと食いかかるように彼女に尋ねたこともおぼえている。鞄は何事もなく足元に置かれていたというのに!

 時間がたつとともに、ミセス・バンティングはあの鞄のことがやけに気になり出した。というのは、奇怪な、驚くべき事実なのだけれど、彼女はミスタ・スルースの鞄をそれ以後二度と見かけることがなかったからである。もちろん鞄がどこにあるかは、すぐに見当がついた。ミスタ・スルースが到着したあの午後、唯一の荷物であったあの茶色の革鞄は、まずまちがいなく、客間の飾り棚の下の引き出しに鍵を掛けてしまいこまれているはずだ。ミスタ・スルースは部屋の隅の小さな棚の鍵をいつも肌身離さず持ち歩いているようだった。ミセス・バンティングは鍵も丹念に探しまわったけれど、結果は鞄のときと同じで、影も形もなかった。彼女はそのどちらも二度と目にすることがなかったのである。

第五章

 それからの数日はどれほど静かに、どれほど平穏無事に、どれほど楽しく過ぎていっただろう。すでに日々の生活に一定のリズムが生まれつつあった。ミスタ・スルースのお世話はミセス・バンティングが疲れることなく、余裕を持ってすることができるちょうどいい仕事だった。

 下宿人が一人の人だけに世話されることを望んでいることはすぐに明らかになった。その人とはすなわち女主人である。彼は少しも手がかからなかった。もちろん下宿人の世話は彼女の気分を溌剌とさせた。彼が普通の紳士とちがうということさえ彼女にとってはよいことだった。なぜなら変人であるという事実は常に彼女に一種愉快な気分を与えていたからである。それにいくら変人であっても、ミスタ・スルースは例の不快ないまいましいわがまま、下宿のおかみさんならいやと言うほどよく知っている、下宿人だけに特有らしいわがままを言わなかった。だからなおのこと楽しくお世話ができたのである。一つだけ彼の癖を挙げると、ミスタ・スルースはむやみに早く起こされることを好まなかった。バンティングとエレンはかなり朝寝坊するようになった。下宿人のお茶の用意に、七時とか、いや七時半にだって起きる必要がないというのは大助かりである。ミスタ・スルースが十一時前に何かを所望することはめったになかった。

 しかし彼が変わり者であることにちがいはなかった。

 下宿して二日目の晩に、ミスタ・スルースは「クルーデンのコンコーダンス」という奇妙な題の本を持ち込んだ。それと聖書が――ミセス・バンティングはこの二つの本が関連していることにやがて気がついた――下宿人が読む唯一の本であるらしかった。彼はたいてい昼食を兼ねた朝ごはんのあと、毎日数時間は旧約聖書とあの奇妙な事項索引みたいなものを熟読していた。

 取り扱いの厄介な、しかし何よりも重要なお金の問題に関して、ミスタ・スルースはまさに理想的な下宿人だった――鬼のように厳しく家賃を取り立てるおかみさんも、これ以上好ましい下宿人は望めなかっただろう。またこれほど人を信じて疑わぬ紳士もいなかった。下宿人となった最初の日に、彼は持ち金を――ソブリン金貨で百八十四ポンドというとてつもない大金を――小分けにして少々汚れた新聞紙にくるみ、化粧テーブルの上に放り出していたのである。これにはミセス・バンティングもあわてふためいた。うやうやしい口調でそんなことをするのは非常識である、まちがってさえいると諌めた。しかしそれに対して彼は笑うだけだった。彼女は相手の薄い唇から大きな、異常なくらい耳障りな音が飛び出したのでびっくりした。

 「わたしだって相手が信頼できるかどうかくらい、見分けられます」感激したときの癖でいささかどもるように彼は返答した。「それに――それに、ミセス・バンティング――とくに女性の場合はそうなんですが」(と、彼は音をたてて息を吸い込んだ)「わたしは話しかけなくても、眼の前にいる人がどんな人か、ちゃんと分かるんです」

 下宿人が女性に対して奇妙な恐怖と嫌悪を抱いていることはじきに女主人にも分かってきた。階段や踊り場を掃除しているとき、ミスタ・スルースが聖書のなかから女性に対して極めて無礼な一節を読みあげているのがしばしば聞こえた。しかしミセス・バンティングは同胞である女性をさして評価していなかったから、そんなことでは腹を立てなかった。それに下宿人の場合、女性を嫌ってくれたほうが……そうじゃない場合より、都合がいいのである。

 いずれにせよ、下宿人の奇癖を気にして何になるというのか。もちろんミスタ・スルースは変人である。バンティングがおもしろおかしく言ったように「ちいっとおつむがゆうるゆる」でなければ、こんなところで、こんな奇妙な、ひとりぼっちの下宿生活などしなかっただろう。親族とか同じ階級の友達とまったくちがう暮らしをしていただろう。

 ミセス・バンティングはあるときそれまでのことを振り返り――想像力にはなはだ欠けた人間でも、何らかの理由で強く記憶に残る昔の出来事を思い返すものだ――下宿人がそれこそ草木も眠るような夜更けに家をこっそり出て行くことに気づいたのは、いつのことだったろうと思った。

 彼女の思い込みによると――わたしははたして彼女の思った通りであったか疑問を感じるのだが――ミスタ・スルースの不思議な夜の習慣に気づいたのは、あるひどく奇妙な事実を発見した日の、たまたま前の晩のことだった。このひどく奇妙な事実とはミスタ・スルースの三着ある服のうち、一着が完全に消えてなくなったという事実である。

 人がある出来事の一部始終をおぼえていないのは当然だが、しかしどんなに時が経ってもそれが起きたのが何日の何時何分だったかまでおぼえているというのは、いつもながらわたしには理解のできない驚嘆すべきことである!ミセス・バンティングでさえ、ミスタ・スルースが夜中の二時に家を出て、五時になってようやく戻ってくることに気づいたのが、彼女の家で寝泊まりするようになって五日目の夜のことだったのか、それとも六日目の夜のことだったのか、あとからいくら考えても決しかねたのだった。

 しかしそういう夜があったことはまちがいない。その発見と符牒を合わせるように、のちのちまで印象に残るさまざまな事件が起きたということも、同じようにまちがいのないことである。

******

 あたりは漆黒のような闇に包まれ、物音一つしなかった。夜中のいちばん暗く静まりかえった時間である。夢も見ずにぐっすり眠っていたミセス・バンティングは思いも寄らぬ、しかし聞き慣れた音にふと目を覚ました。音の正体はすぐに分かった。ミスタ・スルースの足音だ。最初は階段を降り、ついで忍び足で――まちがいないわ、忍び足で歩いている、と彼女は思った――彼女のドアの前を通り、最後にそっと玄関のドアを閉めて出ていったのだ。

 ミセス・バンティングは懸命に寝ようとしたのだが、眠りは二度と訪れなかった。バンティングまで起こしたくはなかったので、ぱっちりと目を開けたまま横になっていた。そして三時間後、ミスタ・スルースがこそこそと家のなかに戻り、二階の寝室へあがっていく音を耳にしたのである。

 その時になってはじめて彼女はふたたび寝ることができた。しかし朝が来てもひどく疲れが残っていて、バンティングが優しく買い物に行ってこようかと言ってくれたときは心の底から喜んだ。

 この善良な夫婦は、食事に関してミスタ・スルースの要求を満たすのは容易でないことにすぐ気がついた。彼はいつも満足そうなふりをしているだけなのだ。この完璧な下宿人は、下宿を営む側から言わせると一つだけ重大な欠点を持っていた。何とも妙な話だが、彼は菜食主義者だったのである。肉類は一切受け付けない。ときどきは主義を曲げて鶏肉を食べることもあるようだが、そのようなときはバンティング夫婦もぜひいっしょにと惜しみなく食事を分かち合おうとした。

 さて、その日――これから起きる出来事がミセス・バンティングの心にいつまでも、生々しく刻み込まれることになるのだが――ミスタ・スルースは昼に魚を食べ、残したものは簡単な夜の食事として調理し直されることになっていた。

 バンティングは人付き合いがよく、馴染の店でおしゃべりするのが好きだから、一時間は戻ってこないだろう。ミセス・バンティングはゆっくりと起きあがって身支度を調えることにした。それから居間の整理をはじめた。

 安眠を妨げられると次の朝は誰でもそうなるように、彼女も身体がだるくて元気がなかった。だからミスタ・スルースが十二時前に呼び鈴を鳴らすことはまずないだろうと思うとほっと安堵するのだった。

 ところが十二時にはまだだいぶ間があるというのに、突然大きなベルが静かな家に響き渡った。玄関のベルだ、と彼女は思った。

 ミセス・バンティングは顔をしかめた。きっと古い瓶とかそういうものを集めてまわる、いまいましい連中の一人にちがいない。

 彼女は仕方なくゆっくりとドアへむかった。するとその顔がぱっと明るくなった。外に立って待っていたのはジョー・チャンドラー青年だったのだ。

 湿った霧のなかを急いで歩いてきたみたいに少々荒い息づかいをしている。

 「どうしたの、ジョー」とミセス・バンティングは驚いて尋ねた。「入りなさい、さあ!バンティングは外出しているけど、もうすぐ戻るわ。ここ何日か顔を見せなかったわね」

 「ええ。でも、理由はごぞんじでしょう、ミセス・バンティング――」

 彼女はどういう意味だろうと一瞬相手の顔を見つめた。そしてはっと思い出した。そうだわ、ジョーは今、大切な仕事をしていたんだわ。復讐者を捕らえるという大仕事を。ふたたび購読しだした半ペニーの夕刊からあれこれ記事を読みあげてくれたとき、夫は何度も何度もそのことを口にのぼしていた。

 彼女は居間へと彼を導いた。バンティングが出かける前に火をいれておいてくれたのは有り難かった。部屋が気持ちよくぬくもっていたからである。しかも外はひどい天気だ。彼女は玄関に一秒立っていただけで、身体の芯まで冷えてしまったような気がした。

 そう感じたのは彼女だけではなかった。というのはチャンドラーがバンティングの安楽椅子にどっかと腰をかけながら「ああ、助かった。外の寒さはたまらないですよ!」と言ったからである。

 若者は寒いだけでなく疲れてもいるようだ、とミセス・バンティングは思った。いつもの健康そうな日焼けした顔――野外で活動することが多い男の顔――が青ざめ、ほとんど生気まで失いかけていた。

 「お茶を一杯淹れてあげるわね」と彼女は気遣うように言った。

 「いやあ、そうしてもらえるとすっごく嬉しいです、ミセス・バンティング!」それから彼はあたりを見まわし、もう一度彼女の名前を呼んだ。「あの、ミセス・バンティング――?」

 その声がいつもとまるでちがう、いやにしゃがれた声だったので、彼女はすばやく振り返った。「何かしら、ジョー」そして急に怯えたように「まさかバンティングに何かあったんじゃないでしょうね。事故にあったんじゃないでしょうね」と言った。

 「とんでもない!何だってそんなことを考えるんです?でも――でも、ミセス・バンティング。また起きたんですよ!」

 彼は声を落としてささやくように言った。その眼は元気がなく、すっかり怯えているように見えた。

 「また起きた?」彼女はとまどい、うろたえたように彼を見た。とっさにその意味が頭にひらめいた。「また起きた」というのはあやしく謎に満ちた、例のおどろおどろしい殺人のことだ。

 しかし安堵感のほうがあまりにも大きかったため――彼女はバンティングの悪い知らせを聞かされるものと、一瞬、本気で思いこんだのだ――それを聞いて彼女はかえって喜びを感じたくらいだった。もっともその事実をいきなり知らされていたら、大きな衝撃を受けていただろうけれども。

 ミセス・バンティングはいつもの彼女に似合わず、ロンドンの庶民の想像力を支配しているこの驚くべき連続犯罪に強い関心を抱くようになっていた。彼女の上品ぶった心でさえ、この二日か三日のあいだは、バンティングがしきりに語りかける奇怪な事件のことをずっと考えつづけていたのだ。バンティングは経済的な心配が消えた今、「復讐者」とその犯行に露骨で熱狂的な興味を示し、恬として恥じる様子がなかった。

 彼女はガスコンロからやかんをおろした。「バンティングがいないのは残念ね」とほっと息をつきながら彼女は言った。「あなたが知っていることをみんな聞き出そうとしたでしょうに、ジョー」

 そう言いながら、小さなティーポットにお湯を注いだ。

 しかしチャンドラーが何も言わないので、彼女は振り返って彼を見つめた。「まあ、気分が悪そうね!」と彼女は大声を出した。

 実際、若者は顔色が悪かった――それもひどく悪かった。

 「しょうがないですよ」と彼は苦しそうに言った。「知ってることみんなって言われて、気分が悪くなっちまったんです。ぼくは今度の事件で最初に現場に行った人間の一人なんですが、いや、もう、胸が悪くなりましたよ、本当に。あれはひどすぎる、ミセス・バンティング!その話はやめましょう」

 彼はまだよく出ていないお茶をがぶがぶ飲みはじめた。

 彼女は同情するように彼を見ていた。「そうだったの、ジョー。恐ろしい光景はたくさん見ているでしょうに、そのあなたがそんなに動揺するなんてねえ」

 「今度のは今までとはぜんぜんちがうんです。それに、それに、ああ、ミセス・バンティング、今回あの紙を見つけたのはぼくなんです」

 「じゃあ、あれは本当だったのね」彼女は熱をこめて言った。「復讐者が残した紙切れなのね!バンティングは紙切れは復讐者が残していったんだっていつも言っていたわ。誰かが悪い冗談に置いていったんじゃないって」

 「ぼくはいたずらだと思ってましたよ」チャンドラーはしぶしぶといった調子で打ち明けた。「変なやつがいますからね、その――」(彼は声を落とし、壁に耳があるかのようにまわりを見た)「警察のなかにも。だからぼくら、この連続殺人にはぴりぴりしてるんです」

 「まさか、そんなこと!警官がそんなことをすると思う?」

 彼はいらいらと頷いた。まるでそんな質問には答える価値がないとでも言うかのように。「その紙切れを仏さんがまだ温かいときに」――彼は身震いした――「ぼくが見つけたんで、それで今朝、ウエスト・エンドへ行ったんですよ。ボスの一人が近くのプリンス・アルバート・テラスに住んでいて、報告しなけりゃならなかったから。そしたら食べ物も飲み物も何も出してくれないんですよ。一口くらい食べさせてくれたっていいのに。そう思いませんか、ミセス・バンティング」

 「ええ、ええ」と彼女はぼんやりといった。「そう思うわ」

 「でも、そんなこと言っちゃまずいかな。化粧室に案内してくれて、報告しているあいだはとっても思いやりのある言葉をかけてくれました」

 「今、何か食べる?」彼女は突然言った。

 「いや、いりません。何も食べられませんよ」と彼は慌てて言った。「もう二度と食事なんかできそうもないや」

 「それじゃ病気になっちゃうわ」ミセス・バンティングは多少睨むようにして言った。彼女は分別のある女性だった。彼はご機嫌を取るため、彼女が切ってくれたバターつきのパンを一口食べた。

 「あなたの言う通りだな。これからきつい一日がはじまるんだから。四時に起きて――」

 「四時?」と彼女は言った。「じゃ、四時なの、その――」彼女はつかのまためらった。「そ、それが見つかったのは?」

 彼は頷いた。「たまたまぼくが近くにいたんです。あと三十秒早かったら、ぼくか、被害者の女を見つけた警官か、どっちかがあの――あの魔物みたいなやつと鉢合わせしていたかもしれません。でもこっそり立ち去る犯人の姿を二三人の人が見てるんです」

 「犯人てどんな感じ?」彼女は興味津々だった。

 「そりゃ、難しい質問だな。霧がひどかったんで。でも一つだけ全員の証言が一致しています。やつは鞄を持っていました――」

 「鞄?」ミセス・バンティングは声をひそめて繰り返した。「どんな鞄なの、ジョー」

 彼女はぞくっと――ちょうど身体の真ん中あたりに――奇妙な感覚、変な震えというか、戦慄が走るのを感じた。

 なぜなのか、理由はさっぱりわからなかったけれども。

 「ただの手提げ鞄」とジョー・チャンドラーは曖昧に言った。「ぼくが、その、取り調べで話した女は、絶対犯人を見たって、こんなふうに言ってるんです。『背の高いやせた影――そうよ、背の高いやせた男の影――鞄を手に持ってた』ってね」

 「鞄を手に持ってた?」ミセス・バンティングはぼんやりとその言葉を繰り返した。「何ておかしな、変な話――」

 「いいえ、ちっともおかしくないですよ。兇器を入れる入れ物が必要なんですよ、ミセス・バンティング。ぼくらはやつがどうやって兇器を隠したのか、いつも不思議に思っていました。ナイフとかピストルなんかは、たいてい捨てちまうじゃないですか」

 「そうなの?」ミセス・バンティングはぼんやりした、不思議そうな調子でしゃべった。彼女は下宿人が鞄をどうしたのか、本気で突き止めなければならないと考えていた。物忘れの激しい紳士だから、単になくしてしまったということも大いにありうる――いや、考えてみたら、その可能性のほうが高いだろう。彼女も知っているけれど、彼はリージェント・パークへ行くのが好きだから、その折にでもなくしたのではないか。

 「人相書きが一二時間後に出回ります」とチャンドラーはつづけた。「たぶん犯人逮捕の役に立つでしょう。ロンドン子なら男も女も何とかしてやつを捕まえて牢屋に入れたいと思ってるだろうし。さあ、そろそろ行かなくちゃ」

 「もうちょっとしたらバンティングが戻るけど」彼女はためらうように言った。

 「いや、時間がないです。でも、たぶん、またお邪魔しますよ。今晩か明日か。そのとき事件のことをもっと詳しく話します。お茶をありがとうございました。生き返りましたよ、ミセス・バンティング」

 「死ぬほど忙しいみたいね、ジョー」

 「ええ、まったくその通りです」彼は重苦しく答えた。

 数分後にバンティングは帰宅し、妻とのあいだにちょっとしたいさかいを起こした。ミスタ・スルースが下宿人になってから初めてのいさかいだった。

 それはこういう具合に起きた。バンティングは誰が家に来ていたかを知ると、その朝起きた恐ろしい事件について、どうしてジョーから詳しいことを訊き出さなかったのだと、ミセス・バンティングに腹を立てたのである。

 「まさか、エレン、現場がどこかも知らないのか」彼は憤慨して言った。「おまえのせいでチャンドラーはしゃべる気をなくしてしまったんだ――そうにちがいないぞ!いったい何のためにあいつがここに来たんだと思う。わたしらに事件の話しをするために決まってるじゃないか」

 「あの人は腹ごしらえに寄ったのよ」ミセス・バンティングはかみつくように言った。「かわいそうにお腹が減っていたんじゃない。事件の話しだってできなかったんだから――気分が悪くて。実際、この部屋に入ってきて椅子に座るまで一言もしゃべらなかったのよ。あれだけ話してくれたら十分だわ!」

 「殺人者が名前を書いた紙切れは四角だったか、三角だったか、言ってなかったか」とバンティングが訊いた。

 「言わなかったわ。そんなこと、訊きたくもない」

 「まったく馬鹿だな!」と言って、彼は急に言葉を切った。新聞の売り子たちがメリルボーン通りにやって来て、その日の朝の凶行、復讐者の五番目の殺人が見つかったと叫んでいたのだ。バンティングは新聞を買いに外に出かけ、妻は夫が買ってきたものを下の台所へ持っていった。

 新聞の売り子の騒々しい声がどうやらミスタ・スルースを起こしたらしい。女主人が台所に入って十分と経たぬうちに呼び鈴が鳴った。

第六章

 ミスタ・スルースの呼び鈴がふたたび鳴った。

 朝食の仕度はすっかりできていたけれど、ミセス・バンティングは彼が下宿人になってからはじめて呼び出しにすぐに応じなかった。しかしもう避けられない二回目の鈴の音がしたときは――その古風な家に電気のベルは取り付けられていなかった――決心して二階へあがった。

 台所の階段から玄関広間へ出ると、居間の椅子にゆったりと腰かけていたバンティングが食事を満載したお盆を持つ妻の重い足音を聞きつけた。

 「待て待て、手伝うよ、エレン」と彼は叫び、部屋から出てきてお盆を受け取った。

 彼女は何も言わず、いっしょに客間の階にあがっていった。

 階段をあがりきると、彼女は夫を制止した。「ほら」彼女は早口にささやいた。「それを渡して、バンティング。下宿人はあなたがなかに入るのを好まないから」彼が言われた通り、また下に降りようとすると、彼女はいささかとげとげしい口調でこう付け加えた。「ドアくらい開けてくれてもいいじゃない!こんなに重いお盆を持ってどうやって開けろというのよ」

 彼女が妙に興奮した声を出すので、バンティングは驚き――幾分腹が立った。エレンはいわゆる陽気で愉快な女ではないが、今のように物事がうまくいっているときは概して非常に落ち着いているのだ。まだ根に持っているのだろうか、チャンドラー青年や、復讐者の新たな殺人について言い争ったことを、と彼は思った。

 しかし彼はどんなときも争い事を好まない。というわけで彼は客間のドアを開けてやり、ミセス・バンティングは彼が下に降りはじめると、さっそく部屋のなかに入っていった。

 たちまち奇妙な安堵感が彼女を襲い、気が軽くなるのを感じた。

 下宿人はいつも通り例の場所に座って聖書を読んでいる。

 どういうものか――理由は求められても説明できなかっただろうし、心のなかで考えるのもいやだったろうが――彼女は別人のようなミスタ・スルースを目にするのではないかと思っていたのである。しかし、そんなことはなかった。彼はまったく変わっていない。それどころか彼が目をあげたとき、いつも以上に感じのいい笑顔がほっそりした、青白い顔を輝かしたのである。

 「ああ、ミセス・バンティング」彼は愛想よく言った。「今朝は寝過ごしてしまいました。でもおかげで気分がいい」

 「それはようございました、旦那様」と彼女は低い声で答えた。「以前お仕えしておりました奥様がよくおっしゃっておりました、休息は古い治療法だけれど、いちばん効果があるって」

 ミスタ・スルースは邪魔にならないよう聖書とクルーデンのコンコーダンスをテーブルからどけ、立ちあがって女主人がテーブルクロスを広げるのを見ていた。

 突然彼はまた話しかけた。朝はあまり口数の多いほうではないのだけれど。「ミセス・バンティング、たった今、ドアの外に誰かがいたんじゃありませんか」

 「さようでございます、旦那様。バンティングがお盆を持つのを手伝ってくれまして」

 「だいぶご迷惑をかけているようですね」と彼は口ごもるように言った。

 しかし彼女の返事はすばやかった。「とんでもございません、旦那様!つい昨日ですけど、旦那様のように手のかからない下宿人ははじめてだと話していたんです」

 「それはよかった。自分の習慣が人と変わっていることは分かっているんですが」

 彼はじっと彼女を見た。まるでこの発言に対して彼女から否定の言葉を期待しているように。しかしミセス・バンティングは真面目な、正直な女だ。相手の言葉に異議を唱えるなど思いも寄らないことだった。ミスタ・スルースの習慣はいささか変わっている。真夜中の外出ひとつをとってもそうではないか。そう思って彼女は黙っていた。

 下宿人の朝食をテーブルに置いて、彼女は出ていこうとした。「お出かけになるまでお部屋の片づけはしないほうがよろしゅうございますか、旦那様」

 ミスタ・スルースは鋭く彼女を見あげた。「ええ、しないでください」と彼は言った。「聖書の研究をしているときは部屋の片付けをしてほしくありません、ミセス・バンティング。しかし今日は出かけません。少々手のこんだ実験をするつもりです――上の階で。出かけるとしても」彼はちょっと躊躇し、またもや彼女をじっと見つめた。「――夜になるでしょうね」それから元の話題に戻って急いでこう言い足した。「そうですね、わたしが上に行ったら片付けをしてもいいですよ。五時くらいですが。時間の都合はどうです、それで」

 「ええ、旦那様、結構でございます」

 ミセス・バンティングは下に降り、降りながら自分に無言の、仮借ない非難を浴びせかけた。しかし彼女はどうしても――心の内奥においてさえ――彼女をあれほど震えあがらせた奇怪な戦慄を直視することができなかった。彼女はただ何度も何度も心のなかで「混乱したのよ――それだけのことよ」と思った。それから声に出して「今度外出したとき、薬屋でお薬をもらわなくっちゃ。必ず」と言った。

 彼女が「必ず」とささやいたとき、玄関からノックする音が大きく二回響いてきた。

 たかが郵便屋のノックなのだが、しかしこの家に郵便屋が来ることはまれだった。ミセス・バンティングは思わずぎょっとなった。わたし、神経質になっている、いやだわ――彼女は怒ったように独りごちた。あれはミスタ・スルース宛の手紙にちがいない。この世のどこかに親戚か知り合いがいるに決まっている。家柄のよい人々はみんなそう。しかし玄関の床から小さな封筒を拾いあげたとき、それが夫の娘、デイジーから来たものであることを知った。

 「バンティング!」彼女は鋭く呼びかけた。「手紙よ」

 彼女は居間のドアを開けてなかを覗きこんだ。ああ、ここにいる。安楽椅子に気持ちよさそうにもたれかかり、新聞を読んでいる。その広い、やや丸まった背中を見ていると、ミセス・バンティングは突然、強いいらだちを感じた。あの人ったら、何にもしないで――いや、何もしないどころか、あのいやらしい犯罪の記事ばかり読んで時間をむだにしているんだわ。

 彼女は知らず知らずのうちに長いため息をついていた。バンティングは怠け者になりつつある。彼の歳の男にとってかんばしからぬ道に踏み込もうとしている。でもどうやったらそれが防げるだろう。二人が知り合った頃は、とても活動的で良心的な男だったのに……。

 彼女もカンバーランド・テラス九十番地の食事室で、二人がはじめて出会ったときのことをおぼえている。しかもバンティングより鮮明に。そこで奥様のグラスにポートワインを注いでいるとき、彼女は仕事に集中しているふりをしながら、実は目の隅から窓際に立つ、きりりとした身なりの、堂々たる男を見ていたのだ。彼の姿は前任者よりどれほど立派に見えたことだろう!そのときすでに彼女は、この人が執事を引き継いでくれればいいのに、と思っていたのだ。

 今日はいつもの調子でないせいか、昔のことがやけに生き生きと眼の前に浮び、胸に熱いものがこみあげてくる。

 夫宛の手紙をテーブルに置き、そっとドアを閉めると台所へ降りていった。自分たちのディナーを作るだけでなく、いろいろと片づけたり掃除しなければならない。台所にいるあいだはずっと、バンティングとバンティングの問題について執拗に、徹底的に考えつづけた。夫をふたたび正しい道に引き戻すにはどうしたらいいのだろう、と。

 ミスタ・スルースのおかげで、今や将来の見通しはそこそこ明るいものになった。一週間前は何もかもが絶望の淵にあった。破滅という穴に真っ逆さまに落ちるしかないと思われていたのだ。それが今、状況は一変した!

 ベーカー通りに行って職業紹介所の新しい所長に会ったほうがいいかもしれない。あそこは最近、所有者が代わったから。バンティングは臨時の仕事でもかまわないから働きに出たほうがいい――いや、今ならほとんど常雇いみたいな給仕の仕事だってできるはず。ミセス・バンティングは男がいったん怠け出すと、更生させるのは容易でないことを知っていた。

 ようやく上に戻ったとき、彼女はそれまで自分が考えていたことを恥ずかしく思った。バンティングはテーブルにテーブルクロスをきれいにかけ、椅子を二脚、引き寄せておいてくれたのだ。

 「エレン?」彼はいそいそと言った。「いい知らせがあるんだ!デイジーがあした来るんだよ!むこうの家の人が猩紅熱にかかってね。伯母さん(オールド・アーント) が、しばらく家を出ていたほうがいいだろうって言うんだ。それで誕生日はこっちで過ごすことになった。十八だよ、十九日が来たら。おれも歳を取ったなあ、まったく!」

 ミセス・バンティングはお盆を置いた。「今うちにあの娘を置くわけにはいかないわ」と彼女はすぐに言った。「わたしは手一杯よ。あの下宿人のお世話はあなたが思っている以上に大変なんだから」

 「何言ってるんだ!」と彼は強く言い返した。「下宿人のお世話ならおれも手伝うさ。手伝ってくれってどうして言わなかったんだい。もちろんデイジーはここに来なきゃならんよ。ほかに行き場所なんかないんだから」

 バンティングは好戦的な気分だった――はしゃぎまわりたいくらい上機嫌だった。しかし妻の顔を見ると、満足感は消えてなくなった。今日のエレンはげっそりやつれて見える。具合が悪そうだ。具合が悪いだけじゃなく、恐ろしく疲れてもいるようだ。そういう顔をされると無性に腹が立った――ちょうど仲直りしはじめたところだというのに。

 「それに」と彼は突然言った。「デイジーはおまえの仕事を手伝ってくれるぞ、エレン。彼女が来たらうちも少しは活気が出るさ」

 ミセス・バンティングは返事をしなかった。彼女は重苦しくテーブルにむかって座ったままだった。それから気だるい感じでこう言った。「あの娘の手紙を見せて」

 彼はテーブル越しに手紙を渡した。彼女はゆっくりと読んでいった。

 お父さん(とそれははじまっていた)。

 元気にしてる?ミセス・パドルの末っ子が猩紅熱にかかったの。伯母さん(オールド・アーント) は、すぐにお父さんのところに行って、しばらくご厄介になりなさいですって。エレンには、ご迷惑をかけませんって言っておいてちょうだいね。特に返事がなかったら十時に出発するつもり。

お父さんを愛する娘から

 「そうね。泊めてあげるしかないわね」ミセス・バンティングはゆっくりと言った。「一度くらい仕事をするのもいい経験になるでしょう」

 好意的とはとても言えない言い回しだったが、バンティングはともかく許可が出たことに満足しなければならなかった。

******

 いろいろなことが起きた一日はそのあと静かに過ぎていった。夕闇が迫る頃、ミスタ・スルースの女主人は彼が階段をあがっていちばん上の階に行く音を聞いた。彼女はそれが部屋を掃除する合図であることを思い出した。

 下宿人はきれい好きな男だった。多くの殿方たちとちがい、彼は服を部屋じゅうに散らかしたりしなかった。それどころかすべてを几帳面なくらいに整理整頓していた。服だけではない。最初の二日間にミセス・バンティングに買い入れてもらったいろいろな品物も、タンスの引き出しのなかに注意深く納められていた。彼は最近ブーツを一足購入した。ここに来たとき履いていたのはおかしな格好の、底にゴムを張ったなめし革の靴だった。彼は最初の日に女主人にむかって、この靴は持っていかないでくれ、きれいにする必要はないから、と言ったのだった。

 いったい何を考えているのかしら――それに真夜中すぎに散歩に行くなんて変わった習慣だわ。寒くて、霧が出ていて、ほかの人なら外になんか出ないでベッドのなかでぬくぬくしていたいと思うのに。でもミスタ・スルースは自分でも認めていた、自分は一風変わった人間だって。

 寝室を片づけたあと、女主人は客間に入って丁寧に掃除した。この部屋は彼女が満足するほど掃除が行き届いていなかった。ミセス・バンティングは客間を一度徹底的にきれいにしたいと思っていたのだが、ミスタ・スルースは寝室にいるとき、客間でばたばたされることを好まなかった。それに起きているときは、ほとんどずっと客間に座っている。いちばん上の部屋がお気に召したようだけれど、使うのは怪しげな実験をするときだけで、日中そこに行くことは一度もない。

 この日の午後、彼女は紫檀の飾り棚を物欲しそうに見つめ――このきれいな調度を軽く揺さぶりさえした。鍵のかかった古い食器棚の引き出しがときどき飛び出すことがあるように、しっかり閉めた棚の扉も勢いよく開いてくれたら彼女はどんなに喜び、どんなに気が楽になっただろう!

 しかし飾り棚がその秘密をさらけ出すことはなかった。

******

 同じ日の夜八時頃、ジョー・チャンドラーが少しだけおしゃべりをしようと彼らのところへやってきた。もう朝の動揺から回復していたが、興奮で神経がたかぶっていた。ミセス・バンティングは彼とバンティングの話に思わず引き込まれ静かに聞き入った。

 「ええ、おかげさまですっかり元気になりました!ゆっくり休みましたからね――午後はずっと寝ていたんです。警視庁は今晩何かが起きると考えています。やつはいつも二日つづけて動いてるんです」

 「なるほどそうだ」とバンティングは驚いたように叫んだ。「なるほどそうだねえ!そいつは気がつかなかった。じゃあ、ジョー、君はあの怪物が今晩も犯行に及ぶと思ってるんだね」

 チャンドラーは頷いた。「ええ。それに逮捕する絶好のチャンスでもあると思いますね――」

 「今晩は見張りが大勢出るんだろう?」

 「もちろんです!今晩は何人が見張りにつくと思います、ミスタ・バンティング?」

 バンティングは頭を振った。「分からんね」彼は見当もつかないといった調子で言った。

 「臨時にかりだされる連中の数ですけど」とチャンドラーは答えをうながすように言った。

 「千人かい?」とバンティングは思いきって言ってみた。

 「五千人ですよ、ミスタ・バンティング」

 「まさか!」バンティングはあきれて大声を出した。

 ミセス・バンティングでさえ信じられなそうに「まさか!」と同じ言葉を繰り返した。

 「ところが本当なんです。警視総監がおかんむりなんですよ!」チャンドラーはたたんだ新聞をコートのポケットから取り出した。「これを聞いてください。

 『凶悪犯罪の犯人たちを逮捕する手がかりはまだ何も見つかっていない。警察はしぶしぶながらそう認めざるを得なかった。ロンドン警視庁警視総監に国民の非難が集中するのは当然であろう。大抗議集会開催の噂まであるのだ』

 どう思います?総監もこんなの読まされちゃ、とさかに来ますよ、ちがいます?」

 「だがね、警察に捕まえられんとは、妙な話じゃないか?」とバンティングは反論した。

 「ちっとも妙じゃありませんよ」とチャンドラー青年は不機嫌に言った。「これを聞いてください。めずらしく新聞に本当のことが書いてある」彼はゆっくりと読みあげた。

 「『ロンドンの犯罪捜査は目隠し遊びに似ている。刑事たちは手を縛られ、目隠しをされ、殺人犯を捕まえるためにそのまま大都市の貧民街に放り出されるのだ』」

 「いったい何なんだ、それは」とバンティングは言った。「君の手は縛られちゃいないぞ。目隠しだってしてないじゃないか、ジョー」

 「こりゃ、もののたとえってやつですよ、ミスタ・バンティング。ぼくらの捜査方法ときたら、フランスのデカみたいに――いやあ、連中の四分の一だって恵まれていないんです」

 そのときはじめてミセス・バンティングが口を出した。「ジョー、さっき『犯人たち』って言った?最初に読んだ記事だけど」

 「ええ、そうです」彼は勢いよく彼女のほうを振りむいた。

 「それじゃ犯人は二人以上ってことなの?」彼女はやせた顔に安堵の色を浮かべた。

 「警察のなかにはギャングの仕業だと考えるのもいますよ」とチャンドラーが言った。「一人の犯行とは考えられないってね」

 「あなたはどう思う、ジョー」

 「そうだなあ、ぼくは分からないな、ミセス・バンティング。お手あげってところです」

 彼は立ちあがった。「お見送りは結構ですよ。玄関のドアはちゃんと閉めますから。それじゃ!あした、またお会いしましょう」先日の晩もそうしたように、バンティング夫婦の訪問者はドアのところで立ち止った。「ミス・デイジーはお変わりないですか?」彼は何気ないふうを装って訊いた。

 「ああ、あした来るよ」と父親が言った。「むこうの家で猩紅熱が出たんだ。それで、伯母さん(オールド・アーント) は娘を避難させるつもりなのさ」

 夫婦はその晩早々に寝床に入ったのだが、ミセス・バンティングは眠れそうになかった。目が冴えたまま、近くの古い教会の鐘楼が一時間おき、三十分おき、十五分おきに鳴らす鐘の音を聞いていた。

 そしてちょうどうとうとしかけたとき――一時頃だったにちがいない――なかば無意識のうちに期待していた音を耳にした。それは下宿人が彼女の部屋の真ん前の階段をこっそりと降りる足音だった。

 彼は廊下を忍び足で通り、静かに、静かに外へ出た。

 ミセス・バンティングは目を開けていようとしたのだが、彼が戻ってくる音を聞くことはなかった。そのあとすぐにぐっすり眠ってしまったのだ。

 奇妙なことに、次の日の朝、二人のうちで最初に起きたのは彼女のほうだった。さらに奇妙なことに、ベッドを跳ね起き、廊下に飛び出し、郵便受けから押しこまれたばかりの新聞を手に取ったのはバンティングではなく、彼女だったのだ。

 しかし新聞を手にとってもミセス・バンティングはすぐ寝室に戻らなかった。そのかわりに廊下のガス灯に火をつけ、壁により掛かって自分を支えると――寒気と疲労のために身体が震えていたのだ――新聞を開いた。

 彼女の探していた見出しがあった。

 「復讐者の殺人」

 しかしそのあとにつづく言葉を読んで彼女は胸をなで下ろした。

 「ロンドンのみならず文明世界をことごとく震撼・動顛させ、おそらくは女嫌いの狂信的禁酒主義者の仕業と思われる前代未聞の連続殺人事件は、本紙が印刷所に回される時間になっても、特に新たな進展を見せていない。昨日の早朝、最後の卑劣な殺人が行われてから、犯人あるいは犯人達につながる信頼すべき手がかりは一切見つかっていない。もっとも昨日のうちに数名の人間が逮捕されているが、どの人にも十分なアリバイのあることが確認された」

 その少し下にはこう書かれていた。

 「動揺はますます広がっている。ロンドンを訪れた旅行者でさえ、何か異様な雰囲気があたりを覆っていることに気がつくと言っても過言ではないだろう。昨晩の殺人現場は――」

 「昨晩ですって!」ミセス・バンティングはぎくりとしながら思った。だが、この文脈だと「昨晩」というのは一昨日の晩を意味することに気づいた。

 彼女は記事を読みつづけた。

 「昨晩の殺人現場は夜が更けても相変わらず何百という野次馬に阻まれまったく近づくことができない。だが事件の痕跡がもう何も残っていないことは勿論である」

 ゆっくりと注意深くミセス・バンティングは新聞を元通りにたたみ直し、屈んで玄関マットの上に、見つけたときと同じように、置いた。ガスを消し、ベッドのなかにもぐり込み、まだ寝ている夫のそばに横たわった。

 「どうしたんだ」バンティングがうめき、落ち着かなげに身じろぎした。「何かあったのか、エレン」

 彼女はささやき返した。不思議な喜びにわくわくしながら。「いいえ、何でもないわ、バンティング。何でもないのよ!もう一度寝なさいな、あなた」

 彼らはどちらも幸せな、ほがらかな気分で、一時間後に起きた。バンティングは娘が来ると思うと胸が躍ったし、デイジーのまま母でさえ若い娘が家の仕事をいくらかでも手伝ってくれるというのは悪くないと考えた。

 十時頃、バンティングは買い物をしに出かけた。彼はデイジーのディナー用においしそうな豚肉とミンス・パイを三つ買ってきた。アップルソース用のリンゴも忘れずに買ってきたのだった。

第七章

 ちょうど時計が十二時を打っているとき、四輪馬車が門の前に停まった。

 デイジーを乗せてきたのだ――頬を染め、興奮し、眼元が笑っているデイジーを。その姿を見ればどんな父親も思わず相好を崩しただろう。

 「伯母さん(オールド・アーント) がね、天気が悪かったら馬車で行きなさいって言ったの」彼女は嬉しそうにはしゃいだ。

 馬車代をめぐってちょっとしたやりとりが繰り広げられた。誰でも知っているように、キングズ・クロスからメリルボーン通りまではたったの二マイルしかない。しかし御者は大声で一シリング六ペンスを要求したのである。彼は、若い娘を無事に連れてきてやったんだ、と脅すように言うのだった。

 御者とバンティングが押し問答をしているあいだ、デイジーは二人を残して板石敷きの小径を通り、まま母が待っている玄関へむかった。

 二人は形だけのキスを交わした。特にミセス・バンティングのキスは軽く触れただけだった。そのとき静かな冷たい空気を破って突然大きな声が響き渡り、人々をぎくりとさせた。長く尾をひく叫び声は高く低く、はるかエッジウエア通りの往来のざわめきのむこうから聞こえてきた。

 「何だ、ありゃ」バンティングが不思議そうに言った。「いったい何があったんだ」

 御者は声をひそめた。「キングズ・クロスで恐ろしい事件があったって叫んでるんだよ。今度は二人まとめてやりやがった!だから料金をはずんでくれって言ってんだ。こんな話、お嬢ちゃんの前じゃできなかったけどよ、でも、かれこれこの五六時間のあいだにロンドンじゅうから人が集まってきてるんだ。立派な格好の紳士もいたぜ。もっとも、見るものなんてもう何もないんだけどな」

 「何だと。昨日の晩、また女が殺されたのか」

 バンティングはぞくぞくするほど興奮を感じた。こんな凶悪な犯罪を防げないなんて、何のために五千人の警官を配置したんだ?

 御者は驚いて彼を見つめた。「二人だぜ――数ヤードと離れてないところでな。胆の――胆のすわった野郎だ――けど、殺された女は酔ってたんだ。酒に恨みがあるんじゃねえか!」

 「警察は犯人を捕まえたのかい」バンティングは一応訊いてみた。

 「まさか!警察に捕まえられるかよ!何時間も前にやられたんだろう――石みたいに冷たくなってたから。今は使われてない抜け道の両端でやられたんだ。だから発見が遅れたのさ」

 しわがれた叫び声がだんだん近づいてきた。二人の新聞売り子が互いに負けじと怒鳴りあっている。

 「キングズ・クロスで恐るべき犯行!」彼らは勝ち誇ったように叫んだ。「またもや復讐者の仕業!」

 バンティングは娘の大きなわら色の旅行鞄を持ったまま道路に走り出て、無頓着にも半ペニー新聞に一ペニーを支払ったのだった。

 彼はひどく興奮し落ち着いていられなかった。ジョー・チャンドラーの知り合いというだけで、なんだか自分までこの殺人事件に個人的関わりを持っているように思えたのである。彼は昨日の朝みたいにチャンドラーがさっそく家にやってきて、事件の一部始終を話してくれたらいいのにと思った。あのときは残念なことにバンティングは外出していたのだけれど。

 小さな玄関広間に戻ったとき、デイジーの甲高くて、弾むような早口が聞こえた。彼女は猩紅熱のことや、伯母さん(オールド・アーント) の隣人がはじめのうち、猩紅熱ではなくてただの蕁麻疹ではないかと思ったことなど、長々とまま母におしゃべりしていた。

 しかしバンティングが居間のドアを押し開けたとき、娘の声ははっと驚くような調子に変わって、こう叫んだ。「あら、エレン、どうしたの?顔色が悪いわ!」そして妻の押し殺したような返事。「窓を開けて――お願い」

 「キングズ・クロスの近くで恐るべき犯行!ついに手がかりが見つかる!」新聞売りが高らかに叫んだ。

 そのときミセス・バンティングは自制心を失ったように笑い出した。笑って、笑って、笑って、まるで愉快でたまらないとでもいうように身体を前後に揺らすのだった。

 「お父さん、いったいどうしちゃったの?」

 デイジーはあっけにとられているようだった。

 「ヒステリーだな――きっとそうだ」と彼は短く言った。「水差しを持ってくるよ。ちょっと待っていろ」

 バンティングはひどくいらだった。とんでもないやつだな、まったく。こうも簡単に取り乱すとは。

 下宿人の呼び鈴が急に静かな家のなかに鳴り渡った。その音のせいなのか、水差しという脅しのせいなのか、いずれにせよミセス・バンティングに魔法のような効果があらわれた。全身の震えはまだ止まらなかったが、冷静を取りもどし、立ちあがったのだ。

 「上に行ってくるわ」彼女は多少苦しそうに息をしながら言った。「あなたは台所に行きなさい、デイジー。オーブンで豚肉を焼いているの。ソースを作るからリンゴの皮をむいておいて」

 階段をあがるとき、ミセス・バンティングは両足が綿でできているような気がした。震える手で手すりをつかみ、身体を支える。しかし必死になって身体に力をこめていくと、じきに足元がしっかりしてきた。階段をあがったところでしばらく立ち止まり、客間のドアをノックした。

 ミスタ・スルースの声が寝室から聞こえてきた。「具合が悪いんです」と彼は気むずかしい声で呼びかけた。「風邪をひいたみたいです。お茶を一杯持ってきていただけませんか。ドアの前に置いておいてください、ミセス・バンティング」

 「かしこまりました、旦那様」

 ミセス・バンティングは振り返って下に降りた。依然として調子がおかしくめまいがしたので、台所に行くかわりに居間のガスコンロで下宿人のお茶を淹れることにした。

 お昼のディナーの最中に夫婦はデイジーの寝場所をどこにしようかとしばらく話し合った。そのときは最上階の裏部屋にベッドの用意をしようと決まったのだが、ミセス・バンティングはこれを変更したほうがよいと考えた。「デイジーはわたしといっしょに寝るから、バンティング、あなたは上で寝なさい」

 バンティングはいささか驚き、それが表情にも出たのだけれど、おとなしく提案に従った。たぶんエレンが正しいのだろう。上に行くのは寂しいだろうし、結局のところ下宿人がどんな人間なのかあまり分かってはいないのだ。もちろん立派な紳士のように見えるのだけれども。

 デイジーは気立てのよい娘だった。彼女はロンドンが好きで、まま母の手伝いがしたかった。「洗い物はわたしがする。わざわざ下に行かなくてもよくってよ」彼女はほがらかに言った。

 バンティングは部屋のなかを行ったり来たりしはじめた。妻はこっそりそれを見つめながら、夫は何を考えているのだろうといぶかしんでいた。

 「新聞を買わなかったの?」とうとう彼女が言った。

 「もちろん買ったよ」彼は急いで答えた。「でも片づけたんだ。おまえが見たくないだろうと思って。神経質になっているようだから」

 彼女はもう一度すばやく、こっそりと視線を投げかけた。しかし彼はいつもと変わらぬ様子で――明らかに彼の言葉にはそれ以上の意味もそれ以下の意味もないようだった。

 「通りで何か叫んでいたんじゃないの――わたしがおかしくなる前に」

 今度はバンティングが妻をすばやく盗み見る番だった。錯乱というかヒステリーというか――呼び名はどうでもいいが――それに突然襲われたのは外から聞こえた叫び声のせいだと彼は確信していた。ロンドンで復讐者の殺人に神経質になっている女は彼女だけではない。朝刊によると、相当な数の女性が一人で外出することを恐れているという。先ほど彼女が取り乱したのは外の叫び声や興奮と無関係なはずがない。

 「何て叫んでいたのかおぼえてないのかい?」彼はゆっくりと訊いた。

 ミセス・バンティングはテーブル越しに夫を見た。彼女は思いきってやろうとすれば嘘もつけるし、あのおぞましい叫び声の意味を知らないふりもできただろう。しかしいざとなると、やっぱり嘘はつけなかった。

 「おぼえているわ」彼女は力なく答えた。「一言二言聞こえたの。また殺人があったんでしょう?」

 「さらに二人殺されたよ」夫は重々しく言った。

 「二人?余計にひどいじゃない!」彼女の顔は青ざめ――緑がかった土色になり――バンティングは彼女がまたもやヒステリーを起こすのではないかと思った。

 「エレン?」彼は警告するように言った。「エレン、気をしっかり持て!殺人のことでどうしておまえがうろたえるのか知らんが、とにかくあんなものは忘れろ!別にわしらが話題にするようなことじゃない――いや、まあ、しょっちゅう話すことじゃ――」

 「わたしは話したいのよ」とミセス・バンティングがヒステリックに叫んだ。

 夫と妻はテーブルを挟んで立っていた。夫は煖炉に背をむけ、妻はドアに背をむけていた。

 バンティングは妻を見つめながらひどく混乱し動揺していた。彼女は本当に具合が悪そうだ。やせ細った身体がさらに縮こまったように見える。彼はエレンがはじめて年相応の見かけになってきたと悲しく思った。その細い手――荒仕事をしたことがない、きれいな、柔らかい、白い手――は、痙攣するような動きとともにテーブルの端をつかんだ。

 バンティングは妻の顔色を見て不安になった。「大変なことになったぞ」と彼は思った。「また気分が悪くならなきゃいいんだが。でないと大騒ぎになる」

 「話してちょうだい」彼女は低い声で要求した。「ほら、聞かせてくれるのを待ってるのよ。さ、早く、バンティング!」

 「話すことなんて、たいしてないんだ」彼はいやいやそう言った。「だいたい新聞にはちょっとしか出てなかったし。だがデイジーを乗せてきた御者が――」

 「何て言ったの?」

 「今、おれが言ったようなことを教えてくれたんだ。今度は二人やられた。どっちもしたたか酔っていたそうだよ、かわいそうに」

 「まえにも人が殺されたところで?」彼女は恐れるように夫を見た。

 「いや」彼はぎこちなく言った。「いや、ちがうよ、エレン。あそこからずっと西のほうさ――実はここからそう遠くないところだ。キングズ・クロスの近く――それで御者は事件のことを知ったんだ。使われていない抜け道でやられたらしい」そのとき妻の目つきに異変を感知した彼は急いでこう付け足した。「さあ、今はこれでやめておこう!もうすぐジョー・チャンドラーから詳しい話が聞ける。今日きっと訪ねてくるよ」

 「じゃ、五千人の警官は何の役にも立たなかったのね」とミセス・バンティングはゆっくりと言った。

 彼女はテーブルを握っていた手をゆるめ、さっきよりも真っ直ぐに立っていた。

 「ぜんぜんさ」バンティングは短く言った。「狡猾なやつだよ、まったく。しかし待てよ――」彼は振り返って椅子の上に片づけておいた新聞を取りあげた。「そうそう、手がかりが見つかったって言っていたな」

 「手がかりですって、バンティング?」ミセス・バンティングは低く弱々しい消え入るような声で言った。そしてふたたびやや前のめりになってテーブルの端をつかんだ。

 しかし夫はもう彼女を見ていなかった。彼は新聞に目を近づけ、いたって満足そうな声で記事を読みあげた。

 「『喜ばしいことに警察はついに犯人逮捕につながる手がかりをつかんだ――』」そこまで読んでバンティングは新聞を落とし、慌ててテーブルを回った。

 妻が奇妙な、ため息のようなうめき声をあげ、テーブルクロスをずるずると引きずりながら床にくずおれたのである。彼女は失神して横たわっているように見えた。バンティングは震えあがって狂ったようにドアを開け叫んだ。「デイジー!デイジー!来てくれ。エレンがまたおかしくなった」

 デイジーは飛びこんでくると、あわてふためく優しい父親が思わず感嘆するような沈着と冷静を示した。

 「スポンジを濡らして持ってきて、お父さん――急いで!」と彼女は叫んだ。「スポンジと――ブランデーがあれば、それも少し。わたしがみているから!」彼が小さな薬瓶を持ってくると、デイジーは不思議そうに「どこが悪いのかしら」と言った。「わたしが家のなかに入ってきたときは何ともなかったのよ。わたしの話に面白そうに聞き入っていたのに、それが急に――お父さんも発作を起こすところは見ていたでしょう?エレンらしくないわ。そう思わない?」

 「まったくだ」と彼はささやいた。「まったくだよ。だがね、わたしらは生活がえらく苦しかったからね――おまえには言えなかったが、苦労が絶えなかったんだよ。その影響が今出てきたんだな――きっとそうだ。彼女は文句ひとつ言わなかった。エレンは気丈な性質だから。だけど今になってあの苦労がこたえてきたんだよ――今になってね!」

 そのときミセス・バンティングは上体を起こしながら少しずつ目を開けた。彼女は本能的に頭をさわって髪の毛が乱れていないか確かめた。

 彼女は完全に気を失ったわけではなかった。もっとも完全に気を失ったほうがよかっただろうけれども。彼女はひどい虚脱感に襲われ、もう立っていられない――いや、倒れなければならないような気がしただけなのだ。バンティングの言葉は哀れな女の滅多に触れられない琴線に触れた。目を開けると涙が一杯に溜まっていた。ひもじい思いをしながらじっと待ち続けたあの時期に、彼女がどれだけ堪え忍んでいたかをまさか夫が知っているとは思っていなかったのだ。

 しかし彼女は感情をあらわすことを病的なほど嫌った。彼女にとってそれは「馬鹿げたこと」でしかなく、それゆえ次のようなことしか言わなかった。「大騒ぎしないでちょうだい!ちょっと具合が悪くなっただけ。気を失ってなんかいませんよ、デイジー」

 彼女はバンティングが急いで注いだ少量のブランデーのグラスを邪険に押しのけた。「そんなもの、さわりたくもないわ――死んだってさわるものですか!」と彼女は声を荒げた。

 力のない手でテーブルにつかまり、彼女は立ちあがった。「もう一度台所へ行ってちょうだい、デイジー」しかしその声はむせぶように震えていた。

 「きちんと食事をしてなかったからだよ、エレン――だからこうなるんだ」とバンティングは突然言った。「そういや、この二日ほどろくに食べていないじゃないか。いつも言っていただろう――昔は何度も言ったはずだよ――女は空気を食って生きるわけにゃいかないって。でもおまえはおれの言うことなんて一言も聞きゃしないものなあ!」

 デイジーは立ったまま二人を見比べていた。明るい、愛らしい顔に影がさした。「そんなに生活が苦しかったなんて知らなかったわ、お父さん」彼女は胸がいっぱいだった。「どうして教えてくれなかったの。わたしから伯母さん(オールド・アーント) にお願いしたら助けてもらえたかもしれないのに」

 「そんなことはしてほしくありません」まま母はいらだたしげに言った。「でも、たしかに――そうね、まだあのときの苦労が身体から抜けきっていないのね。忘れることなんかできそうもないような気がする。あの、じっと待つだけの日々――そ、それから――」彼女は自分を抑えた。さもないと次の瞬間には「飢えに苦しんだ日々」という言葉が口をついて出ていたかもしれない。

 「しかし、もう大丈夫さ」とバンティングは力をこめて言った。「ミスタ・スルースのおかげでな」

 「そうね」妻は低い、奇妙な声でその言葉を繰り返した。「そうね。もう大丈夫ね。あなたの言う通りよ、バンティング。何もかもミスタ・スルースのおかげだわ」

 彼女は歩いて椅子に腰かけ、「まだちょっとだけふらふらする」とつぶやいた。

 デイジーは彼女を見ながら父親のほうを振りむき、小声で話しかけた。しかしそれほど低い声ではなかったためにミセス・バンティングに聞かれてしまったけれども。「お父さん、お医者様に診てもらったほうがいいんじゃない?元気を回復するお薬とか、くれるかもしれないわ」

 「医者なんか結構よ!」ミセス・バンティングは急に語気を強めた。「医者なら最後のお屋敷でたくさん見たわ。奥様は十ケ月で三十八人の医者に診てもらったのよ。みんなに診てもらうんだって、奥様はかたく決心していらっしゃった。でも奥様を助けることができたかしら。いいえ。やっぱり奥様はお亡くなりになったわ。もしかしたら死期を早めたかもしれない」

 「あの方は変わり者だったよ。おまえが最後にお仕えした奥様は」バンティングは非難するように話しはじめた

 エレンは奥様が息を引き取るまでお屋敷を離れたくないと言い張った。それがなければ彼らは数ケ月早く結婚できたかもしれない。バンティングはそのことをいつも不満に思っていた。

 妻は弱々しくほほえんだ。「そのことで言い争うのはやめましょう」彼女はいつもより優しい、柔和な声でさらにこう言った。「デイジー?あなたがもう台所に行かないのなら、わたしが行かないとならないわね」彼女がまま娘のほうを振りむくと、娘は飛ぶように部屋を出て行った。

 「あの娘は日に日にきれいになっていくな」バンティングは慈しむように言った。

 「美貌も皮一重ってことを人は忘れがちなものよ」と妻は言った。彼女はだんだん気分がよくなってきた。「でも、バンティング、たしかにデイジーはいい娘だわ。すすんでお手伝いもするようになったし」

 「そうだ、下宿人のディナーを忘れちゃならんぞ」バンティングはそわそわしながら言った。「今日は魚料理だったね。デイジーに作ってもらって、おれが持っていこうか。まだ完全によくなっていないだろう、エレン?」

 「もう平気。わたしがミスタ・スルースの午餐《ランチョン》を持っていく」と彼女はすばやく言った。夫が下宿人の食事をディナーなどというのを聞くといらいらした。彼らはお昼にディナーを食べるが、ミスタ・スルースは午餐《ランチョン》を召しあがるのだ。どんなに奇人であっても、ミセス・バンティングは下宿人が紳士であることを忘れなかった。

 「あの方はわたしにお世話されるのが好きなんだもの。そうでしょう?わたしなら大丈夫。心配しないで」彼女はしばらく間を置いてからそう付け加えた。

第八章

 午餐を出すのが普段よりもだいぶ遅れたためだろう、二階でおいしいカレイの蒸し焼きを食べたミスタ・スルースの食欲は、一階でおいしい豚の焼き肉を食べた女主人のそれをはるかに上回った。

 「お加減はよくおなりでしょうか、旦那様」ミセス・バンティングはお盆を持っていったとき恐る恐る聞いてみたのだった。

 彼は沈んだ、ぐちっぽい口調で答えた。「いえ、今日は気分があまりよくないですね、ミセス・バンティング。疲れています――とても疲れています。それにベッドに寝ていると、いろいろな雑音が聞こえるみたいです――やたらと叫んだり怒鳴ったりするのが。メリルボーン通りがうるさい大通りみたいにならなければいいんですけどね、ミセス・バンティング」

 「決してそんなことは、旦那様。いつもはとても静かなのですけど」

 彼女はしばらく黙っていた――あの聞き慣れない叫び声や騒音が告げる事件について話をしたかったが、どうしてもできなかった。「風邪をお召しになったのでしょう、旦那様」と彼女は突然言った。「わたくしだったら今日は外に出かけませんわ。家のなかで静かにしています。素性のよくない人も大勢うろついてますし――」どうやら彼女の単調な声にひそむ戒め、苦痛に満ちた懇願が下宿人にも伝わったのだろう、ミスタ・スルースは顔をあげ、明るい灰色の目に不安そうな、警戒するような表情を浮かべた。

 「それは残念なことですね、ミセス・バンティング。しかしご忠告には従いますよ。家で静かにしています。聖書の研究さえできれば、退屈しませんから」

 「目がお疲れになりませんのですか、旦那様」とミセス・バンティングは不思議そうに訊いた。どういうものか、彼女はほっとした気分になりはじめていた。ここでミスタ・スルースと話をしているほうが、下で彼のことを案じているより、気が楽になるのだった。これまで何度か彼女の魂や肉体をも満たした恐怖が消えていくようだった。彼女といっしょにいるときのミスタ・スルースは優しくて、物わかりがよくて、とても――とても感じがいいのだ。

 優しいけれど、独りぼっちでお気の毒なミスタ・スルース!こんな紳士ははえ一匹殺せやしない。まして人間なんかとても。変わり者――その点は認めなければならない。しかしミセス・バンティングは有能な女中としての長い経験のなかで、変わり者を大勢見てきた。それも男よりも女に多かった。

 彼女は普段はまれに見るほど思慮深い、良識的な女性だった。だから、昔、お仕えしたお屋敷のいくつかで、人間というものは――生れも育ちもいい、物腰の柔らかい人でさえ――ときに奇矯な振る舞いに及ぶことがある、という実例を見せつけられても、さして深く考えこむことはなかった。もしもそのことが、今、病的なほど、あるいはヒステリックになるほど、気にかかるようになったのだとしたら、これはもう不幸としかいいようがない。

 そこで彼女は打って変わって陽気な声でこう言った。ミスタ・スルースがはじめて彼女の家に来たころのような声だった。「それでは、旦那様、半時間後にお片付けにまたまいります。差し出がましいようですが、今日はお部屋でゆっくりお休みになってください。外はじめじめしてうっとうしゅうございますわ、本当に。何か御入用のものがございましたら、わたくしかバンティングが買ってまいりますので」

******

 玄関のベルが鳴ったのはたしか四時だった。

 三人はそろっておしゃべりの最中だった。デイジーは洗い物をすませ――彼女はまま母のお手伝いとして大活躍していた――そのときは伯母さん(オールド・アーント) の俗物ぶりをおもしろおかしく年上の二人に話していた。

 「いったい誰だろうね」とバンティングは顔をあげて言った。「ジョー・チャンドラーにしちゃ早すぎる」

 「わたしが行ってくる」と妻が椅子から飛びあがりながら言った。「わたしが行って追っ払ってくるわ」

 短い廊下を歩きながら彼女は独り言を言った。「手がかり?どんな手がかりかしら」

 玄関のドアを開けたとき、彼女は思わず安堵のため息をもらした。「まあ、ジョーじゃない。あなただとは思わなかった!よく来たわね。入りなさい」

 チャンドラーはハンサムで魅力的な顔にややおどおどとした表情を浮かべて入ってきた。

 「もしかしたらミスタ・バンティングがお聞きになりたいかもしれないと思って……」と彼は陽気な大声で話しはじめたのだが、ミセス・バンティングが急いでそれを制した。二階の下宿人にチャンドラー青年の話を聞かれたくなかったのである。

 「そんな大声出さないで」彼女は少しきびしい声を出した。「今日は下宿人の調子があまりよくないの。風邪をひいて」と彼女は急いで言い足した。「二三日外出してないのよ」

 彼女は自分の無謀さ、そして――でたらめに驚いた。その瞬間、彼女の発した数語は、エレン・バンティングの人生に新時代を画したのだ。彼女がぬけぬけと、意図的な嘘をついたのははじめてだった。彼女は真実を隠すことと、嘘を言うことは、天と地ほどもちがうと考える、大勢の女性の一人だった。

 しかしチャンドラーは彼女の言葉に何の注意も払わなかった。「ミス・デイジーは到着しましたか」彼は声を小さくして尋ねた。

 彼女は頷いた。彼は父と娘が座っている部屋に入っていった。

 「さあ」バンティングは立ちあがって言った。「さあ、ジョー。例の謎の手がかりについて話してくれ。まだ犯人逮捕とまではいかないだろうね」

 「まだしばらくはそんないいニュースはありませんよ。捕まったら」とジョーは悲しそうに言った。「ぼくはここにはいないでしょうね、ミスタ・バンティング。でも警視庁はようやく人相書きを配布することになりました。それに――実は犯人の兇器を見つけたんです!」

 「何だと!」バンティングは目の色を変えて叫んだ。「嘘じゃないだろうね!いったいどんなものなんだい?やつのものだってことはまちがいないのか」

 「まあ、確実ってわけじゃないけど、でも恐らくそうでしょう」

 ミセス・バンティングはこっそり部屋のなかに入ってくると、ドアを閉めた。しかしドアを背にしてじっと立ったまま、眼の前のひとかたまりの人々を見ていた。みんな彼女のことを忘れているようだ――彼女はそのことを神に感謝した。話と興奮に加わることなくすべてを聞くことができたのだから。

 「これを聞いてくださいよ!」とジョー・チャンドラーは意気揚々と大声で言った。「これはまだ配られていないんですが――その、一般人にはね――でもぼくらには今朝の八時に全員に配られました。なかなか仕事が迅速でしょう?」彼は読みあげた。

 手配書

 年齢二十八歳くらいの男、やせ形で身長は約一七四センチ。色黒。顎髭、頬髭はなし。黒いあや織りのコート、ハード・フェルト・ハット、白のハイカラー、ネクタイを着用。新聞紙の包みを持ち、人品骨柄いやしからず。

 ミセス・バンティングは前に進み出た。彼女は言うに言われぬ安堵感からふうっと長いため息をついた。

 「こいつです!」とジョー・チャンドラーは勝ち誇ったように言った。「ところで、ミス・デイジー」――彼はいたずらっぽく彼女のほうを振りむいたが、その率直な、陽気な声にはおかしな震えがほんのちょっぴり含まれていた――「この人相書きにぴったりのすてきな、前途有望そうな若者をごぞんじじゃないですか――通報したら五百ポンドの報酬を受け取ることができるんですよ」

 「五百ポンド!」デイジーと父親は同時に叫び声をあげた。

 「そう。ロンドン市長からきのう提示されたんです。誰か個人が出したみたいですよ。公のお金じゃなくて。でも警視庁のぼくらはその賞金を受け取る資格がないんだからついてないや。どのみち苦労するのはぼくらなんだけど」

 「その紙を見せてくれないか」とバンティングが言った。「ようくおぼえておかないとな」

 チャンドラーは薄い紙を渡した。

 しばらくしてバンティングは顔をあげ、紙を返した。「うむ、ずいぶん特徴をはっきり書いてあるね」

 「ええ。でもね、そんな特徴を持った若者なら何百人、いや何千人といますよ」チャンドラーは皮肉っぽく言った。「同僚が今朝言ってました。『これが出たあと、新聞の包みを持って歩くやつなんていないぜ』って。いやしからぬ人品骨柄もこれからは要注意です」

 デイジーが陽気な笑い声をあげた。ミスタ・チャンドラーの冗談がおかしくて仕方なかったのだ。

 「犯人を見た人は、どうして捕まえようとしなかったんだろう」バンティングがふと尋ねた。

 ミセス・バンティングも声をひそめて口をはさんだ。「そうよ、ジョー、変だと思わない?」

 ジョー・チャンドラーは咳払いした。「こういうことなんです。事の一部始終を見た人は一人もいないんです。この人相書きは犯人を見たっていう二人の人の証言をもとに作っただけなんです。ほら、この殺人は――ええと、そうだな――この前のはたぶん二時くらいに犯行がありました。二時っていうのが肝心なんですよ。そんな時間に出歩く人はあまりいませんからね。特に霧の出ている晩ともなれば。で、一人の女が現場から若者が歩き去るのを見たと言い、もう一人の女が、復讐者が自分の横を通ったって言っているんです。といっても、時間はだいぶあとなんですけど。ここに書いてあるのはほとんど彼女が言っていることなんです。それからこの手の仕事を担当しているボスがほかの人の証言――つまりほかの殺人が行われたときに得た証言ですけど――それを調べて、この手配書を作ったんです」

 「じゃあ、復讐者がこれとぜんぜんちがう人相をしているってこともありうるんだね」とバンティングはゆっくりと、失望したように言った。

 「もちろん、ありえますよ。でも、ぼくはこの人相書きは、やつの特徴をおさえていると思うな」とチャンドラーは言ったが、しかし自信のある口調ではなかった。

 「さっき凶器が見つかったって言ったね、ジョー」バンティングが探りをいれるように言った。

 彼はエレンがこの話を続けさせてくれるのがうれしかった。それどころか彼女自身、この一件に興味を抱いているようだった。彼女は話の輪に加わり、すっかりいつもの落ち着いた様子を取り戻していた。

 「ええ。凶行に使われた武器が見つかったみたいです」とチャンドラーは言った。「とにかく、死体のあった狭くて暗い抜け道から――抜け道の両端にそれぞれ一体ずつ死体があったんですけど――あそこから百ヤードと離れていないところで今朝、とても変わった形のナイフが発見されたんです。『カミソリみたいに鋭くて、短剣みたいに先が尖っている』。これはボスが説明したときに使った言葉そのままなんですけど、ボスはほかのどの手がかりよりもこれが重要だと考えているみたいです。つまり新聞の包みを持って足早に立ち去る男を見たっていう目撃者が語った犯人の人相よりも重要だって。でもおかげでぼくらは大変な仕事を仰せつかってしまいました。今言ったようなナイフを売ったか、もしくは売ったかもしれない店を虱潰しに調査しなければならないんですよ!イースト・エンドの食堂もぜんぶ含めて」

 「食堂なんて、何のために?」とデイジーが訊いた。

 「そりゃ、そんなナイフをいつか見たことのある人はいないか、もしも見たとしたら、誰のものだったかを調べるためですよ。でもね、ミスタ・バンティング」――チャンドラーは声色を変えた。仕事をしているときのような、固い口調になったのだ――「今のナイフの話は極秘なんです――新聞には出ません――あしたまではね。だから誰にも言っちゃいけませんよ。犯人を怯えさせたくないんです。ナイフが発見されたことを知ったら――姿を消すかもしれませんからね。それはまずい!さっき言ったみたいなナイフが、たとえば一ケ月前に売られていることがわかり、買った人の足取りがつかめれば、そのときは――」

 「そのときは?」ミセス・バンティングが身を乗り出した。

 「そのときは新聞にナイフの話はのりません」チャンドラーはすまして言った。「このことを一般の人に知らせるのは、何も見つからなかったときだけです――つまり、店とかを調べて何もわからなかったときだけ。店がダメなら、個人を探さなきゃなりません――犯人のナイフを見たことのある人を。そこでこの賞金が役に立ってくるんです、五百ポンドが」

 「まあ、わたし、何とかしてそのナイフを見たいわ!」デイジーは両手を打ち鳴らして叫んだ。

 「この娘ったら、何てむごたらしい、血生臭いことを!」まま母が激しく怒った。

 そこにいる全員が驚いて彼女のほうを見た。

 「おい、おい、エレン!」バンティングが咎めるように言った。

 「だって、そんな恐ろしいこと!」と妻がむっつりと言った。「人間を五百ポンドで売るなんて」

 しかしデイジーはぷりぷり怒っていた。「いいえ、わたしは見たいわ!」彼女は突っかかるように言った。「わたし、賞金のことなんて、何も言ってない。それはミスタ・チャンドラーが言ったのよ!わたしはナイフを見たいと言っただけ」

 チャンドラーはなだめるように彼女を見た。「ああ、そのうち見ることができますよ」と彼はゆっくりと言った。

 そのとき素晴らしいアイデアが頭にひらめいた。

 「嘘ばっかり!どうして見られるのよ?」

 「やつが捕まったら、いっしょに警視庁の黒博物館に行きましょう。そこでちゃんとナイフが見られますよ、ミス・デイジー。そういうものはみんなあそこに保管されているんです。この凶器が復讐者を有罪にする決め手になれば――そうすりゃ、きっとナイフはあそこに置かれるし、見ることができますよ!」

 「黒博物館?まあ、警視庁にどうして博物館があるの?」デイジーは不思議そうに訊いた。「わたし、博物館なんて大英博物館だけだと思っていたけど――」

 これにはバンティングとチャンドラーだけではなく、ミセス・バンティングも大声で笑ってしまった。

 「まったくおまえってやつは!」と父親は可愛くて仕方がないといった調子で言った。「ロンドンにはたくさん博物館があるんだよ。この町は博物館でいっぱいなんだ。エレンに聞いてごらん。わしらが結婚前に付き合っていたころは博物館に行ったものだよ――天気が悪けりゃな」

 「でもミス・デイジーが関心を持っているのはうちの博物館なんですよ」チャンドラーが熱心な口調で父親をさえぎった。「あれこそ本物の恐怖の部屋ですからね!」

 「ジョー、あそこのことは今まで話してくれたことがなかったね」バンティングが興奮して言った。「犯罪に使われたものを集めて保管する博物館があるって本当なのかい?凶器に使われたナイフみたいなものとか」

 「ナイフですって?」ジョーは注目を浴びて有頂天になった。デイジーもその青い目で彼をじっと見つめ、ミセス・バンティングまで期待するように彼を見ている。「ナイフだけじゃありませんよ、ミスタ・バンティング!人を殺すのに使われた本物の毒の小瓶だってあるんですから」

 「そこはいつでも好きなときに行けるの?」デイジーが驚いたように訊いた。ロンドン警視庁の刑事に、こんなものすごい、面白い特典がついてくるとは思ってもいなかった。

 「そうだなあ、ぼくは行けるけど――」ジョーはにこりと笑った。「友達を連れて行く許可もちゃんと取れますよ」彼は意味ありげにデイジーを見、デイジーも真剣な目つきで彼を見返した。

 でもエレンはミスタ・チャンドラーと外出することを許してくれるかしら。エレンは生真面目で――いらいらするほど融通がきかないから。あら、でも、お父さん、何を言っているのかしら。「本当かね、ジョー?」

 「ええ、もちろんですよ!」

 「そういうことなら、ちょっと聞いてくれ!もしも無理な頼みでなければ、わたしもいつかぜひいっしょに行きたいんだ。復讐者が捕まるまで待てないな」――バンティングは顔をほころばせた。「今、博物館にあるもので十分さ。エレンは」――彼はテーブル越しに妻を見た――「そういうものに対してわたしとちがう意見を持っているけどね、でもわたしは血生臭い人間じゃないよ!ただ、ああしたものにひどく興味があるだけなんだよ、昔からずっと。バラム事件(註 一八七六年ロンドンのバラムで起きた毒殺事件)の執事はうらやましくてたまらなかったものさ!」

 デイジーと青年のあいだでふたたび視線が交わされた――それはいろいろな意味を含んで二人のあいだを行き来した――「いやあ、君のお父さんがあんなところに行きたがるなんて、妙なことになったなあ。でも、行きたいというならしょうがない。二人だけならもっといいけど、今回は我慢してお父さんもいっしょに連れていこう」デイジーの視線はそれに対してあっさりとこう答えた。もっとも彼女が彼の意味を明瞭に理解したのに対して、ジョーは彼女の視線の意味をそれほどはっきりとは読み取れなかったけれど。「ほんと、いやね。でもお父さんに悪気はないのよ。それにお父さんがついてきたって、博物館に行くのはやっぱり楽しいわ」

 「じゃ、あさってはどうです、ミスタ・バンティング?お迎えに来ますよ――そうだな、二時半頃はどうです?――あなたとミス・デイジーを警視庁にご案内します。そんなに時間はかかりません。ずっとバスでウエストミンスター・ブリッジまで行きます」彼は振り返って女主人を見た。「いっしょにいかがですか、ミセス・バンティング?本当に面白いところですよ」

 しかし女主人は断固として首を横にふった。「気分が悪くなるわ」と彼女は言った。「気の毒な人を殺した毒の瓶なんか見たら!それにナイフなんか――!」紛れもない恐怖、身のすくむような戦慄の表情が青ざめた顔をよぎった。

 「ほら、ほら!」バンティングが慌てて言った。「いつも言ってるだろう――人は人、自分は自分。エレンはこの見学に行きたくないのさ。家で猫の心配をしていたらいい――いやいや、失礼、下宿人の心配をしていたらいいさ!」

 「ミスタ・スルースを冗談のネタにしないでちょうだい」ミセス・バンティングが険悪な声で言った。「でも、ジョー、あなったって本当にいい人ね、バンティングとデイジーにそんな珍しいものを見せてくれるなんて」――彼女はいやみを込めて言ったのだが、それを聞いた三人は一人としてその皮肉を理解しなかった。

第九章

 大きなアーチ型の入り口をくぐり抜け、巧妙化した犯罪に戦いを挑む偉大な組織、ニュー・スコットランド・ヤードの心臓部に入り込んだとき、デイジー・バンティングはロマンスの王国に自由に出入りできるようになったのだと思った。三人を乗せてあっという間に上の階に連れていってしまうエレベーターも彼女にとっては新しい、胸のときめく体験だった。デイジーは今までずっと伯母さん(オールド・アーント) が住む小さな田舎町で単調な、活気のない生活を送ってきた。エレベーターなどというものに遭遇したのはこれがはじめてだった。

この巨大な建物にいささか得意の鼻をうごめかしながら、ジョー・チャンドラーは友達を引き連れ、広々とした廊下を進んだ。

 デイジーはあまりの幸運にちょっとだけぼんやりとし、ちょっとだけ気圧されて父親の腕にしがみついた。そのほがらかなういういしい声は押し黙ったままだった。自分がいる、この驚くべき建造物に圧倒されたということもあるし、大きな部屋にいっぱいの人々が忙しそうに、無駄口をたたかず、犯罪の解明のために――と、彼女には思えた――立ち働いている様子がちらちらと見えたからである。

 彼らが半開きのドアを通り抜けたとき、チャンドラーが急に立ち止った。「ほら、見てください」彼は低い声で娘よりも父親のほうにむかって言った。「あそこが指紋の鑑識をする部屋です。二十万人分の男女の指紋を集めているんですよ!ごぞんじでしょう、ミスタ・バンティング、警察が五本指の指紋を入手したら、その人は捕まったも同然なんですよ――いや、その、また犯罪を犯したりすればですけど。そのささいな情報を登録されたら、もうわれわれから逃れることはできないんです――どんなにあがいてもね。二十五万人近い人の記録があるんですが、ある人に犯罪歴があるかどうかは、そうですね、半時間もかからずに分かるんです。たいしたものでしょう?」

 「すごいね!」とバンティングは深く息を呑んだ。しかしふとその鈍感な顔が曇った。「たいしたものだが、指紋をとられたやつは生きた心地がしないだろうな、ジョー」

 ジョーは笑った。「同感です!」と彼は言った。「頭のいいやつはよく分かっているはずです。そういや、先だってこんなことがありました。指紋の記録がここにあることを知っているある男が、指の表面をめちゃくちゃに切り刻んだんですよ。指紋がはっきり採れないように――言っていること、分かります?でも六週間たったら、また皮膚が生えてきて、まるっきり元と同じシワ模様ができたんです!」

 「あわれなやつだ!」バンティングは声をひそめて言った。デイジーの明るい元気な顔にさえ影がさした。

 彼らは今度は狭い廊下を進み、ふたたび半開きのドアの前に来た。それは指紋鑑定室よりずっと小さな部屋に通じていた。

 「なかをのぞいてみてください」とジョーは短く言った。「指先から身元の割れた人とでも言うのかな、そういう人の全情報がここにあります。その人の前歴とか、前科とかがここに保管されているんです。指先の記録はさっきの部屋、犯人個人の記録はこっちの部屋――番号で関連づけられています」

 「すごいな!」バンティングは息を呑んだ。しかしデイジーは先に進みたくてしようがなかった。早く黒博物館に行きたかったのである。ジョーと父親が話していることは、彼女にとって現実味がまったくなかった。いや、わざわざ理解しようと努力するまでもない、ささいなことだった。しかし長く待たされることはなかった。

 ジョー・チャンドラーの親友とおぼしき、肩幅の広い、にこにこした青年が突然前に進み出ると、何の変哲もないドアの鍵を開け、彼ら三人の小グループを黒博物館へと導き入れたのだ。

 その瞬間、強い失望と驚きがデイジーの心を襲った。この大きな明るい部屋が何よりも思い起こさせたのは、彼女と伯母さん(オールド・アーント) が住む町の公共図書館にある「サイエンス・ルーム」と呼ばれる部屋だった。ここも、そこと同じで、部屋の中央にはガラスのケースが見やすい高さにしつらえてある。

 彼女はドアからいちばん近いケースにむかって進み、なかをのぞいた。展示されていたのは、ほとんどがみすぼらしい小物だった。取り散らかした家の、古いガラクタ置き場から出てきそうなものが並んでいたのだ。古い薬瓶、汚れたハンカチ、壊れたおもちゃの提灯、さらには薬箱まで……。

 壁はおかしな品物で埋め尽くされている。古い鉄のかけら、木と革でできた見慣れぬ形の物体などだ。

 実際、期待はずれもいいところである。

 しかしそのあとデイジー・バンティングはだんだんと気がついてきた。この大きな部屋を影ひとつなく光で満たしている最初の大窓のすぐ下に棚があって、そこには実物大の白い石膏の頭が一列に並んでいるのだ。どれもかすかに右に傾いている。それが十二個ほどあり、ひどく眼を剥き、無力感の漂う、異様な、生々しい表情を見せているのだ。

 「いったいこれは何だね?」バンティングが低い声で尋ねた。

 デイジーは心持ち父親の腕に身を引き寄せた。彼女にもこの奇怪な、痛ましい、眼を剥いた顔がデスマスクであることが分かったのだ。殺人者は死をもってその罪を贖うべしという、恐るべき法の命令に従った男女のデスマスクだ。

 「みんな絞首刑になった連中です!」と黒博物館の管理者は言った。「死んだあとで型を取ったんです」

 バンティングは神経質にほほえんだ。「なんだか死んでるようには見えないね。聞き耳を立てているみたいだ」

 「ジャック・ケッチ(註 十七世紀の悪名高い死刑執行人)のせいですよ」と男はおどけて言った。「あいつの思いつきでね――患者のネクタイを左耳の下で結ぶんです!たった一回だけお仕えする紳士には、誰彼かまわずそうしてあげるんです。すると顔が少し片方に傾くんです。ここ、見えます――?」

 デイジーと父親は少しだけ近寄った。話し手はそれぞれの首の左側にある小さなへこみを指さした。へこんだ部分からぐるりと奇妙な浅い筋が走っている。その上端にははっきりとした畝の模様が浮きあがり、絞首刑執行人のネクタイが永遠の門を急いで通り抜ける着用者の首を、どれほどかたく引き締めたかが分かるのだった。

 「間抜けに見えるね。恐怖とか――苦痛を感じているというより」バンティングは驚いたように言った。

 彼はこの物言わぬ、眼を剥いた顔に、ひとかたならず胸を打たれ、心をひきつけられた。

 しかしチャンドラー青年は陽気な平然とした声で言った。「まあね。こんなとき、人間は馬鹿みたいな顔になるものですよ。計画はみんな水の泡、しかも生きられるのはあと一秒ってわけですからね」

 「ああ、そうだろうね」バンティングはゆっくりとそう言った。

 デイジーは顔が少し青ざめていた。この場所の不吉でよどんだ空気に圧倒されかけていた。そばのガラスケースに収められたみすぼらしい小物は、いずれもが一連の証拠を構成した鎖の一つ一つであり、ほとんどすべての事件において、犯罪者である男女を死刑台送りにした物品なのである。

 「先日、皮膚の黄色い紳士がいらっしゃったんですよ」管理人は急に話し出した。「バラモンとかいうものの一人だそうです。いやあ、異教徒の考え方には実に驚かされます!彼はこう言ったんです――何て言葉だったけな、彼が使ったのは」彼はチャンドラーのほうを見た。

 「ここにあるものは、石膏の型を除いて――不思議なことに、石膏の型だけ別なんだそうです――悪を浸出させている、と言ったんです。そう、『浸出』って言葉を使っていました。なかから染み出すってことですよ。ここにいると気分が悪くなると言いましてね。まあ、それが嘘じゃないんです。黄色い皮膚の下が完全な緑色になっちゃって、ぼくらは急いで彼を外に出したんです。廊下のむこう端に行くまで回復しなかったんですよ!」

 「へえっ。そいつは妙な話だな」とバンティングが言った。「その男、きっと良心にやましいものがあったんじゃないかね」

 「じゃ、ぼくは行くよ」とジョーの気さくな友人が言った。「君が案内したらいい、チャンドラー。ぼくと同じくらいこの場所のことは詳しいものな」

 彼はジョーが連れてきた訪問者たちに別れの挨拶代わりの笑顔をむけた。しかし結局、彼は離れることができないらしい。

 「そうだ」と彼はバンティングに言った。「この小さなケースにはチャールズ・ピース(註 十九世紀英国の強盗殺人犯)の使った道具が入っているんです。やつの名前は聞いたことがあるでしょう?」

 「あるとも!」バンティングは勢い込んで言った。

 「大勢のお客さんが、このケースがいちばん興味深いって考えています。ピースはすばらしい男でしたからね!まちがった道を歩かなかったら、偉大な発明家になっていたかもしれないって言われてます。ほら、これがやつの梯子です。たたむとすごく小さくなって、あの当時のロンドンなら誰でも運んでいそうな古い木ぎれの束みたいになるんです。これなら人目をひきません。たぶん、これを持っているおかげで、なんども真面目な労働者に見まちがわれたんでしょう。逮捕されたとき、この梯子はいつだっておおっぴらに抱えて歩いていた、と真剣な顔つきで言ったそうですから」

 「ずぶとい野郎だ!」とバンティングが叫んだ。

 「ええ。この梯子は伸ばすと地面から三階まで届くんです。どんなに古いお屋敷でもね。そうそう!やつは実に利口な男でしたよ!節になってるところをひとつ開くと、ほかの節も自動的に全部開くんです。だからピースは地面に立ったままこいつを狙った窓まで静かに伸ばすことができたんですよ。で、仕事が終ったら、ただの古い木ぎれの束を小脇に抱え、また立ち去るってわけです!いや、悪賢いですね!ピースが指を一本なくしたときの話は知っていますか。指の一本ない男を探せ、という指令が警官のあいだに行き渡っているだろうと考えた彼はどうしたと思います?」

 「義指をはめたんだろう」とバンティングは言った。

 「ちがうんです!ピースは手をなくすことにしたんです。ほら、これが手のない義腕です。木でできているんですけど――木と黒のフェルトかな?うまい具合に手が収まるようにできていましてね。これはうちの博物館のなかでもいちばん巧妙に作られた発明品のひとつだと思います」

 一方、デイジーはとっくに父親の腕を放していた。喜び勇むチャンドラーに付き添われながら、彼女は大きな部屋の反対端に移動し、今は別のガラスケースの上に身を乗り出していた。「この小瓶はいったい何に使うの?」彼女は不思議そうに訊いた。

 五つの小型のガラス瓶に、それぞれいろいろな分量の濁った液体が入っている。

 「これには毒が詰まってるんです、ミス・デイジー。あんな少量のブランデーのなかにあなたとぼくを殺してしまえるくらいのヒ素が含まれているんです――ついでにお父さんだって殺せるでしょう」

 「それなら薬剤師はそんなもの売っちゃいけないと思うわ」デイジーは笑いながら言った。毒と縁のない彼女は、これらの小瓶を見てもただわくわくするだけだった。

 「もう売ってませんよ。これははえ取り紙から集めたものなんです。犯人の女は色を白くするための化粧品がほしかったと言ったんですが、でも本当にほしかったのは夫を殺すためのはえ取り紙だったんです。ちょっぴり旦那にあきちゃったんでしょう」

 「きっとひどい男で、殺されても当然だったのよ」とデイジーが言った。その思いつきがあまりに滑稽だったので、二人は声を合わせて大笑いした。

 「ミセス・パースって人の犯罪については聞いたことがありますか」チャンドラーは急に真顔になって訊いた。

 「ええ、知っているわ」デイジーは軽く身震いした。「かわいい赤ちゃんとそのお母さんを殺した卑劣な女よね。彼女の像がマダム・タッソーの蝋人形館にあるわ。でもエレンがあそこの恐怖の部屋に行かせてくれないの。この前ロンドンに来たときも、お父さんにあそこに行くのはだめって言ったのよ。なんて冷たい人だろうと思ったんだけど、でもなんだか今は前ほど行きたくなくなったわ。ここに来たから!」

 「実はね」とチャンドラーがおもむろに言った。「ここにはミセス・パースの遺品がいっぱい詰まったケースがあるんです。もっとも死体が発見された乳母車、あれはマダム・タッソーのところだそうです――少なくともむこうはあると言ってるけど。でもあれと同じくらい興味深くて、それほど恐ろしくないものがあるんです。あそこに男物のジャケットがあるでしょう?」

 「ええ」デイジーはたじろいだように言った。次第に重苦しい、薄気味悪い気分になってきたのだ。インド人がおかしくなったのも当たり前のように思えてきた。

 「強盗が邪魔になった男を撃ち殺し、うっかりあのジャケットを忘れていったんです。警察はボタンのひとつが半分に欠けていることに気づきました。そんなもの、たいした手がかりにならないと思うでしょう、ミス・デイジー。でも、あそこにあるもう半分が見つかって、それで犯人を絞首刑送りにできたんですよ。信じられます?三つあるボタンがみんなちがっていたんだから、ますますすごいことですよ!」

 デイジーは犯人を絞首刑にしたという小さなボタンの片割れを驚いたように見つめた。「じゃ、あれはなに?」彼女は汚い布きれを指さした。

 「いやあ」チャンドラーはしゃべりたくなさそうだった。「あれは忌まわしい品ですよ、本当に。女といっしょに埋められていたシャツの切れ端です――その、地面に埋められていたんですよ――亭主に死体をばらばらにされ、焼かれたあとに。あのシャツの切れ端のおかげで亭主を死刑にすることができたんです」

 「なんておぞましい場所なのかしら、この博物館!」デイジーはすねたようにそう言って横をむいた。

 彼女はまた廊下に出て行きたかった。この明るく照らされた、気持ちのよい、不吉な部屋を離れたかった。

 しかし父親のほうはさまざまな時限爆弾を収めたケースに夢中になっていた。「このいくつかはすばらしい芸術品ですよ」と案内役が熱をこめて言い、バンティングも同意せざるを得なかった。

 「行きましょうよ――ねえ、お父さん!」デイジーは早口に言った。「もう充分見たわ。これ以上ここにいたら恐くて鳥肌が立って来ちゃう。今晩、悪い夢なんか見たくないわ。世のなかにこんなにたくさん悪者がいるなんて、考えただけでもぞっとする。わたしたち、それとは知らずにいつ殺人鬼に出会うかもしれないってことじゃない?」

 「あなたは大丈夫ですよ、ミス・デイジー」チャンドラーがにっこりしながら言った。「けちなペテン師にだって会うことはないと思います。まして殺人犯なんか。百万に一つもそんな可能性はありません。だって、ぼくだってまともな殺人事件に関わったことがないんですから!」

 しかしバンティングは急がなかった。そこにいる一瞬一瞬を心ゆくまで楽しんでいた。そのときは黒博物館の壁にかかるいろいろな写真をじっくり見ていたところだった。とりわけ彼を喜ばせたのは、先ごろ世間を大いに騒がせ、いまだに謎が残っているスコットランドの事件に関係したものだ。しかも死亡した男の召使いが重要な役割を――事件の解明にではなく、謎を深めるという意味で――果したのだった。

 「殺人犯で捕まらないのも多いんだろうね」と彼はもの思いに耽るように言った。

 ジョー・チャンドラーの友人は頷いた。「でしょうね!」と彼は大声で言った。「イギリスに正義なんてものはありません。いつも殺人犯に有利なんです。まともに裁きが下るのは――つまり絞首台に行くのは――十人に一人もいないでしょう」

 「今起きている事件をどう思うかね。例の復讐者の殺人事件だが」

 バンティングは声をひそめた。しかしデイジーとチャンドラーはすでにドアのほうへ行きかけていた。

 「捕まることはないと思いますよ」相手はこっそりと答えた。「これは、ある意味、狂人をとっつかまえるようなものですからね、普通の犯罪者を捜し出すっていうんじゃなくて。もちろん――少なくともぼくの考えでは――復讐者は狂人ですよ。狡賢い、おとなしいタイプの。手紙のことは聞きました?」急に彼は声を落とした。

 「いいや」バンティングは真剣な眼で彼を見た。「何の手紙だね?」

 「手紙が来たんですよ――いつかこの博物館に収められるでしょうけど――二人いっぺんに殺した事件の直前に来たんです。『復讐者』って署名がありました。やつがいつも残していく紙片の文字と同じ活字体で。まあ、必ずしも復讐者本人がここに手紙を送ったとは言えないんだけど、その可能性は相当高いですよ。ボスはものすごく重要視しています」

 「投函された場所はどこだい?」とバンティングが訊いた。「ちょっとした手がかりになるかもしれないじゃないか」

 「いいえ、ぜんぜん」と相手は言った。「郵便物を出すときはうんと遠くまで出かけますからね――犯罪者ってのは。当然ですよ。しかし今言ったやつはエッジウエア通りの郵便局から出されてます」

 「何だと?うちの近くじゃないか」とバンティングが言った。「何てこった!気味が悪いな!」

 「われわれはいつ犯人と出くわすか分かりません。復讐者は、見かけは普通の人と変わらないと思うな。というか、普通だってことを知っていますけど」

 「じゃ、あいつを見たという女の言うことを信じるのかね?」バンティングはためらうように訊いた。

 「警察の手配書は彼女の証言をもとに作られました」と相手は用心深く答えた。「でも、分かりませんよ!こういう事件は手探りで――終始暗闇のなかを手探りするように捜査を進めなきゃなりませんからね――あれが最終的に正しかったと分かったとしても、それはただの幸運な偶然です。もちろん、事件のおかげで警察はてんやわんや。それはまちがいない!」

 「そりゃそうだろうね」とバンティングはすぐに言った。「実際、先月はあの事件のこと以外、何も考えられなかった」

 デイジーはもう姿がなかった。父親が廊下で彼女と合流したとき、彼女はうつむいてジョー・チャンドラーの言うことを聞いていた。

 彼は自分の実家のこと、母が住んでいるリッチモンドの家のことを話していた。小さな素敵な家で、公園の近くにあるのだ、と。彼は、いつか午後にでもそこに行くことはできないだろうか、と彼女を誘っていた。母親がお茶を出してくれるし、きっと楽しいだろうと訴えた。

 「エレンがどうして行かせてくれないのか分からないわ」と娘は反抗的に言った。「でも頭が古くて、小うるさいタイプだから、エレンは――ほんと、気むずかしいんだから!それにね、ミスタ・チャンドラー、あの家に泊まっているときは、お父さんもエレンが認めないことはわたしにさせようとしないの。でも彼女はあなたがずいぶん気に入っているから、もしもあなたが頼んだら――?」彼女は彼を見、彼はよく分かっているというふうに頷いた。

 「任せてください」と彼は自信ありげに言った。「ミセス・バンティングはぼくから説得しますよ。でもミス・デイジー」――彼は赤くなった――「一つ質問があるんですよ――気を悪くしないでほしいんですが――」

 「なに?」デイジーは小さく胸が弾んだ。「お父さんがこっちに来るわ、ミスタ・チャンドラー。早く言って。なに?」

 「今おっしゃったことですけど、誰ともお付き合いはしてないと取ってもいいんですね」

 デイジーは一瞬とまどった。それからその頬にずいぶんと可愛らしいえくぼを浮かべた。「そうよ」と彼女は悲しげに言った。「そうよ、ミスタ・チャンドラー。付き合ってる人はいない」彼女は思いきって正直に付け加えた。「出会いのチャンスがなかったのよ!」

 ジョー・チャンドラーはひどく嬉しそうにほほえんだ。

第十章

 これこそ願ってもない幸運だった。夫とデイジーがチャンドラー青年といっしょに出かけているあいだ、ミセス・バンティングはほぼ一時間近くも一人で家にいることができたのだから。

 ミスタ・スルースは昼間はほとんど外出しないのだが、この日の午後はお茶をすませて薄暗くなってきた頃に、急に新しい服が一そろいほしいと言いだした。女主人は買い物に出ると聞いて熱心に頷いた。

 彼が家を出るや、彼女は急いで客間の階にあがっていった。二つの部屋を徹底的に掃除する機会がついにやってきたのだ。しかしミセス・バンティングが心の奥底でよく理解していたように、彼女がしたいと思っていたのはミスタ・スルースの客間の掃除というより――はっきり何とは自分でも分からないのだけれど――漠然とした捜し物だったのである。

 使用人として働いていたとき、彼女の同僚は家族の秘密を嗅ぎ出そうという、曖昧ではなくはっきりした目的を持って、雇い主の個人的な手紙を盗み読みしたり、こっそり机の引き出しや棚のなかを覗いたものだ。それに対して、ミセス・バンティングは、言葉にこそしなかったものの、いつも深い軽蔑の念を抱いていた。

 しかし今、彼女はかつて他人がするのを見て卑しんでいた行為を、ミスタ・スルースに対して自ら行おうと心を決め、勇み立っていたのである。

 寝室を手はじめに、組織的な捜索が開始された。下宿人は非常に几帳面な紳士で、下着などの数少ない所持品は整然と片づけられていた。彼女は下宿人のごくわずかな洗濯物を自分やバンティングのものといっしょに洗うことにしていた。下宿人もこの手はずには大いに満足だった。幸いなことに彼が着ているシャツはソフト・シャツだった。

以前、ミセス・バンティングは毎週行うこの面倒な仕事のために女を一人雇っていたのだが、最近では自分でもすっかり要領をのみこみ、洗濯屋に任せるのはバンティングのシャツだけ。そのほかのものはすべて彼女が一人で洗った。

 彼女は整理ダンスから化粧台に注意を移した。

 ミスタ・スルースは外出するときお金を持ち歩かない。たいてい古い姿見の下の引き出しに置いていくのである。女主人は何気なくその小さな引き出しを開けてみた。しかしそこにあるものに手を触れようとはしなかった。ただソブリン金貨と何枚かの銀貨の山をちらりと見た。下宿人は服を買うのに必要なお金を持ち出しただけらしい。彼は彼女に服がいくらするのか尋ね、外出の理由を秘密にしようとしなかった。それが何となくミセス・バンティングを安堵させたのだった。

 彼女は化粧台掛けを持ちあげ、カーペットも少し捲いて下を調べたが、紙切れ一枚見つからなかった。連絡ドアを開け放ち、二つの部屋を行ったり来たりしながら、とうとう捜索をあきらめようと思いはじめたとき、彼女は下宿人の過去の生活を不安とともにあれこれ思い出した。

 ミスタ・スルースは確かに変わり者である。しかし変わっているといっても、良識を逸脱することはない。その振る舞いは、だいたいにおいて、彼が属する階級のほかの人々と同じ道徳的理念に基づいている。彼は飲酒に対しては異常な反応を示す。そのことに関しては気も狂わんばかりになると言っていい。しかしそれは彼一人に限った話ではない!エレン・バンティングは酒や酔っぱらいの話となると、ちょうど彼のように、異常な態度を取る貴婦人と生活したことがある。彼女はこぎれいな客間をなんとなく不満そうに見渡した。何かが隠されているとしたら、残っている場所は一つしかない。それは小さくても、重量感のあるマホガニー製の飾り棚だった。そのとき、今まで一度も浮んだことのなかった考えがミセス・バンティングの頭に突然浮んだ。

 ミスタ・スルースが思ったよりも早く戻りはしないかと、ひとしきり耳をすませたあと、彼女は飾り棚のある隅へゆき、さしてあるわけでもない力を細腕に込め、重いこの家具を前に傾けたのである。

 すると奇妙なガサガサという音が聞こえた。何かが二番目の棚のなかを転がっているのだ。ミスタ・スルースの到着前にはなかったはずの何かが。ゆっくりと時間をかけて、彼女は飾り棚を前へ後へと傾けた。一回、二回、三回。彼女は満足と同時に不思議な困惑を感じた。消えてなくなり彼女を驚かせたあの鞄が所有者によってしっかり鍵を掛けられ、そこにしまいこまれていることはまちがいない。

 ひどく具合の悪い考えがふとミセス・バンティングの心に浮んだ。彼女は鞄が棚のなかで動いたことをミスタ・スルースに感づかれたくはないと思った。しかし次の瞬間、ミスタ・スルースの女主人はがっくり肩を落とした。飾り棚を動かしたことは下宿人にばれてしまうにちがいない。何か黒っぽい色の液体が細い筋となって小さな棚の扉の下から流れ出していたからである。

 彼女は身体を屈めてその液体に触ってみた。指についたそれは真っ赤な色をしていた。

 ミセス・バンティングの顔面は蒼白になり、そしてすぐにもとに戻った。実際、あっという間に顔に赤みがさし、身体じゅうが熱くなったのである。

 赤インクの瓶をひっくり返しただけ――何のことはない!それ以外のものであるわけがないのに、わたしったら何を考えていたのだろう。

 まったく迂闊な話だ――彼女は自分をあざけり、非難するようにこう思った――下宿人が赤インクを使っていることを自分は知っていたではないか。クルーデンのコンコーダンスは、ページによってはミスタ・スルース独特の真っ直ぐな字で埋め尽くされていた。びっしり感想や疑問のメモが書き込まれ、余白がまったくなくなっているところもあったのだ。

 ミスタ・スルースは何も考えずに赤インクの瓶を飾り棚のなかにしまったのだろう。それが彼女の可哀相な、愚かしい紳士がしたことなのだ。そして彼女の物好きな詮索のせいで――彼女が知ったところで毒にも薬にもならぬことを何とか知りたいと思ったせいで、こんな事故が起きてしまった。

 彼女はぞうきんで緑の絨毯の上に落ちた数滴のインクを拭き取った。われながら救いがたいうろたえようだと、怒ったように心のなかで思いながら、彼女はもう一度裏手の部屋へ入っていった。

 ミスタ・スルースが便箋を持っていないのはおかしなことだった。最初に買うものの一つだろうと彼女は思っていたのだ。紙は非常に安いのだからなおさらである。とりわけやや汚く見える例のシルリアン・グレーの紙は安い。ミセス・バンティングがかつていっしょに暮らしていたとある婦人はいつも二種類の便箋を使っていた。友人や同等の地位の人には白い紙を、彼女が「一般人」と呼んでいた人々には灰色の紙を使っていた。当時まだエレン・グリーンであった彼女はそのことにいつも憤慨していた。どうしてなのだろう、あんなことを今になって思い出すなんて。あのときお仕えしていた女性は本物の貴婦人ではなかったけれど、ミスタ・スルースは、奇癖の持ち主とはいえ、掛け値なしに本物の紳士なのだから、ますますわけが分からない。彼が便箋を買うなら安い灰色のものではなく、白地のものを買うだろう――白くて、おそらくクリーム色の簀の目の入った紙を買うだろう、とミセス・バンティングはなぜか確信していた。

 彼女はもう一度古いタンスの引き出しを開け、ミスタ・スルースの肌着を何枚か持ちあげてみた。

 しかし何もなかった――隠されているものは何もない。考えてみればおかしなことだ。有り金は誰でも手の届くところに置いていくのに、安いにせの革鞄とか、さらにはインクの瓶みたいな無価値なものを鍵を掛けてしまいこむのだから。

 ミセス・バンティングは姿見の下の小さな引き出しを一つ一つもう一度開けてみた。そのどれもが立派な古いマホガニーを用いて美しく仕あげられていた。ミスタ・スルースは真ん中の引き出しにお金を入れていた。

 鏡はたったの七シリング六ペンスしかかからなかった。しかもオークションのあとである業者が譲ってもらえないだろうかと、最初は十五シリング、次に一ギニーを提示したのだった。先ごろベーカー通りでこれとまったく同じ鏡を見たが、そのラベルには「チッペンデール。骨董品。二十一ポンド五シリング」と書いてあった。

 そこにミスタ・スルースのお金があった。女主人がよく知っているように、そのソブリン金貨は次第次第に彼女とバンティングのものになっていく。もちろんまっとうな稼ぎだ。しかしこの鈍く輝くソブリン金貨の現在の持ち主に出会わなければ決して手に入れられない――いや、稼ぐことのできない――金だった。

 ようやく彼女は下に降り、ミスタ・スルースの帰りを待った。

 玄関から鍵の音が聞こえたとき、彼女は廊下に出てきた。

 「申し訳ございません、旦那様、不始末をしでかしてしまいまして」彼女は緊張して少し息が乱れた。「お出かけになっているあいだに客間にあがってお掃除をしたのでございますが、飾り棚のうしろに手を伸ばしたとき、棚が傾いてしまいまして。なかに入っていたインク瓶が割れてしまったかもしれません。ほんの数滴ですが、インクがこぼれてきたんでございます。たいしたことがなければいいのですが。飾り棚に鍵がかかっていましたので、外側だけ、できるだけきれいに拭いておきました」

 ミスタ・スルースは愕然とした、ほとんど怯えたような目つきで彼女を見つめた。しかしミセス・バンティングはうろたえなかった。彼が帰ってくるまえと比べると、はるかに落ち着きを取りもどしていた。帰ってくるまえは、あまりの怖さに家を出て、通りで相談する相手を探そうと思ったくらいだった。

 「あのなかにインク瓶を入れていらっしゃるとは思いも寄りませんでしたので」

 彼女は弁解するようにしゃべった。下宿人の表情が明るくなった。

 「旦那様がインクをお使いになることは存じておりました」とミセス・バンティングは話しつづけた。「お持ちの本に書き込みをなさっているのを見たことがございます――その、聖書といっしょにお読みになっている本でございますが。かわりの瓶を一つ買ってまいりましょうか、旦那様」

 「とんでもない」とミスタ・スルースは言った。「ありがとう。でも結構ですよ。すぐに上に行って様子を見てきましょう。用があるときは呼び鈴を鳴らします」

 彼はぎこちなく彼女の脇を通り抜けた。五分後に客間の呼び鈴が鳴った。

 ドアのところから、扉を大きく開けた飾り棚がミセス・バンティングの目に飛びこんできた。棚のなかは空っぽで、下の棚にインク瓶が赤い水たまりのなかに転がっているだけだった。

 「木に染みが残ってしまいますね、ミセス・バンティング。あそこにインクを入れておくべきではなかった」

 「そんなことございませんわ、旦那様!お気になさらないで。一二滴絨毯に落ちたんですけど、隅の暗がりですから特に目立ちません。瓶を片づけましょうか。そのほうがよろしいですわね」

 ミスタ・スルースはためらった。「いいえ」と彼は長い間を置いて答えた。「片づけなくてもいいですよ、ミセス・バンティング。ほんのちょっとあればいいんです。瓶に残っているインクだけで充分。少し水を加えればいいでしょう。お茶を加えればもっといいんだけれど。聖書のなかで特に興味をひいた一節はコンコーダンスに印をつけておくんです。インクはそれに使うだけですからね。コンコーダンスというのは、ミセス・バンティング、この、ええと、クルーデンという紳士が作っていなかったらわたしが喜んで編纂していた本ですよ」

******

 その晩のエレンはいつもよりはるかに愛想がよかった。これはバンティングだけではなくデイジーも思ったことだった。彼女は二人が語る興味深い黒博物館の話を最後まで聞き、二人のどちらをも鼻であしらうことがなかった。バンティングが絞首刑者から取った恐ろしい、容易に忘れられない、けれども間の抜けたデスマスクのことを話したときでさえ黙って聞いていたのである。

 しかし数分たって夫が彼女に質問をしたとき、ミセス・バンティングは的外れな答えを返した。彼女が相手の最後の言葉を聞いていなかったことは明らかだった。

 「何を考えているのかな!」と彼はおどけて言った。しかし彼女は頭を振るだけだった。

 デイジーはこっそり部屋を出て、五分後に青と白の格子チェックのシルクガウンを着て戻ってきた。

 「おうや!」と父親が言った。「すてきじゃないか、デイジー。その服ははじめて見たよ」

 「おかしな格好ねえ!」とミセス・バンティングは嫌みな口調で言った。「そんなおめかしをするなんて、誰かを待っているということよね。お二人とも今日は充分チャンドラーに会ったんじゃないの。いったいあの人、いつ仕事をしているのかしら。本当に不思議だわ!忙しいったって、うちに来て一二時間は無駄話する余裕があるみたいなんだから」

 しかしその晩エレンが言った皮肉はそれでおしまいだった。デイジーですらまま母がぼうっとしていて、いつもとはちがうことに気がついた。料理も、彼女がしなければならない細々した仕事も、いつもよりずっと静かにこなしていくのだった。

 しかしその物静かな、ほとんど無愛想といってもいい態度の裏側で、どれほど不安と、暗い苦悩と、病的な緊張が嵐のように激しく吹き荒れていたことだろう。それは彼女の魂を揺さぶり、病弱な身体に襲いかかり、思わず彼女は、単純な日々の仕事さえこなせないのではないかと何度も思ったのだった。

 夕食をすませたあと、バンティングは外に出て一ペニー新聞を買ってきた。しかし戻ってくるとやや沈んだ笑顔を見せた。そしてこの一二週間、小さな活字を読み過ぎて目が痛いと言うのだった。

 「わたしが読んであげるわ、お父さん」とデイジーが意気込んで言った。彼は娘に新聞を渡した。

 デイジーが唇を開こうとした瞬間、大きなベルとノックの音が家じゅうに鳴り響いた。

第十一章

 何のことはない、ジョーが訪ねてきただけだった。なぜかバンティングさえ今では彼のことを「ジョー」と呼んでいた。昔はほとんど「チャンドラー」だったのだけれども。

 ミセス・バンティングは玄関のドアを細めに開けて見た。見知らぬ人間に強引になかに入られたくなかったのだ。

 敏感な被害意識を持つ彼女にとって家は死守しなければならない城砦だった。そう、かりに攻め手が強大で、正義が彼らの側にあるとしても。彼女は大隊の先触れとなる最初の斥候をいつも待ち受けていた。彼らに対する唯一の武器、それは女の知略と狡猾だけであったろう。

 しかし玄関先ににこにこしながら立っている人が誰だか分かると、彼女は顔をほころばせた。夫とまま娘に背を向けたときの、緊張した、不安げな、ほとんど苦悶するような表情は溶けて消えた。

 「あら、ジョー」彼女はささやくように言った。居間のドアを開けっぱなしにしていたからだ。それに、デイジーが父に頼まれ新聞を読んでいた。「さあ、お入りなさい!今晩はかなり冷えるわね」

 彼の顔を一瞥しただけで新しいニュースがないことが分かった。

 ジョー・チャンドラーは彼女の脇を通り、小さな玄関広間に入った。冷える?彼はぜんぜん寒さを感じなかった。一刻でも早くこの家に着くよう急いで歩いて来たのだ。

 あの最後の恐るべき事件、ちょうどデイジーがロンドンに到着した日の早朝に起きた二重殺人以来、九日が過ぎていた。ロンドン警視庁に所属する何千人もの警官――もちろんそれより数の少ない、しかし機敏な刑事たちもそこには含まれる――が厳戒態勢をしいていたが、しかし誰もが徒労感に襲われはじめていた。人間は恐怖にすら慣れ、油断を生じるものなのだ。

 だが一般大衆はそれどころではなかった。この奇怪な、謎めいた連続犯罪は恐怖と興味の入り混じった感情をかきたて、それは毎日何らかの出来事によってよみがえらせられ、いつまでも持続させられていた。穏健派の新聞でさえますます厳しく、ますます憤りをこめて、警視総監を攻撃した。二日前にヴィクトリア・パークで開催された大抗議大会では、内務大臣に対してすら激しい非難が向けられたのだった。

 しかし今ジョー・チャンドラーはそのすべてを忘れてしまいたかった。メリルボーン通りの小さな家は彼にとって夢のなかの魔法の島であり、つまらなくて退屈な仕事の最中も、暇さえあれば思いを馳せる場所だった。彼の同僚は二重殺人が行われてから二十四時間もたたないうちに「ちぇっ、この男を捕まえるより麦わらの山のなかから針を探すほうが簡単だぜ!」と叫んだが、彼も心のなかでは、まったくだと思っていた。

 同僚の言葉が、あのとき事実を言い当てていたとしたら、今は――九日という長い、むなしい日々が過ぎ去った今は、どれほどもっと事実を言い当てているだろう。

 彼は手早く外套とマフラーとロー・ハットを脱いだ。それから唇に指を当てて、笑みを浮かべながらミセス・バンティングに、ちょっと待って、という仕草をした。玄関広間のその位置から見ると、父と娘の姿は、楽しく満ち足りた家族団欒のささやかな一場面を形作っているのだった。その光景を見て実直なジョー・チャンドラーは胸がいっぱいになってしまった。

 まま母と言い合いになった、青と白のチェック柄のシルクドレスを着たデイジーは、煖炉の左側の低い背なし椅子に座っている。一方、バンティングは自分の快適な肘掛け椅子にもたれて、耳に手を当て聞き入っている。その姿勢は――ミセス・バンティングはそれをはじめて目にし、どきりとしたのだが――聞き手に老いのせまりはじめていることを示していた。

 大叔母の付き添いとしてデイジーがなすべき義務のひとつは新聞を読みあげることだった。彼女は自分には才能があると思って自慢していた。

 ジョーが唇に指を当てたとき、デイジーは「この記事を読みましょうか、お父さん」と言ったところだった。バンティングはすぐに「ああ、頼むよ」と答えた。

 彼は朗読に夢中になって聞き入り、ドアのところにジョーの姿を見いだしても軽く頷いただけだった。青年はしょっちゅう家に来ているから、ほとんどその一員といってもよかった。

 デイジーが読みあげた。

 「復讐者に関する――」

 そこで彼女は詰まってしまった。次の一語の読み方が分からなかったのである。しかし彼女は勇ましく読みつづけた。「し――け――ん」。

 「入りなさいよ、さあ!」ミセス・バンティングは訪問者にささやいた。「こんな寒いところで何をしているの?おかしな人ねえ」

 「ミス・デイジーの朗読をじゃましたくないんです」とチャンドラーはややしわがれた声でささやき返した。

 「部屋に入ったほうがよく聞こえるじゃない。あなたが来たからって止めやしないわ。恥ずかしがるような玉じゃないんだから」

 青年はそのぶっきらぼうで、辛辣な口調に憤りを感じた。「かわいそうになあ、あの娘は!」と彼は優しく心のなかで思った。「本当のおふくろじゃなくて、まま母を持つってのは、こういうことなのか」しかし彼はミセス・バンティングの言葉に従い、次の瞬間には、従ってよかったと思った。デイジーが目をあげ、その愛らしい顔をぱっとバラ色に染めたからである。

 「ジョーは朗読を止めないでほしいんですって。さ、つづけなさい」とミセス・バンティングは早口に命令した。「ジョー、むこうに座りなさいな、デイジーのそばに。一語だって聞き漏らさないようにね」

 彼女の声には皮肉な響きがあって、チャンドラーでさえそれに気がついたが、しかし彼はいそいそと部屋のむこうに行ってデイジーのすぐうしろの椅子に座った。そこからは彼女のほっそりしたうなじが見えた。金色の髪が上にむかって生えているのを見ると、彼は敬虔な喜びを感じた。

 「復讐者に関するし――け――ん」

とデイジーは咳払いしてからふたたび読みはじめた。

 「編集者殿――ここに差し出しますのは、わたしの考えるところ、きわめて重大な提言であります。復讐者は――犯人がそう呼ばれることを望んでいるようなので、この呼称を使いますが――おそらくミスタ・ルイス・スティーブンソンの有名な登場人物、ジキルとハイドのごとき個性を持っている人間ではないかと推察されます。

 思いますに、犯人は落ち着いた、人当たりのよい、ウエスト・エンドのどこかに住む紳士ではないでしょうか。しかしながら彼は過去に悲劇を経験しています。彼にはアルコール中毒の妻があるのです。彼女はもちろん施設で保護されているのですが、家のなかでその名が口にのぼることはありません。おそらく彼は未亡人の母と暮らしているのでしょう。もしかしたら未婚の妹もいるかもしれません。彼らは彼が最近ふさぎこみ、物思いに沈むようになったことに気づいています。しかし彼はいつも通り、あたりさわりのない趣味に興じて毎日を過ごしている。霧の夜、彼はこっそり家を抜け出します。たぶん一時と二時のあいだぐらいでしょう。そして足早に復讐者が殺人を犯すあたりへとまっすぐにむかう。手頃な犠牲者を選び出すと、ユダのようなもの柔らかな態度で彼女に近づき、恐るべき犯行のあとは、こっそりとまた家に帰るのです。ゆっくり風呂につかり、朝食をしたためたあと、彼は幸せそうな顔であらわれる。ふたたび物静かな紳士、孝行息子、親切な兄、大勢の知人や友人に尊敬され、あまつさえ愛されもする人間になるのです。その一方で警察はいつも通り犯罪的異常者をとっつかまえようと悲劇の現場を捜索しつづけている。

 この私見がどれだけ核心を突いているかは分かりません。しかし警察がその調査範囲を、殺人が実際に行われたロンドンの特定地域に限定しているのは、あきれたことと言わざるをえません。たしかにすべての情報が新聞各社に流されているわけではないでしょう。そのことは忘れるべきではありませんが、しかし今まで分かったことから判断するに、復讐者を捕らえるにはイースト・エンドではなくウエスト・エンドをこそ捜索しなければならないと愚考します。

恐々謹言――」

 そこでデイジーはまたつっかえた。そして読みにくそうに「ガブ――リ――ヨウ」と次の語を発音した。

 「おかしな名前だね!」とバンティングはびっくりしたように言った。

 ジョーが口をはさんだ。「それは探偵小説を書いているフランス人の名前です」と彼は言った。「なかにはすごくいい作品もあるんですよ」

 「じゃ、このガブリヨウってのはイギリスまで来て、復讐者の殺人事件を研究しているのかい?」

 「いや、そうじゃないでしょう」ジョーは自信ありげに言った。「そのくだらない手紙を書いた人が冗談にそんな署名をしただけですよ」

 「実際、くだらない手紙だわ」ミセス・バンティングが腹を立てて割り込んできた。「格式のある新聞がそんなでたらめを載せるなんて」

 「でも復讐者が本当に紳士だったとしたらどうかしら!」とデイジーがぞっとしたように叫んだ。「テンシがひっくり返るような大騒ぎになるわね!」

 「その意見はまんざら捨てたもんじゃないかもしれん」と父親が考え込みながら言った。「なにしろ怪物はどこかにいるにちがいないんだから。この瞬間も、やつはどこかに隠れているにちがいないんだ」

 「そりゃどっかにいるでしょうよ」とミセス・バンティングは嘲笑するように言った。

 ちょうどそのとき、彼女はミスタ・スルースが頭の上で動き回る音を聞いたのだった。もうすぐ下宿人の夕食の時間だ。

 彼女は急いで言った。「でも、わたしの言いたいのは、つ、つまり、犯人はウエスト・エンドとは何の関係もないってこと。だって、犯人は波止場の船乗りだって言うじゃない。そのほうが可能性が高いと思うわ。ああ、でも、こんな話、もうたくさん!この家で話すことは、そればっかり。何かにつけ復讐者、復讐者――」

 「ジョーが新しいニュースを持ってきてくれたんじゃないかな」とバンティングが陽気に言った。「どうなんだい、ジョー、新展開はないのかね」

 「お父さん、これを聞いて!」デイジーが興奮したように言葉をはさんだ。彼女は読みあげた。

 「ブラッドハウンドの利用を検討中」

 「ブラッドハウンド?」ミセス・バンティングが鸚鵡返しに言った。声が怯えていた。「どうしてブラッドハウンドなんかを。よくもそんな恐ろしいこと!」

 バンティングは軽く驚いたように彼女を見た。「どうしてだい。すごくいいアイデアじゃないか。町中にブラッドハウンドを放せるならね。しかし無理だろうなあ。ロンドンには肉屋がいっぱいあるもの。屠殺場なんかは言うにおよばず」

 しかしデイジーは読みつづけた。縮みあがるまま母の耳には彼女の溌剌とした若い声が、喜びというか、悪意に満ちた満足に、恐ろしくも打ち震えているように感じられた。

 「これを聞いて」と彼女は言った。

 「ブラックバーン近郊の寂しい森で起きた殺人事件ではブラッドハウンドが犯人の足取りを追跡、その明敏な本能のおかげで悪党はついに有罪・死刑に処せられた」

 「ほほう!誰がそんなことを考えついたのかなあ」とバンティングは感心して大声をあげた。「新聞てのも、ときには役に立つことを書くじゃないか、ジョー」

 しかしチャンドラー青年は頭を横に振った。「ブラッドハウンドなんて何の役にも立ちません」と彼は言った。「ぜんぜんだめですよ。警視庁がこれまで寄せられた提案にいちいち耳を傾けていたら――僕らの仕事は膨大なものになっちまいます――今だって膨大なんですがね!」彼は元気なくため息をついた。やけに疲れたような気分になりはじめていた。楽しくて居心地のいいこの部屋にずっと腰を落ち着け、デイジー・バンティングの朗読をいつまでも聞いていられたなら、どんなにすばらしいだろう!しかしもうすぐ外の寒くて霧深い夜のなかへ出ていかなければならないのだ。

 ジョー・チャンドラーは新しい仕事が急にいやでたまらなくなりはじめていた。不愉快なことがたくさん付随しているのだ。彼が住んでいる家でも、いつも行く食堂でも、まわりの人々は警察の怠慢を彼にむかってなじるのである。それだけではない。弁舌のさわやかさゆえに彼がいつも尊敬していた若い友だちは、なんとヴィクトリア・パークの大抗議集会に参加し、ロンドン警視庁だけでなく、内務大臣をも非難する、過激な演説をぶったのだった。

 しかしデイジーは朗読をやめる気などさらさらなかった。自分には才能があると信じこんでいる人にはよくあることだ。

 「別の意見もあるわ!」と彼女は言った。「別の人の手紙よ、お父さん」

 「共犯者は罪に問うべからず。

 編集者殿――この二日ほどのあいだ、わたしはとりわけ聡明な知人たちから次のようなことを示唆されました。すなわち、復讐者は、それが誰であろうと、一定数の人々にその正体を知られているにちがいない、と。生来、どれほどホーロー癖があろうと、このような所業をしておきながら――」

 「ホーローって何かしら」デイジーは読むのを中断し、わずかばかりの聴衆を見回した。

 「いつも言ってるだろう、やつはいたってまともな人間なんだって」バンティングは自信を持ってそう言った。

 デイジーはその説明に満足して先を読み進んだ。

 「……どれほどホーロー癖があろうと、このような所業をしておきながら住むところがないということはありえず、少なくとも一人の人にはその行動が知られているはずであります。さて恐るべき秘密を知るこの人物は明らかに情報を秘匿しています。賞金が出るのを待っているのか、あるいは、もしかすると、事後従犯であるがために、情報提供の結果を恐れているのかもしれません。わたくしが提案したいのは、内務大臣が無条件で刑罰免除を約束することです。わたしがこのことを強く申しあげたいのは、それが犯人を法に照らして処罰する唯一の方法だからです。犯行の現場を取り押さえる以外、犯人を特定することは極めて困難です。なぜなら英国の法律は状況証拠をまったく軽視しているからであります」

 「この手紙はいいことを言ってますよ」ジョーが身を乗り出して言った。

 今や彼はデイジーに触れんばかりに近づいていた。彼の言うことをよく聞こうと、明るい、可愛らしい、小さな顔が彼のほうを振り向いたときは思わずにっこり笑みを浮かべた。

 「どういうこと、ミスタ・チャンドラー?」

 「列車のなかでお年寄りの紳士を殺した男をおぼえていますか。やつはある人にかくまってもらっていたんです。母親の知り合いの女ですよ。ずいぶん長いこと、潜伏を助けていました。でもとうとう彼を警察に突き出しましてね。彼女もたんまり賞金を手に入れたんです」

 「賞金のために誰かを突き出すなんて、とてもできないな」とバンティングがゆっくり、断固たる口調で言った。

 「そんなことありませんよ、ミスタ・バンティング」とチャンドラーは自信たっぷりに言った。「誰もが果たすべき義務を果たすだけなんですから。つまり、その、善良な市民であれば誰でもが果たすべき義務をね。おまけにそれでご褒美がもらえるんです。普通、義務を果たしたってご褒美なんかもらえませんよ」

 「賞金目当てに誰かを警察に突き出すなんて、けちな密告者以下だよ」とバンティングは片意地になって言った。「誰もそんなふうに呼ばれたくはないだろうよ!しかし、ジョー、君の場合はちがう」と彼は急いで言い足した。「悪いことをしたやつを捕らえるのは君の仕事だからな。君のような人間のところへ、かくまってもらいに行くやつは大馬鹿だろうね。ライオンの口のなかに飛び込むようなものだ――」そう言ってバンティングは笑った。

 デイジーがこびるような口調でこう割り込んできた。「わたしは悪いことしても、平気でミスタ・チャンドラーに助けてもらうと思うわ」

 ジョーは目を輝かせて叫んだ。「あなたが悪いことをするなんて!でも悪いことをしても、ぼくは警察に突き出したりしませんから安心してください、ミス・デイジー!」

 そのとき、驚いたことに、テーブルの上に顔をうつむけて座っていたミセス・バンティングが唐突に叫び声をあげた。焦燥と怒り、そしてそれを聞いた者の耳には、苦痛の響きも込められているように思えた。

 「おい、エレン、具合がわるいのかい」バンティングがすぐさま訊いた。

 「ただの痙攣。脇腹に痛みがさしこんで」と哀れな女は苦しそうに答えた。「もう何ともないわ。心配しないで」

 「でも、信じられないなあ、うん、この世に復讐者の正体を知っている人がいるなんて」チャンドラーが早口につづけた。「まあ、他人のことはともかく、自分のことを考えたら、誰だってやつを警察に突き出すのが当然だと思います。誰があんなやつをかくまおうとするんです?いっしょにいたら危険じゃないですか!」

 「あなたの考えじゃ、犯人はあの非道な振る舞いに責任はないということ?」顔をあげたミセス・バンティングは熱心な、不安そうな目でチャンドラーを見つめた。

 「残念に思うでしょうね、絞首刑にしてやれないとしたら!」チャンドラーが落ち着いて言った。「だって、これだけぼくらに迷惑をかけたんですもの!」

 「あいつには絞首刑だってもったいない」とバンティングが言った。

 「責任がないなら絞首刑にするべきじゃないわ」妻が鋭く言った。「そんな残酷な話、聞いたことがない――ひどすぎるわよ!その人が狂っているなら、施設に入れるべきです――そうよ、入院させるのが当然だわ」

 「今度は彼女の意見を拝聴しようか!」バンティングは愉快そうにエレンを見た。「まったく、天の邪鬼なんてもんじゃないな。しかし、妻は最近あの怪物に肩入れしているみたいなんだ。生まれついての絶対禁酒家だからね」

 ミセス・バンティングは椅子から立ちあがった。「何くだらないこと言っているの!」彼女は怒って言った。「でも、ちょっとのあいだでも酒場から女性がいなくなったというのはいいことだわ。イギリスの飲酒はイギリスの恥――その考えは変わりません!さあ、デイジー、立って、立って!その新聞は片付けなさい。もう朗読は十分。わたしが台所に行っているあいだにテーブルクロスを敷いてちょうだい」

 「そうだ、下宿人の夕ごはんを忘れちゃいけないね」とバンティングが言った。「ミスタ・スルースはいつも呼び鈴を鳴らすわけじゃないからな――」そう言って彼はチャンドラーのほうをむいた。「この時間はよく外出しているのさ」

 「そんなにしょっちゅうじゃないわ。たまによ。何か買うものがあるときだけ」ミセス・バンティングがぴしりと言った。「あの方の夕ごはんを忘れたわけじゃないのよ。ただ八時前に食べたがることはないから」

 「わたしが下宿人の夕ごはんを持っていくわ、エレン」デイジーの張り切った声が言った。彼女はまま母の言いつけに従って立ちあがり、今ちょうどテーブルクロスを広げているところだった。

 「とんでもないわ!言ったでしょう、お給仕役はわたしでないといやがるのよ。あなたはこの部屋の支度をいろいろしてちょうだい。手伝ってほしいのはこっちの仕事」

 チャンドラーも立ちあがった。デイジーが忙しそうに立ち働いているとき、どういうものか、ぼうっとしているのはいやだったのである。「そうそう」とテーブル越しにミセス・バンティングを見ながら彼は言った。「お宅の下宿人のことを忘れていました。トラブルもなく順調にいってますか」

 「こんなに物静かで行儀のいい紳士ははじめてだよ」とバンティングが言った。「いや、まったく、ミスタ・スルースのおかげでわれわれにも運がむいてきた」

 妻が部屋を出て、むこうへ行ったことを確かめると、デイジーが大笑いした。「信じられないでしょうけど、ミスタ・チャンドラー、わたし、そのすばらしい下宿人をまだ見たことがないの。エレンが独り占めしているから。ほんとよ!わたしがお父さんだったら、妬いちゃうわ!」

 二人の男は笑った。エレンが?まさか。そんなことは考えただけでも滑稽だった。

第十二章

 「デイジーが行かなくってどうするの。当たり前じゃない。いつも思う通りになるとは限らないのよ――少なくともこの世の中では」

 夫もまま娘も同じ部屋にいたのだが、ミセス・バンティングは特にどちらかにむかって話しているようには見えなかった。彼女はテーブルのそばに立ってまっすぐ前をむき、しゃべっているときはバンティングからもデイジーからも視線をそらしていた。その声にはとげとげしくきっぱりした、か細いけれども有無を言わせぬ調子があった。二人がよく知っている調子だ。この声に対してはどちらの聞き手も他方の聞き手が無力であることを心得ていた。

 しばらく沈黙が訪れ、それからデイジーがいきり立ったようにしゃべりだした。「わたしはいやなの。どうして行かなきゃならないの!」と彼女は叫んだ。「お手伝いもしてきたじゃない、エレン。あなただって調子が悪そうだし」

 「わたしは何ともありません――大きなお世話です!」ミセス・バンティングはぴしりと言い、青ざめた、やつれた顔を怒ったようにまま娘にむけた。

 「あなたやお父さんといっしょにいられる機会は、めったにないのよ」デイジーは涙まじりに言った。バンティングはとがめるように妻を見た。

 デイジーのもとに一通の招待状が届いたのだった。差出人は彼女の死んだ実の母の妹で、ベルグレイブ・スクエアの大きな屋敷で家政婦をしている。屋敷の一家がクリスマス休暇で旅行に出たので、デイジーの名付け親であるマーガレット叔母さんが二三日お屋敷のほうに来てくれないかと姪に言ってよこしてきたのだ。

 しかし娘はベルグレイブ・スクエア百番地の大きくて憂鬱な地下室の生活をすでに一度ならず味わっていた。マーガレット叔母さんは現代的な雇い主がいつもため息をもらすような古風な召使いだった。家族が出かけているあいだ、彼女は嬉々として客間の二つの飾り棚に収められた六十七の貴重な陶磁器を磨いた。彼女はこれを自分の特権と見なしていた。またすべてのベッドに順番に寝て、空気を通し、布団がしけらないようにした。彼女はこの二つの義務を若い姪に手伝ってもらおうと思っていたのだ。デイジーは考えただけでもうんざりした。

 しかしこの一件はすぐに結論を下さなければならない。手紙は一時間前に届いていた。なかには電信切手を貼った電報用紙が入っており、そのうえマーガレット叔母さんはいい加減に扱うことのできない存在だった。

 朝食のときから三人はその話ばかりをしていた。ミセス・バンティングは最初からデイジーを出ていかせるつもりだった。そうするのが当たり前、議論の余地はない、というのである。しかし議論は全員によって行われ、バンティングは今回にかぎり妻に反対意見を述べた。もっとも、当然のことながら、それはエレンの態度をいっそう硬化させ、いっそう意固地なものにしただけだったけれども。

 「子供の言うことが正しいよ」と彼は言った。「おまえは具合がよくないみたいじゃないか。最近、二回も気分が悪くなったんだ――そうだろう、エレン。おれがちょいとバスに乗ってマーガレットに会ってくる。事情を話せば、分かってくれるさ!」

 「そんなことしないでちょうだい!」ミセス・バンティングは先ほどのまま娘とほとんど同じくらいいきり立って言った。「わたしに病気になる権利はないの?ほかの人みたいに、具合が悪くなって、またよくなる権利がないとでも言うの?」

 デイジーは振り返って両手を握り合わせた。「ねえ、エレン!」と彼女は言った。「わたしがいないと困るって言ってちょうだい。古い地下牢みたいな、あんなひどいところに行きたくないわ」

 「好きになさい」とミセス・バンティングはむっつりとして言った。「あなたがた二人にはうんざりする!いつかわたしみたいに分かる日が来るわ、デイジー、この世でいちばん大切なのはお金だってことが。今年のクリスマスをいっしょに過ごさなかったという、それだけのことでマーガレット叔母さんが遺産をほかの人にやってしまったらどうします。そのときは文無しの身分がどんなものか、あなたにも理解できるでしょう。自分がどんなに馬鹿だったか、身に沁みて分かるでしょうよ。もう取り返しがつかないってことが!」

 それを聞いてデイジーはその手に握った勝利が奪いさられるのを感じた。

 「エレンの言うことは正しいよ」バンティングは重々しく言った。「金は大切だ――すごく大切だよ――もっともエレンが『この世でいちばん大切』とまで言うとは思っていなかったけどな。だけど、娘や、マーガレット叔母さんにさからうのは考えものだよ――かなり考えものだと思うよ。何だかんだ言ったって、たった二日のことだもの――二日なんてどうってことないよ」

 しかしデイジーは父親の言葉を最後まで聞くことはなかった。子供じみた失望の涙を隠すため、もうすでに部屋を飛び出し、台所に下りて行ってしまっていたのだ。子供じみた涙があふれてきたのは、彼女が女になりかけていたからである。自分の巣を作ろうとする、女の自然な本能が芽生えはじめていたのだ。

 マーガレット叔母さんは見知らぬ若い男が来たりしたら黙ってるような人ではない。しかも警察をとりわけ毛嫌いしている。

 「あんなにいやがっていたとはね!」バンティングは咎めるようにエレンを見た。不安でもう胸がいっぱいだった。

 「ここが急に好きになるなんて、理由ははっきりしているじゃない」とミセス・バンティングは辛辣に言った。夫が不審そうに彼女を見つめているので、からかうようにこう言い足した。「あなたの鼻を見るより明らかだわ」

 「どういうことだね」と彼は言った。「そりゃ、おれはちいっと頭が鈍いが、エレン、しかしおまえの言うことはほんとに分からんよ」

 「デイジーがここに来るまえ、あなた、話していたじゃない。ジョー・チャンドラーが今年の夏、彼女に夢中になっていたって。あのときは馬鹿馬鹿しいと思ったけど、今はあなたの意見に賛成よ。それだけ」

 バンティングはゆっくりと頷いた。そうだ。ジョーは足しげくうちにやってくるようになった。警視庁のあの薄気味悪い博物館へも見学に行った。しかし彼、バンティングは、なぜか復讐者の殺人に気を取られて、ジョーのことをほかの関係で考えることができなかった――少なくともこの時期だけは。

 「デイジーはあいつのことを好きだと思うかい」バンティングの声にはいつになくうきうきした、やさしい響きがあった。

 妻はテーブル越しに夫を見た。かすかなほほえみ、決して冷ややかではないほほえみが、彼女の青ざめた顔を明るくした。「わたしは予言者なんて柄じゃないけど」と彼女は落ち着いて言った。「でもこれだけは言えるわ、バンティング――デイジーはジョー・チャンドラーにさんざんうんざりすることになる。二人が死ぬまでにそんな時間がいやというほどあるでしょうね。まちがいないわ!」

 「なあに、それくらいですめば上出来だ」とバンティングは思いに沈むように言った。「あいつは生一本の真面目な男さ。もう一週間に三十二シリングも稼いでいる。しかし叔母さんがどう思うか。そうやすやすとデイジーを手もとからはなしはしないと思うよ」

 「そんなことにまで伯母さんに口を出させてたまるもんですか!」とミセス・バンティングは大声を出した。「百万ポンドと引き換えだって、そんなことはさせない!」バンティングは何も言わずに、驚いたように彼女を見つめた。エレンは数分前とはまったく正反対のことを言っている。さっきは娘をベルグレイブ・スクエアに追っ払いたくてしようがなかったのに。

 「ディナーのときもまだめそめそしているようなら」と妻が唐突に言った。「わたしが外に出るのを待って、こう言いなさい。『遠ざかるほど思いはつのる』って。それだけよ。よけいなことは言わなくていい。あの娘にはそれでわかるから。それで気持ちもうんと落ち着くはず」

 「しかし考えてみりゃ、ジョー・チャンドラーがむこうの家に会いに行ったっていいわけだな」とバンティングがおずおずと言った。

 「だめよ、そんなの」ミセス・バンティングがにやりと笑った。「いいわけなんてありゃしない。デイジーが自分の秘密を一つでも叔母さんにもらしたら馬鹿を見るわ。わたしは一度きりしか会ってないけど、マーガレットがどんな女かはお見通し。彼女は伯母さん(オールド・アーント) がデイジーを手放すのを待っている。デイジーを手に入れて――自分の世話をさせる気なのよ。自分の計画を邪魔するような彼氏がいると知ったら、思い切り意地悪してくるわ」

 彼女は時計をちらりと見た。かわいらしい小さな八日巻の時計で、最後にお仕えしたご婦人の親切な友だちが結婚祝いにくれたものだった。それは生活が苦しかったときに忽然と消え、ミスタ・スルースが来てから三四日後にふたたび忽然と姿をあらわしたのだった。

 「時間があるから、あの電報を出してくる」と彼女はてきぱきと言った。どういうものか、それまでの数日間とは打って変わって、彼女は機嫌がよくなっていた。「けりをつけてくるわ。これ以上、言い争っても意味がない。うちの子が上にあがってくるまで待っても、また長々とやり合うだけでしょうし」

 それはとげとげしい口調ではなかった。バンティングはいささか怪訝な面持ちで彼女を見た。エレンはデイジーのことをめったに「うちの子」とは呼ばない。実のところ、彼の記憶するかぎり、そんな言い方をしたのは一回きりだ。それもずっと昔のことである。二人は自分たちの未来の生活について話をしていた。そのとき彼女はひどくおごそかにこう言ったのだ。「バンティング、約束するわ。わたしはうちの子のために自分の義務を果す。できる範囲で何でもする」

 しかしエレンがデイジーのために義務を果す機会はあまりなかった。われわれが喜んで果そうという義務はよくそうなるものだが、エレンの義務も別の人によって肩代わりされてしまった。しかもその人はいっこうにその義務を手放そうとはしないのだった。

 「ミスタ・スルースが呼び鈴を鳴らしたらどうしよう」バンティングはやや不安そうに訊いた。下宿人が来てからエレンが午前中に外出するのははじめてのことだった。

 彼女は躊躇した。デイジーの一件を片づけようとするあまり、ついミスタ・スルースのことを忘れていた。忘れてしまうとは奇妙なことだ――奇妙だが、おかげで彼女はひどく心が落ち着き、気分が明るくなったのだった。

 「そうね。上に行ってドアをノックし、もうすぐしたらわたしが戻るって言えばいいわ。手紙を出しに外出しているって。あの方は聞き分けのいい紳士だから」彼女は奥の間にいってボンネットと厚手のジャケットを着た。外は恐ろしく寒く、その寒さが刻一刻ときびしくなっていた。

 彼女が手袋のボタンをはめているとき――彼女は決してだらしない格好で外出しようとしなかった――バンティングが唐突に彼女のほうにやってきた。「キスしておくれ、おまえ」と彼は言った。妻は顔を上にむけた。

 「ロマンスがうつったみたいね!」と彼女は言ったが、その声は軽く弾んでいた。

 「ああ、そういうものさ」バンティングは短く答えた。「あの料理人のおばさんが結婚したのは、われわれのすぐあとじゃなかったかい?おまえがいなけりゃ、結婚なんて考えもしなかっただろうに!」

 しかし彼女が外に出て、湿ったでこぼこの舗道を歩きはじめるや、ミスタ・スルースは一時的に彼のことを忘れた女主人に仕返しをしたのだった。

 この二日ほどのあいだ、下宿人の様子がおかしかった。いつもよりもっと態度が不可解で、彼らしくない。いや、むしろ十日ほど前の、二重殺人が起きる直前の頃とそっくりだと言ったほうがいいだろう。

 前の日の晩、デイジーがジョー・チャンドラーと父親に連れられて行った不気味な博物館の話をしているとき、ミセス・バンティングはミスタ・スルースが頭の上でせわしなく客間を歩き回る音を聞いた。そのあと、夕食を持っていったとき、彼女はドアの前でつかのま立ち止り、聞き耳を立てた。彼は魂を歓喜させるあの本を朗読していた――復讐にともなう恐るべき喜びを語った、背筋が寒くなるような一節を。

 ミセス・バンティングは下宿人の変わった性格についてじっと考え込んでいたため、前方に対する注意をおこたり、急に若い女とぶつかってしまった。

 彼女はびくりとしてから、茫然としたようにあたりを見まわした。若者は謝罪の言葉をつぶやいた――そしてまた彼女は深く考え込んだのである。

 デイジーが数日家をはなれるのはいいことだ。ミスタ・スルースと彼の奇妙な行動の問題に心をかき乱されることが少なくなるから。彼女、エレンは、娘につれないしゃべり方をしたことを後悔していた。しかしよく考えてみれば、彼女がいらいらしていたのは不思議なことではない。昨日の晩はほとんど寝ていないのだ。寝るかわりにずっと起きて耳をすませていた――決して聞こえてこない音を聞こうとして、目を開けたままベッドに横になっていることくらい疲れることはない。

 家のなかの静寂はピンが落ちても聞こえるほどだった。すてきに暖かい二階のベッドにぬくぬくと横たわっているミスタ・スルースは動かなかった。動いていたら女主人が必ず聞きつけていたはずである。知っての通り、彼のベッドはちょうど彼女の頭の上にあったのだから。長くて暗い数時間のあいだ、ミセス・バンティングの耳に聞こえてきたのは、デイジーの軽い、規則正しい寝息だけだった。

 彼女はミスタ・スルースのことを忘れて、頭を切り換えようとした。いわば断固として彼を頭のなかから追い出し、放り出そうとしたのである。

 復讐者が動きを止めているのは何とも不可解なことのように思われた。ジョーがつい昨日の晩言ったように、もうそろそろ彼があの恐るべき、謎に満ちたスポットライトのなかに、姿をふたたび浮びあがらせてもいい頃である。ミセス・バンティングがいつも思い浮かべる復讐者の姿、それは目も眩むような光に取り囲まれた黒い影だった。しかし光に包まれているにもかかわらず、その影には形もなければこれといった実体もない。あるときはこう見えるかと思えば、またあるときは別の形に見え……。

 ミセス・バンティングは曲がり角に来ていた。そこを曲れば郵便局まで真っ直ぐだ。しかしすぐに左に曲るかわりに、彼女はしばらく立ち止った。

 自分を非難し、自分をいとわしく思う、ひどく不愉快な気持ちが突然湧き起こった。何と恐ろしいことだろう。昨日の晩、またもや殺人事件が起きたという恐ろしいニュースを、よりによってこの自分が聞きたがっていたとは!

 しかし、恥ずかしながら、それが事実なのである。朝食のあいだじゅう、彼女は外から恐ろしいニュースを知らせる声がしないかと期待して耳をすましていた。そう、マーガレットの手紙が届いてから交わした長い議論のあいだも、ほぼずっと、彼女は期待を――はかない期待を――抱いて待っていたのだ。新聞売り子の恐ろしい、勝ち誇ったあの叫び声が、今からでもメリルボーン通りにこだまして、こちらにむかって来はしないかと。それでいて何という偽善者ぶりを発揮したことだろう。バンティングが昨日の晩、何も起きなかったと知って、失望というわけではないけれど、驚きを表明したときに、彼女は彼をきびしく咎めたのだ。

 彼女の思いはジョー・チャンドラーのことに移っていった。どうしてわたしはあの若者を怖れていたのだろう!今はもう平気、というか、ほとんど平気である。彼は足元がふらついている――それが彼の問題なのだ、バラ色の頬をした、青い眼のデイジーに恋をして、足元がふらついているということが。今は幸いなことに、その鼻先で何が起きようと、ジョー・チャンドラーは気づきもしない!この前の夏、チャンドラー青年とデイジーが乳繰り合いをはじめたとき、彼女はいらいらしてきてたまらなかった。実を言えば、娘がまた来ると聞いてひどく苦々しい気持ちになったのは、あの頃のジョーの態度を思い出し、いつも家に立ち寄る習慣をうっとうしく思ったからなのだ(とは言っても、それがいちばん重要な理由ではなかったけれど)。しかし今は?今、彼女はひどく寛容で、ひどく親切な気分だった――少なくともジョー・チャンドラーに対するかぎりは。

 どうしてだろう、と彼女は思った。

 しかし、ジョーが娘と二日ほど会えないからといって別に悪いことはない。それどころか、そのほうがずっといいのだ。なぜなら彼はデイジーのことしか考えられなくなるだろうから。遠ざかるほど思いはつのる――ともかくも最初のうちは。ミセス・バンティングはそのことをよく知っていた。彼女とバンティングの静かな恋愛の期間中、彼らは三ケ月ほど別れて暮らしていたことがあった。彼女が腹を決めたのはこの三ケ月のあいだのことだった。バンティングといっしょにいることに慣れていた彼女は、彼のいない日々にたえられなかった。しかも――何よりもいちばん奇妙なことだが――彼女はみじめなくらい強い嫉妬にかられたのだ。しかし彼女はそれを悟らせたりはしなかった。そのへんに抜かりはないのだ。

 もちろんジョーは仕事をおろそかにするべきではない――それは絶対にいけない。しかし、とにかく、彼が物語に出てくるような探偵ではなくてよかった。あの手の連中ときたら、何でも知っていて、何でも見ていて、何でも推測できる――見るものも、知るものも、推測するものも、何もない場合でさえ!

 たとえばささやかな事実を一つ挙げるなら――ジョー・チャンドラーは下宿人に少しも興味を示したことがない……。

 ミセス・バンティングははっとして気を取り直し、急いで歩きはじめた。バンティングが彼女の身の上に何かがあったのではないかと心配しているかもしれない。

 彼女は郵便局に入り、一言も言わず若い女に電報用紙を渡した。いつも他人の仕事を切り盛りしている、抜け目のないマーガレットは、電報用紙に返事まで書き込んでいたのだ。「お茶の時間までにはそちらへ行きます――デイジー」

 この一件をきっぱり片づけてしまい彼女は肩の荷を下ろした。これから二三日のあいだに恐ろしいことが起きるとしたら――デイジーは家にいないほうがいいのだ。しかし本当に何か事件が起きる危険があるわけじゃない。ミセス・バンティングはその点に関しては自信があった。

 そのときには彼女はもう通りに出ていた。そして頭のなかで復讐者が犯した殺人の数をかぞえていた。九人、それとも十人かしら。これだけやればきっと復讐者も充分恨みを晴らしたと思っているのではないだろうか。きっとそうだ。新聞の投稿者が示唆していたように、もしも彼がウエスト・エンドに住む、物静かな、立派な紳士であるなら、どういう復讐をせずにはいられないのか知らないが、もう充分満足したのではないだろうか。

 彼女は家路を急ぎはじめた。彼女が帰るまえに下宿人に呼び鈴を鳴らされては困る。バンティングはミスタ・スルースにどう接していいか分からないだろう。特にミスタ・スルースが例のむずかしい機嫌のときは。

******

 ミセス・バンティングは玄関のドアに鍵をさしこみ、家のなかに入った。そのとたん、不安と恐怖で心臓が止まりそうになった。居間から声が――聞いたことのない声が聞こえてきたのだ。

 彼女はドアを開け、深いため息をついた。ジョー・チャンドラーが来ていただけだった。ジョーとデイジーとバンティングがいっしょに話をしていたのだ。彼女が入ってくると、彼らは悪いことでもしていたように押し黙ってしまった。しかし彼女はチャンドラーがこう言うのを聞いたのだった。「そんなの、何でもありゃしません!ぼくが走っていって、行けないって内容のを送ってやりますよ、ミス・デイジー」

 そのとき不思議なほほえみがミセス・バンティングの顔に広がった。まだ遠くのほうからではあるけれど、紛う方なき叫び声が彼女の耳を打ったのだ。昨日の晩、何かが起きたのだ――新聞売り子がメリルボーン通りを大声でやってくるに価する何かが。

 「どうしたの」彼女は軽く息を切らして言った。「どうしたの、ジョー。新しい知らせを持ってきたのかしら。また事件が起きたの?」

 彼は驚いたように彼女を見た。「いいえ。ありませんよ、ミセス・バンティング――ぼくの知るかぎりは。ああ、新聞の売り子ですか?連中は叫ぶのが商売ですから」彼はにやりと笑った。「あの連中だってそう血に飢えているわけじゃないです。犯人が逮捕されたって叫んでるだけですよ。もっともくだらないニュースですがね。昨日の晩、スコットランド人がドーキングで自首したんです。酔っぱらって、自分のことを哀れな男だと言ってました。この事件がはじまってから、二十人くらい逮捕されているんですけど、全員無罪と判明してます」

 「おや、エレン、えらく悲しそうな顔つきだね。残念そうじゃないか」とバンティングが冗談めかして言った。「考えてみりゃ、そろそろまた復讐者が動き出す頃合いだものな」彼はぞっとするような冗談を言いながら笑った。それからチャンドラー青年のほうに向き直り、「殺人がもう起きなくなったら、君も嬉しいだろうね」

 「そりゃそうだけど」とチャンドラーは不本意そうに言った。「でも犯人を捕まえて終りにしたいですね。あんなやつを野放しにしておきたくないですよ。ちがいます?」

 ミセス・バンティングはボンネットとジャケットを脱いだ。「ミスタ・スルースの朝食を作らなくちゃ」彼女は疲れたような、元気のない声でそう言い、その場を離れた。

 彼女はがっかりして、ひどく憂鬱な気分になった。彼女が入ってきたとき彼らが企んでいた陰謀は成功するはずがなかった。バンティングが最初の電報と矛盾するような電報をデイジーに打たせるわけがない。おまけに娘自身がもうとっくにそんなことをする気にならないことをデイジーのまま母は鋭く見抜いていた。デイジーは、あの愛らしい、小さな頭のどこかにたっぷりと良識を備えているのだ。結婚してロンドンに住むことになるなら、マーガレット叔母さんのご機嫌を取っておいたほうが断然いいに決まっている。

 台所に入ったとき、優しい気持ちがまま母の胸にこみ上げてきた。というのはデイジーが朝食の用意を見事に調えていてくれたからである。実際、あとやることといえば、ミスタ・スルースのゆで卵を二つ作るだけだった。近頃一度もなかったような陽気な気分に襲われ、ミセス・バンティングはお盆を二階に持っていった。

 「いつもより遅いようなので、呼び鈴をお鳴らしになるまえに持ってまいりました、旦那様」と彼女は言った。

 下宿人はテーブルから目を上げた。彼はいつものように息苦しいくらいの、ほとんど死に物ぐるいといっていいような熱心さで聖書を研究していた。「かまいませんとも、ミセス・バンティング――ちっともかまいません。わたしは『光あるうちに業《わざ》をなせ』という、神がお命じになった言葉について考えていたのです」

 「さようでございますか、旦那様」奇妙な、冷たい感覚が胸のなかにじわじわと広がった。「で、それで?」

 「『心は熱すれども肉体は――肉体はよわきなり』」ミスタ・スルースは重々しいため息とともにそう言った。

 「ご研究に根を詰めすぎていらっしゃるのですよ――それでおかげんがよろしくないのでしょう、旦那様」ミスタ・スルースの女主人は唐突にそう言った。

******

 ふたたび下に降りたミセス・バンティングは自分がいないあいだにいろいろな手はずが整えられたことを知った。ジョー・チャンドラーはベルグレイブ・スクエアまでミス・デイジーに付き添うことになった。デイジーの大きくもない鞄を運ぼうというのである。歩かないで車でも行けますよ。ベイカー・ストリート駅からバスに乗ってヴィクトリアまで。そこからベルグレイブ・スクエアは眼と鼻の先です。

 しかしデイジーは歩いて行きたがっているようだった。長いこと散歩していないから、と彼女は言った。そして顔をバラ色に染めるのだった。まま母でさえデイジーの愛くるしさを認めずにはいられなかった。こんな娘をひとりでロンドンの町に放り出すわけにはいかない。彼女はそう思った。

第十三章

 デイジーの父親とまま母は玄関に並んで、娘とチャンドラー青年が闇のなかへと歩み去るのを見送った。

 黄色い霧のとばりがにわかにロンドンに降りかかったのだ。ジョーは予定より三十分も前にやって来て、霧が出てきたので早めに来ました、といささか苦しい言い訳をした。

 「あんまり待っていたら、一ヤードも歩けなくなりそうだったから」と彼は説明し、彼らも無言でその説明を受け入れたのだった。

 「大丈夫かな、あんなふうに送り出したりして」バンティングは非難するような目つきで妻を見た。あなたはデイジー、デイジーと騒ぎすぎる、ガチョウじゃあるまいし、少し落ち着きなさい、と彼女から何度も叱られていたのである。

 「あなたやわたしが付き添うより安全なのよ。あれだけ利口な若者に守ってもらえるなんて、ついてるわ」

 「ハイド・パーク・コーナーじゃひどい霧になっているだろうな」とバンティングが言った。「あそこはいつでも、どこよりも霧がひどいんだ。おれがジョーだったら、地下鉄でヴィクトリアまで行くがなあ――この天気を考えりゃ、それがいちばんだと思うが」

 「二人に天候なんて関係ないの!」と妻が言った。「目印になる光があるかぎりどこまでも歩いて歩いて歩きつづけるでしょう。デイジーは彼といっしょに歩きたかっただけなのよ。あなたがあのいやらしい博物館にいっしょに行きたいってせがんだとき、二人ともがっかりしていたじゃない。気がつかないのが不思議なくらいだったわ」

 「ほんとかね、エレン?」バンティングはうろたえているようだった。「ジョーはおれと話をするのが好きなんだと思っていたよ」

 「あら、そう」ミセス・バンティングは皮肉っぽく言った。「好きといったって、わたしたちがあのコックのおばさんを好きだった程度にしか好きじゃないのよ。ほら、わたしたちが交際していたとき、いっしょについて外出していたあのコックのおばさん。いつもあきれていたのよ、ぬけぬけとわたしたちのあいだに割って入って来たりして。こっちは邪魔でしかたなかったのに」

 「けど、おれはデイジーの父親だぞ。それにチャンドラーとは古いつきあいだ」とバンティングは抗議するように言った。「あのコックとはわけがちがう。おれたちは彼女を何とも思っちゃいなかったし、彼女もおれたちを何とも思っていなかった」

 「彼女はあなたに気があったのよ。まちがいないわ」エレンはそう言って頭を振り、夫はいささか間抜けた笑顔を浮かべた。

 彼らは暖かい快適な居間に戻っていた。心地よい倦怠感がいつの間にかミセス・バンティングに忍びよっていた。しばらくデイジーを邪魔にならないところに追いやることができて彼女はほっと一息ついた。娘はそれなりにひどく目ざといところがあり、好奇心も強い。こちらに来てすぐに、まま母の見るところ、恐ろしく下品でくだらない好奇心を下宿人に対して示したのだった。「一目だけ見させてくれない、ね、エレン?」と彼女はある朝頼んだのだった。しかしエレンは首を振った。「いいえ、いけません!とても物静かな紳士だけれど、好みがはっきりしていて、わたし以外の人に応対されることをいやがるの。あなたのお父さんだってほとんど会ってないんだから」

 しかし当然のことながら、それはミスタ・スルースを見たいというデイジーの気持ちをあおり立てただけだった。

 まま娘が二日間出ていくことになってミセス・バンティングが喜んだのは、ほかにもう一つ理由がある。チャンドラー青年は最近しげしげとこの家に足を運ぶようになったけれど、彼女がいないあいだは出没する回数がうんと減るだろう。ミセス・バンティングは夫への説明とはうらはらに、デイジーがジョー・チャンドラーをベルグレイブ・スクエアに呼ぶだろうと確信していた。だからなおさら彼が来る機会は減るはずである。彼を呼ばないというのは人情に反する――少なくとも若い娘にはできないことだ。かりにジョーの来訪がマーガレット叔母さんの怒りを買うとしても。

 そう、デイジーがいなければ、バンティング夫婦はほんのしばらくのあいだ、あの若者から逃れることができる。幸いなことに。

 若者の注意をすっかり奪ってしまうデイジーがいないとき、ミセス・バンティングはチャンドラーを迎えることに奇妙な怖れを感じていた。なにせ彼は刑事だ――絶えずにおいを嗅ぎ回り、何かを探りあてるのが仕事なのだ。彼がこの家でそんな真似をしていたとは思えなかったけれど、しかしいつやりはじめたっておかしくはない。そうなったら、もしもそうなったら、彼女とミスタ・スルースはどうなるのか。

 彼女は赤いインク瓶のことを考え――どこかに隠されているにちがいない革鞄のことを考え――心臓が止まりそうになった。バンティングの大好きな読み物のなかで、こうしたものは、いつも悪名高い犯罪者を探し当てる手がかりになっているのではないか……。

 お茶を注文するミスタ・スルースの呼び鈴は、その日の午後、いつもよりずいぶん早くに鳴らされた。おそらく霧が彼を勘違いさせ、実際よりも時刻が遅いと思わせたのだろう。

 上に行くと、「お茶を一杯と、バター付きのパンを一切れだけいただきたいのです」と下宿人が疲れたように言った。「今日の午後はそれだけでけっこうです」

 「いやな天気ですもの」ミセス・バンティングはいつもより陽気な声を出した。「お腹が減らなくても不思議はありませんわ、旦那様。それにお昼ご飯からそれほど時間がたっておりませんでしょう?」

 「そうです」彼は上の空で答えた。「そうですよ、ミセス・バンティング」

 彼女は下に行ってお茶を用意し、また上にあがった。部屋のなかに入ったとき、彼女はあっけにとられ思わず叫び声をあげてしまった。

 ミスタ・スルースが外出の仕度をしていた。長いインバネスをまとい、奇妙な流行遅れのシルクハットがテーブルの上に用意してある。

 「お出かけになるんじゃないでしょうね、旦那様」彼女は口ごもるように尋ねた。「まあ、こんなに霧が出ていますのに。一ヤード先もごらんになれませんよ!」

 知らず知らずのうちにミセス・バンティングの声はうわずって悲鳴のようになった。彼女はお盆を持ったまま後じさりし、ドアと下宿人とのあいだに立ちはだかった。まるで彼の行く手を妨げようとするかのように――生きた障壁を築いてミスタ・スルースを外の暗い霧の世界へ出て行かせまいとするかのように。

 「天候なんか気になりません」彼は無愛想に言った。そして強く嘆願するような視線を相手にむけた。彼女はゆっくりと、仕方なく、脇にどいた。どきながら彼女ははじめてミスタ・スルースが右手に何かを握っていることに気がついた。飾り棚の鍵だ。飾り棚のほうに行こうとしていたとき、彼女が入ってきて邪魔をしたのだ。

 「心配してくれるのはとてもありがたいのですが」彼はどもりながら答えた。「で、でも、ミセス・バンティング、失礼ですが、そうした気遣いは不愉快です。わたしは干渉されたくない。わ、わたしはこの家を出ますよ、もしもわたしの行動が見張られ――スパイされているような感じがしたら」

 彼女は冷静さを取りもどした。「誰も見張りなどしておりません、旦那様」彼女の声には少なからぬ威厳がこもっていた。「ご満足いただけるよう最善を――」

 「分かってます――分かってますよ!」彼は困ったような、謝るような口調でしゃべった。「しかし、あなたはたった今、まるでわたしがしたいと思っていることを――それどころか、しなければならないことを――邪魔するような話し方をなさった。わたしは何年もずっと誤解され――迫害され」――彼はつかのま言葉を切り、ついで虚ろな声で一言付け加えた。「責め苦を味わわされてきました!わたしを苦しめる人のなかにあなたまで加わらないでいただきたい、ミセス・バンティング」

 彼女は途方に暮れたように相手を見つめた。「どうかそんな心配はなさらないでくださいませ、旦那様。わたくしはただ――その、何でございます、今日みたいな午後は、紳士の方が外を出歩くのは、いかにも不用心のような気がいたしまして。クリスマスが近いというのに、人出がないようでございますし」

 彼は窓に寄って、外を見た。「少し霧が晴れてきましたね、ミセス・バンティング」しかしその声に安堵の響きはなく、かえって失望と恐れがこもっていた。

 勇気を奮い起こし、彼女も窓に近づいた。確かにミスタ・スルースの言う通りだ。霧が晴れつつある。不可解にも、突然、渦を巻いて消えつつある。ロンドンではときどきこんなふうに局地的に霧が晴れるのだ。

 彼は出し抜けに窓から振り返った。「おしゃべりのせいで、ついうっかり大切なことを忘れていました、ミセス・バンティング。今晩、ミルクを一杯とバター付きのパンを部屋の外に置いておいていただけませんか。戻ってきても夕食はいりません。散歩のあと、たぶん、すぐ上に行って非常に厄介な実験をするでしょうから」

 「かしこまりました、旦那様」こうしてミセス・バンティングは下宿人と別れた。

 しかし霧の立ちこめる玄関広間に降り立ったとき――彼女と夫がデイジーを見送ってドアのところに立っていたとき霧が吹き込んできたのだ――部屋に入ってバンティングに会うかわりに、彼女は実に意外なことをした。それまでそんなことをしようなどとは考えたこともなかった。彼女は帽子掛け兼傘立てにはめ込まれた小さな冷たい鏡にほてった額を押しつけたのだ。「どうしたらいいのかしら!」彼女はうめくように独り言を言った。「耐えられない!耐えられないわ!」

 しかし人には言えない不安と問題におしつぶされそうになっても、自分のみじめな状態を解決するある一つの方法だけは決してミセス・バンティングの脳裏に浮ぶことはなかった。

 長い犯罪の歴史のなかで、女が自分のもとへ避難して来た者を裏切ることは、まずめったにない。おどおどした、用心深い女は追っ手から逃げる人間を門前払いすることが多々あるだろう。しかし男がそこにあらわれたことを決して洩らしはしないのだ。事実、そのような裏切りは賞金欲しさか、あるいは復讐欲に支えられていないかぎり、起きはしないのである。恐らく女は自立した市民というより服従する臣民であるがために、文明社会の一員たる義務がこれまでその肩に重くのしかかることはなかったのであろう。

 そして――そしてさらに、ミセス・バンティングは、ある意味でミスタ・スルースに愛情を感じるようになっていたのだ。彼女が食事を持って部屋のなかに入っていくと、力のないほほえみがその悲しげな顔をときどき輝かせる。そんなとき、ミセス・バンティングは喜びを感じるのだ――喜びを感じ、かすかに心を打たれるのである。外で起きている恐ろしい出来事は、彼女の心を強い疑惑、強い苦痛、強い不安でいっぱいにしてしまうけれど、その合間合間に会うミスタ・スルースに恐怖感は少しもない。彼女が感じるのは哀れみばかりだった。

 夜中にまんじりともせず心のなかで奇怪な問題について考えを巡らすことがますます多くなった。ともかく下宿人は四十何年間か、どこかで生活をしていたにちがいない。彼女はミスタ・スルースに兄妹があるのかどうかすら知らなかった。友だちは皆無だ。奇人で変人ではあるけれど、彼は静かな、目立たない生活を送ってきたらしい。少なくとも彼女はそう考えた。そう、今までは。

 何が原因で彼は急に変わったのだろう――つまり、もしも彼が変わったのだとしたら。ミセス・バンティングが断続的にいつも考えていたのはそのことだった。さらに肝心な、急所に当る疑問はこういうものだ。変わったのだとしたら、なぜ手遅れになるまえに、疑いもなく彼がそうであったもの――非の打ち所のない、物静かな紳士に――戻らないのだろう?

 戻ってくれさえしたら!戻ってくれさえしたら!

 玄関広間に立ち止まって、熱い額を冷やしているとき、こうした思いや、希望、怖れが稲妻のような速度で頭をよぎっていった。

 彼女は先日チャンドラー青年が言った言葉を思い出した――世界の歴史を振り返ってみても、復讐者くらい奇怪な殺人者はほかに例がありませんね。

 彼女とバンティング、それにデイジーも魅入られたようにジョーの話に聞き入った。彼は過去に起きた有名な連続殺人事件について話してくれたのだ。イギリスだけではなく、外国において起きた事件も。とりわけ外国の事件を詳しく語った。

 ある女は、周囲のだれからも善良で立派な人だと思われていたが、保険金をえるために少なくとも十五人の人を毒殺したのだった。一見したところ卑しからぬ、満ち足りた様子の旅館経営者とその妻の恐ろしい話もあった。森の入り口に住んでいた彼らは、宿泊しに来た素朴な人々をかたっぱしから殺していった。それも単に服とか金目の物を盗むために。しかしどの話の殺人者も常に極めて強い動機を持っている。ほとんどの場合、それは金に対するよこしまな欲望であった。

 ハンカチで額をぬぐったあと、ようやく彼女は部屋に入った。バンティングが椅子に座ってパイプをくゆらしていた。

 「霧が少し晴れてきたわ」彼女は自信のない口調でそう言った。「デイジーとジョー・チャンドラーはもう霧を抜け出したかしら」

 しかし相手はじっと頭を振った。「そうは問屋が卸さんよ」彼は素っ気なく言った。「ハイドパークがどんなところか知らないだろう、エレン。ここもすぐに半時間前みたいな濛々とした霧になるよ」

 彼女は窓に近づき、カーテンを引いた。「でもずいぶん大勢の人が出歩いてるわ」

 「エッジウエア通りでなかなかいいクリスマス・ショーをやっているよ。いっしょに行くのはどうだろうとさっき考えていたんだが」

 「わたしは行かない」彼女は大儀そうに答えた。「うちにいるだけで充分よ」

 彼女は聞き耳を立てていた――下宿人が下に降りてくる、その物音がしないかと。

 ついに聞こえてきたのは、用心深い、柔らかな足音だった。ゴム底の靴が廊下を移動しているのだ。しかしバンティングがその事実に気づいたのは、ようやく玄関のドアが閉まったときだった。

 「あれはミスタ・スルースが出かけた音かい?」彼は驚いて妻のほうを見た。「おやまあ、危ない目に遭いなさるぞ、きっと!こんな夕方はしっかり注意してないと。お金は置いていったんだろうね」

 「霧のなかにお出かけになるのはこれがはじめてじゃないのよ」ミセス・バンティングは重苦しい声で言った。

 なぜか彼女はこの真実すぎる言葉を吐かずにはいられなかった。彼女は振り返り、真剣な、なかば怯えたような面持ちで、バンティングが彼女の言葉をどう受け取ったか、確かめようとした。

 しかし彼はいたって落ち着いていた。まるで何も聞かなかったかのようだった。「今は昔みたいな霧が出ないね。『ロンドン名物』なんて呼ばれていたあんな霧は出なくなった。下宿人はミセス・クローリーみたいなタイプなんだろうな。彼女のことは何度も話しただろう、エレン?」

 ミセス・バンティングは頷いた。

 ミセス・クローリーはバンティングがお仕えした貴婦人の一人、彼がいちばん好きだった貴婦人の一人だった。陽気な、愉快なご婦人で、召使いたちによく彼女のいうプレゼントを与えていた。召使いが好むようなプレゼントであることはめったになかったけれど、それでも彼らは彼女の親切に感謝していた。

 「ミセス・クローリーはよくこう言ったものさ」とバンティングはゆっくりした、独断的な口調で言った。「どんなに天気が悪くてもぜんぜん気にならないわ、そこが田舎じゃなくってロンドンであるかぎり、ってね。旦那様は田舎のほうが好きなんだが、奥様のほうはいつも退屈していた。霧が出たって平気で外出するんだ。てんでおかまいなしさ。ちっとも怖がっていなかったよ。でも――」彼は振り返って妻を見た――「ミスタ・スルースにはちょっと驚くね。気の小さい紳士だと思っていたんだが――」

 彼はしばらく待っていた。彼女は答えなければならないような気がした。

 「気が小さいとは言えないわ」彼女は低い声で言った。「でもとても物静かだってことはたしかね。だから通りが人でごった返しているようなときは外出したがらないの。すぐ戻ってくると思うけど」

 彼女はミスタ・スルースがすぐ戻ってくることを切に願った。ますます濃くなる暗闇に怖じ気づいて引き返してくれたらいいのだけれど。

 どういうものか、彼女は長くじっと椅子に座っていることができなかった。立ち上がって、いちばん遠い窓のそばに寄った。

 たしかに霧は晴れあがっていた。メリルボーン通りの向こう側には、ランプの火影が赤くちらちらしている。影のような人の姿が急ぎ加減に通り過ぎた。そのほとんどがクリスマス・ショップを見ようとエッジウエア通りにむかっていた。

 バンティングも立ち上がり、妻はようやくほっとした。彼は少ない蔵書を収めた棚のほうに行き、そこから一冊を取りあげた。

 「少し読書しようかな」と彼は言った。「本を読むのは久しぶりだ。しばらくのあいだ新聞が面白すぎたね。しかし今は何も載っておらんよ」

 妻は黙っていたが、夫の言う意味はよく分かっていた。復讐者の二重殺人事件から、もうずいぶん日がたっていたが、そのあいだ、新聞はあの事件について手を変え品を変えいろいろな報道をし、今はもう書くことなど何もなくなっていたのだ。

 彼女は寝室から簡単な針仕事を取ってきた。

 ミセス・バンティングは針仕事が好きだったし、バンティングはそれを眺めるが好きだった。もっともミスタ・スルースが下宿人となってから、彼女はその手の仕事をする暇があまりなかったのだけれども。

 デイジーも――下宿人もいない家のなかは静かすぎて、なんだか変な気分だった。

 とうとう針は動きを止め、キャンブリックの生地は膝の上に滑り落ちた。彼女はミスタ・スルースの帰宅を待ちわびるように耳をすませていた。

 時間が刻々と過ぎていくなか、ふと下宿人をふたたび見ることがあるだろうかと、そんな疑問が湧いてきて、彼女は胸が痛くなった。外で何か――不測の事態に見舞われたとしても、ミスタ・スルースは決して今までの数週間をどこで暮らしていたか、打ち明けることはないだろう、と彼女にはそう思われたのである。

 そう、何かあった場合は、彼はあらわれたときと同じように突然消えてしまうだろう。バンティングはそのことに気づきもしなければ、まして知ることもない。たぶん――身の毛もよだつ想像だけれど――新聞に載った挿絵が恐ろしい事実を伝えるまでは。

 でも、そんなことが起きたとしても――そんな考えられないような空恐ろしいことが起きたとしても、自分は何も言うまいと、彼女はそのとき、その場で決心したのだった。驚くべき事実が明らかにされたら、彼女もあっけにとられ、ショックを受け、言葉が出ないほど震えあがった振りをしてやるのだ。

第十四章

 「ようやくお帰りだぞ。よかった、よかった、エレン。番犬だってうちにいれてやりたい夜だものな」

 バンティングの声には安堵感が満ちていたが、そう言いながら振り返って妻を見ることはしなかった。かわりに手にした夕刊を読みつづけた。

 彼はさっきからずっと煖炉のそばの肘掛け椅子に心地よく納まっている。身体の調子は良さそうで、頬に赤みがさしていた。ミセス・バンティングはそれを見て強い羨望を、いや、それどころか憤りをすら感じた。これは実に不思議なことだ。冷淡なように見えて彼女は実はバンティングのことがとても好きだったのだから。

 「そんなに神経質になることはないわ。ミスタ・スルースはちゃんと用心しているから」

 バンティングは読んでいた新聞を膝の上に置いた。「こんな天気の日に出かけるなんて、わけが分からんね」彼はもどかしげに言った。

 「まあ、あなたには関係ないじゃない、バンティング」

 「うん、そりゃそうだ。だけど、あの人に何かあったら、こっちも困るからなあ。あの下宿人は、さんざん待ってようやく手にしたはじめての幸運なんだからね、エレン」

 ミセス・バンティングは高椅子の上でちょっといらいらしたように身じろぎした。彼女はしばらく沈黙していた。バンティングが言ったことは当たりまえすぎて返事をするまでもなかった。それに彼女は聞き耳を立てていたのだ。想像のなかで、霧の立ち込める、ランプの灯った廊下を、下宿人がすばやく、奇妙なくらい静かに――まるで「人目をはばかる」ように、と彼女は思った――進むさまを追いかけていたのだ。ああ、今、彼は階段をあがっている。バンティングは今、何て言ったのかしら。

 「こんな天気の日に外を出歩くなんて、危ないじゃないか――そうとも、まともな人がすることじゃない。明日まで待てない用事があるなら別だけど」話し手は妻のほそい、血色の悪い顔をまっすぐに見つめた。バンティングは頑固な男で、自分の正しさをあくまで主張する癖があった。「一言注意してさしあげよう。うむ、そうするか!危ないですよとね。ああいう方は、夜中に町をうろつくべきじゃないって。ロイズ保険者協会で起きた事件を読んでやったことがあったね。ショッキングだったなあ。あれもみんな霧のせいなんだからね!それに、あの怪物野郎がまたすぐ動き出すだろうし――」

 「怪物?」ミセス・バンティングはぼんやりとその言葉を繰り返した。

 彼女は頭の上を歩く下宿人の足音を聞こうとしていた。快適な客間に行ったのか、それともすぐ上にあがって、彼がいつも実験室と呼んでいる、あの寒い部屋に行ったのか、それが知りたくて仕方なかったのだ。

 しかし夫は彼女の言葉が聞こえなかったかのように話をつづけ、彼女は上で起きていることを探ろうと、聞き耳を立てることをあきらめた。

 「霧のなかでそんなのに出くわしたらたまらんだろうね、エレン」彼の口調には、でも、それはそれでスリルがあって楽しいぞ、というようなニュアンスが含まれていた。

 「くだらないことを!」とミセス・バンティングはきびしい声を出し、立ち上がった。夫の言葉に彼女は取り乱していた。夫婦水入らずでゆっくりできるというときに、どうして楽しい会話ができないのだろう。

 バンティングはまた新聞に眼を落とし、彼女は静かに部屋のなかを動き回った。もうすぐ夕食の時間になる。今晩は夫のためにおいしい焼きチーズを作ることにしていた。彼女は軽蔑と羨望の念をこめて、夫のことを幸せ者と呼んでいた。この幸せ者は強靱な胃袋を持っているのだが、なかなか食い道楽なところもあった。立派なお屋敷に勤めると、召使いはえてしてそんな趣味を身につける。

 そう、バンティングは胃が丈夫で幸せ者だわ。ミセス・バンティングは自分の上品な話し方に誇りを持っていた。彼女は下品な言葉――たとえば「腹」とか、もっと下卑た言葉とか――は決して口にしようとしなかった。もちろん病室で医者に話をするときは別だったけれども。

 ミスタ・スルースの女主人はすぐに寒い台所へ行かなかった。かわりに寝室のドアを開け、気づかれぬようさっとなかに入り込んだ。静かにドアを閉ざし、暗闇のなかへ後じさりすると、耳をすませて立ちつくした。

 最初は何の物音もしなかったのだが、耳に神経を集中していると、次第に真上の部屋から誰かがそっと動き回る音が聞こえてきた。真上の部屋はミスタ・スルースの寝室である。しかしどんなに耳をそばだてても下宿人が何をしているのか見当もつかなかった。

 ついに階段に通じるドアの開く音が聞こえた。階段のきしむ音がする。これはまちがいなくミスタ・スルースがあの殺風景な部屋で晩を過ごすということだ。ずいぶん長いことあの部屋は使われていなかった――ほぼ十日くらいも。よりによって今晩、こんなに霧が出ているときに、実験を行うなんて。

 手探りして椅子を見つけ、腰かけた。ひどく疲れていたのだ――まるで思い切り体力を使ったかのように不思議なくらい疲れていた。

 そうよ、ミスタ・スルースがわたしとバンティングに幸運を運んで来てくれた。それは事実。そのことを忘れるなんて、恩知らずもいいところだわ。

 このときがはじめてというわけではなかったけれど、座りながら彼女は、下宿人に出ていかれたらどうなるのだろうということも考えた。そうなればまず確実にわたしたちはおわりだ。それは下宿人の滞在があらゆる良きものを意味するのと同じように確実なことだ。その良きもののなかには物質的な面での余裕が含まれているが、でもそれはいちばん重要じゃない。ミスタ・スルースがここにいてくれるなら、そして彼はそのつもりであることを明らかに示しているのだけれど、とにかくいてくれるなら、世間体が保てるし、何より安心感があるのだ。

 ミセス・バンティングはミスタ・スルースのお金のことを考えた。あの人には手紙が来ない。でも何らかの収入があるにちがいない――そこまでははっきりしていた。たぶんお金が必要なときは銀行に行ってソブリン金貨を引き出すのではないか。

 彼女の心は意識的に、意図的に、ミスタ・スルースのことからはなれていった。

 復讐者?おかしな名前だわ!復讐者がどこの誰であれ、いつかは気が済むときが来るだろう。いわば復讐心を満たすときが来るだろう。そんなふうに彼女はもう一度自分を納得させた。

 ミスタ・スルースのことに戻ろう。下宿人が部屋だけでなく、主人夫婦にも満足してくれたのは幸運だった。実際、こんなに気持ちのいい下宿を出たいなどと、ミスタ・スルースが思う理由は何もないのだ。

******

 ミセス・バンティングは不意に立ちあがり、彼女をさいなむ不安と懸念を必死になって振り払った。廊下に出るドアの取っ手を手探りして回し、次の瞬間には軽い、しっかりした足どりで台所に降りていった。

 彼らがはじめてこの家を借りたとき、地下の台所は彼女の努力によって快適とまではいえないまでも、ともかく非常に清潔な場所になったのだった。水しっくいを塗ったのだが、今でも白いその壁際にはガス・ストーブがぬっと大きな姿をあらわしていた。真っ黒い鉄と、ぴかぴかした鋼鉄でできている、巨大な四角い物体だった。この大きなガス・ストーブは十五分ごとに四シリングをガス会社に払うタイプのものだ。硬貨を投入口に入れて使うような馬鹿げたものは、この台所には、ない。こういうことにかけては、ミセス・バンティングはそつがなかった。ちゃんとしたガス・メーターがあり、彼女は使った分を、使ったあとに支払うのだ。

 磨き込まれた木のテーブルの上にろうそくを置き、ガスの火口を開けると、ろうそくを吹き消した。

 それからガスコンロの一つに火をいれ、ストーブの上にフライパンをのせた。とたんに彼女の心は、ついうっかりと、ミスタ・スルースのことに逆戻りしてしまった。あの下宿人くらいすぐ人を信じる紳士は見たことがない。にもかかわらず、彼にはひどく秘密めいたところが――とても変わったところがある。

 彼女は鞄のことを考えた――飾り棚のなかで奇妙にがさごそしていたあの鞄。彼女はなぜか今晩、下宿人があの鞄を持ち出したような気がした。

 彼女は乱暴といっていいくらい荒々しく頭のなかから鞄のことを追い払い、ミスタ・スルースの収入のこととか、彼が面倒をかけないことなど、もっと楽しいことを考えようとした。もちろん下宿人は風変わりな人である。そうでなければ下宿などしないだろう――親族とか同じ階級の友だちと、まったくちがう生活をしていただろう。

 こうしたことがとりとめなく頭のなかを駆け抜けていくあいだ、ミセス・バンティングは料理をつづけた。チーズを用意し、小さく切り分け、慎重にバターの分量を量った。いつものことだが、彼女の作業にはある種のきめ細やかさ、手際よさ、正確さがあった。

 トーストパンを作りながらその上に溶けたチーズをかけていると、突然音がしてびくりとした。彼女はじっとしていられない気持ちになった。

 そろそろと、ためらいがちな足音が階段を降りてきた。

 彼女は上を見あげ、耳をすました。

 まさか、この寒い、霧の夜のなかに、またもや出かけて行くのだろうか――この前の晩のように。いいや、ちがう。聞こえてきた音、今はもう聞き慣れた足音は、そのあと玄関へむかう廊下を歩きはしなかった。

 そのかわり――いったい何だろう、この音は?彼女は全神経を耳に集中させ、そのあまり、長いフォークの先にさしていたパンをすっかりこがしてしまった。びっくりしてそのことに気がつくと、彼女は顔をしかめた。自分が腹立たしかった。上の空で仕事しているからこんなことになるんだ。

 ミスタ・スルースは明らかに今までしたことがないことをしようとしていた。彼は台所に降りてきたのだ。

 ズシッ、ズシッと台所への階段を重々しく降りる足音がますます近づいてくる。ミセス・バンティングの心臓はそれに呼応するようにドキン、ドキンと打ちはじめた。彼女はガスコンロの火を消した。チーズが冷たい空気に触れて固くなり、台無しになるのもかまわなかった。

 それから彼女は振り返ってドアのほうをむいた。

 取っ手をまさぐる音がして、すぐにドアが開き、彼女が予想し怖れていたように、下宿人が姿をあらわした。

 ミスタ・スルースはいつも以上に様子がおかしかった。格子縞の部屋着を着ているのだが、彼女はそんな格好の彼を見たことがなかった。とはいっても、彼がここに来てから間もなくしてその部屋着を買ったことは知っていた。彼の手には灯りのついたろうそくが握られていた。

 台所が明るく照らされていて、そこに女が立っていることを見て取ると、下宿人はなぜかぎょっとし、ほとんど茫然とした表情になった。

 「あら、旦那様。何でございましょうか。呼び鈴を鳴らされましたか」

 ミセス・バンティングはストーブの前から動かなかった。こんなふうに彼女の台所に入ってくる権利など、ミスタ・スルースにはないのだ。彼女は自分の見解をはっきり相手に示すつもりだった。

 「いや、な――鳴らしませんでした」彼はしどろもどろだった。「実をいうと、ここにあなたがいるとは知らなかったのです、ミセス・バンティング。こんな格好で失礼しますよ。わたしのところのガスストーブが使えなくなりましてね、というか、コインを入れるところが壊れたんでしょう。それでガスストーブを探して下に降りてきたんです。今晩貸してもらえないでしょうか。大切な実験をしたいのです」

 ミセス・バンティングの心臓はドキドキと早鐘のように鳴った。彼女は不自然なくらいにどうしていいのか分からなくなった。ミスタ・スルースはどうして朝まで実験を待とうとしないのだろう。彼女は不審そうに相手を見たのだが、彼の顔にはあの表情、彼女を不安にさせ、同時に哀れみを催させるような、あの表情があった。それはひどく興奮し、真剣で、嘆願するような表情だった。

 「ええ、もちろんですとも、旦那様。でも、ここはとても冷えこむんでございますよ」

 「わたしには暖かくて快適ですよ」と彼は言ったが、その声には安堵の響きが充ち満ちていた。「上の階の寒い部屋に比べれば、暖かくて落ち着けます」

 暖かくて落ち着ける?ミセス・バンティングは唖然としたように彼を見つめた。とんでもないわ。最上階の、あのがらんとした部屋だって、この冷たい地下の台所よりははるかに暖かくて、ずっと心地よいはずだ。

 「火をおこしてさしあげましょう、旦那様。ここの煖炉は使っていないんですが、手入れはきちんとしてあるんです。この家に来て、わたくし、何よりも先にこの煙突を掃除させました。ひどい汚れようでしたわ。火事になるんじゃないかと思うくらい」ミセス・バンティングは主婦としての本能をかきたてられた。「そういえば、こんな寒い晩ですから、旦那様の寝室にも火をいれなくてはなりませんね」

 「とんでもない――それはなさらないでください。あの部屋に火はいりません。煖炉はきらいなんです、ミセス・バンティング。まえにお話したと思うのですが」

 ミスタ・スルースは顔をしかめた。まだ火がついているろうそくを手に持ち、台所の入り口のすぐ内側に立つ彼は、奇怪な姿を呈していた。

 「長くはかかりません、旦那様。十五分くらいしたらおいでなすってください。すべてきちんと用意いたしますから。ほかに御用はございますか」

 「まだ使わなくてもよいのですよ――しかしお礼は申しあげます、ミセス・バンティング。あとでまた来ますよ――ずっとあとで――あなたとご主人が就寝されたあとに。ただ明日、ガス会社の人を呼んでわたしのストーブを直していただけるとありがたいです。わたしが出かけているあいだにやってしまってください。硬貨の投入口が壊れては非常に困ります。たいへんな迷惑です」

 「もしかしたらバンティングが直せるかもしれませんわ、旦那様。何でしたら、今、上の階に行かせましょうか」

 「いや、いや、今晩はけっこうですよ。それにあれは直せません。わたしは多少知識がありましてね、ミセス・バンティング、いろいろ試してみたんです。故障の原因は単純です。機械のなかに硬貨がつまってしまった。いつもながら、まったくろくでもない仕組みだと思いますね」

 ミスタ・スルースは普段よりもはるかに強い口調で不平をこぼした。しかしミセス・バンティングは彼に同情した。彼女は硬貨投入機を不正直なやつだと、まるでそれが人間であるかのように思っていた。ほんと、いやらしい、あの機械がシリング硬貨を飲み込むやり方は!昔一度使ったことがあるから、彼女はそれをよく知っているのだ。

 ミスタ・スルースは彼女の考えを読み取ったかのように進み出て、ストーブをじろじろと見まわした。「投入機がついていないんですね」と彼は驚いたように言った。「これはありがたい。わたしの実験は少し時間がかかるんですよ。しかし、もちろん、ストーブの使用料としてお金は払いますよ、ミセス・バンティング」

 「あら、とんでもないですわ、旦那様。そんなもの、いただくわけにはいきません。このストーブはあまり使っていないのでございます。それにこんなに寒いときは一分だって必要以上にここにいることはないんですから」

 ミセス・バンティングは気分が次第に落ち着いてきた。ミスタ・スルースが眼のまえにいるとき、彼女の病的な恐怖は鎮められる。たぶん彼の態度がいつも紳士的で、ごく穏やかだからだろう。しかしそれでも彼が先に立ち、いっしょに一階へゆっくりあがっていくとき、彼女は何かしら薄気味悪いものを感じたのだった。

 一階に着くと、下宿人は丁寧に女主人にお休みを言い、自分の部屋へと階段をあがった。

 ミセス・バンティングは台所に戻った。ふたたびストーブに火をつけたが、自分でもわけの分からない不安に取りつかれ、心の落ち着きは消し飛んでしまった。チーズ料理を作りながら、彼女は自分がしていることに集中しようとした。そして大体のところ、それに成功したのである。しかし心のどこか別の部分が勝手に動いているらしく、彼女にしつこく質問を投げかけてくるのだった。

 台所には得体の知れない存在がうようよ蠢いているようだった。ふと気がつくと彼女は耳をすましていた――もちろん二階上や、まして三階上の物音など聞こえはしないのだから、そんなことをしても意味はない。彼女は下宿人の言う実験とはどんなものなのだろうと思った。おかしなことだが、あの大きなガスストーブで彼が実際に何をやっているのか、彼女は探り出すことができないでいるのだった。彼女が知っているのは、非常に高温の熱が使われているということだけだった。

第十五章

 バンティング夫婦はその晩、早めに床についたが、ミセス・バンティングはずっと起きていようと決心していた。その夜何時に下宿人が台所に降りてきて実験を行うのか、突き止めるつもりだった。とりわけどのくらいのあいだ台所にいるのかを知ろうと思っていた。

 しかしその日は長い、ひどく不安な一日だったので、彼女は間もなく眠り込んでしまった。

 近くの教会の時計が二時を打ち、突然ミセス・バンティングは目を覚ました。彼女は猛烈に自分に腹が立った。どうして眠ったりしたのだろう。ミスタ・スルースは下に降り、もう何時間もまえに上へ戻ったにちがいない!

 しかし次第次第に彼女は、鼻につんとくるにおいがかすかに部屋のなかに立ちこめていることに気がついた。とらえどころがなく、実体はないのだけれど、しかし彼女と彼女のそばでいびきをかいている男をほとんど水蒸気のように包みこんでいるような感じだった。

 ミセス・バンティングは上半身を起こして鼻をひくつかせた。そして寒いにもかかわらず、暖かい夜具からそっと抜け出すと、ベッドの端までそろそろと進んだ。そこでミスタ・スルースの女主人は実に奇妙なことをした。真鍮の支柱によりかかりながら、玄関広間に面するドアのちょうつがいに顔を近づけたのだ。まちがいない、この変な鼻につく臭いはここから漂ってくる。廊下に出たら相当強くにおうにちがいない。

 震えながら夜具のなかにもぐり込むとき、彼女は寝ている夫を思いきり揺さぶってこう言ってやりたかった。「バンティング、起きて!地下室で何かとんでもない、おかしなことが起きてるわ。調べなきゃ」

 しかしどんなに小さな物音も聞き逃すまいと夫の横で息苦しいほど緊張していた彼女は、自分が決してそんなことはしないだろうということをよく理解していた。

 下宿人が彼女の清潔な台所を少しくらい汚したからといって――多少臭いが残ったからといって――それがどうしたというのだ。彼は――彼はまさに理想的といってもいい下宿人ではないか。彼の気分を害したら、二度と彼のような下宿人を見つけることなどできやしない。

 三時の鐘が鳴るまえに、のろのろとした重い足音が台所の階段をきしませてあがって来るのを聞いた。しかし予想していた通り、ミスタ・スルースはまっすぐ自室にあがらなかった。かわりに正面玄関のほうへ行き、ドアを開け、チェーンをかけた。それから彼女のドアのまえを過ぎ――確かではないけれど、彼女の感じでは――階段に座りこんだようだった。

 十分ほどして、またもや廊下を歩く音が聞こえた。そっと静かに玄関のドアを閉める。彼女はとっくに下宿人のおかしな振る舞いの理由を見抜いていた。何かを燃やしたこのつんとくる悪臭――羊毛を燃やした臭いだろうか――を家から追い出そうとしているのだ。

 しかし暗闇に横たわり、下宿人が忍び足で階段をあがる音を聞きながら、ミセス・バンティングはこの不快な臭いが二度ととれないような気がした。

 自分自身が全身からその臭いを発しているような気がした。

 とうとう不幸な女は深い、不安な眠りに落ちていった。そして何ともいえない恐ろしい、不自然な夢を見たのだった。いくつものかすれた声が耳のなかで叫んでいた。「復讐者が来た!復讐者が来た!」「エッジウエア通りで惨殺事件!」「またしても復讐者の仕業!」

 夢のなかですらミセス・バンティングは腹を立てた――腹を立て、いらいらした。なぜこんなひどい悪夢に悩まされるのか、その理由がよく分かっていたからだ!バンティングのせいだ――バンティングときたら、話すことも考えることも、あのぞっとするような殺人のことばかり。不健全で、低俗な趣味の人しか興味を持たないようなことなのに。

 そのとき夢のなかにまで夫の声が侵入してきた。

 「エレン」――彼女はバンティングが耳元でそうささやくのを聞いた――「エレン、ちょっと起きて新聞を取ってくる。七時過ぎだ」

 叫び声が――いや、もっとひどいドシドシという足音や走る音が畏縮する彼女の耳を打った。両手で額から髪の毛をかき分けながら、彼女は上体を起こし耳をすました。

 あれは悪夢ではなかったのだ。それよりもはるかに悪いもの――現実だったのだ。

 どうしてバンティングはもう少しのあいだ静かに夢を見させてくれなかったのだろう。どんなに不吉な夢だろうと、この目覚めにくらべれば、耐えしのぶのはずっと楽なのに。

 夫が玄関に行き、新聞を買いながら、新聞売りと興奮したように二言三言言葉を交わすのが聞こえた。彼が家のなかに戻ってきてからしばらく沈黙があり、それから居間のガスコンロに火をつけるのが聞こえた。

 バンティングは毎朝、お茶を一杯持って来てくれる。はじめて結婚したとき、そうすると約束し、いまだにその約束を破ったことがない。なるほど優しい夫なら、その程度のことくらい、何でもないごく普通の親切だろう。しかし今朝は夫がお茶を淹れてくれていると考えただけで、ミセス・バンティングの淡いブルーの眼に涙がこみ上げてくるのだった。その日にかぎっていつもより時間がかかっているようだった。

 ようやくバンティングが小さなお盆を持って入ってきた。妻は顔を壁にむけて横になっていた。

 「ほら、お茶を持ってきたよ、エレン」彼の声は強い興奮、いや、歓喜に満ちた興奮に震えていた。

 彼女は寝返って身体を起こした。「で、何があったの?」と彼女は言った。「ほら、早く教えて」

 「寝ていると思っていたんだが」と彼はどもりながら言った。「いやその、エレン、何も聞いてないと思ってたんだが」

 「あんな騒音のなかで眠れますか。もちろん聞いたわよ。さ、話して」

 「まだ新聞を見てないんだ」と彼はゆっくりと言った。

 「さっき読んでいたじゃない」と彼女はぴしゃりとやっつけた。「新聞をめくる音が聞こえたわ。ガスコンロに火をつけるまえに読みはじめたでしょう。嘘をついてもだめ!エッジウエア通りで何があったって叫んでいたの?」

 「そうさな」とバンティングは言った。「知ってるなら、言おうか。復讐者が西に移動しているんだそうだ。このまえはキングズ・クロス――今回はエッジウエア通りだ。こっちにむかって来るぞって言っていたら、本当に来やがった!」

 「その新聞、取ってきてちょうだい」と彼女は命令した。「自分で読むわ」

 バンティングはとなりの部屋に行き、戻って来ると何も言わず妙な、薄い紙切れを渡した。

 「何よ、これ」と彼女は訊いた。「新聞じゃないじゃない!」

 「そりゃそうさ」と彼は少々不機嫌に答えた。「復讐者が出たってんで、サンが早朝に号外を出したんだ。ここにちょっこっと記事が出ている」――彼はその場所を彼女に示した。しかし教えられなくても彼女は記事を見つけていただろう。化粧台の上のガス灯はかなり暗かったとはいえ、ニュースは大きな、はっきりした活字で印刷されていたからである。

 「自らを復讐者と名乗る殺人鬼がまたもや警察の眼を逃れて凶行に及んだ。警察、及びこの奇怪残忍な連続殺人に関心を抱く数多の素人探偵がその注意をすべてイースト・エンド、さらにキングズ・クロスに集中しているとき、犯人はすみやかに、音もなく西のほうに移動していた。そしてエッジウエア通りがもっとも混雑し、人だかりのしているときを選んで、まさに電光石火の素早さと残忍さを持って新たな犠牲者を死に至らしめたのである。

 犯人は犠牲者を人気のない倉庫の敷地に誘い込んだ。そこはクリスマス・ショッピングを楽しむ幸せで忙しい人々の雑踏から、ほんの五十フィートしか離れていなかった。冷酷な犯罪を犯して、犯人はすぐにこの陽気な群衆に紛れ込んだのだろう。死体はほんの偶然の出来事がなければこれほど早く――つまり真夜中直後に――発見されることはなかったはずだ。

 さっそく臨検に呼ばれたドクタ・ダウトレイによると、女は死後、四時間とまではいかないが、少なくとも三時間を経過しているとのこと。最初この殺人は文明世界のあらゆる人を当惑させ震撼させている例の連続殺人とは何の関係もないと考えられた(記者は「人々はそう願っていた」と書きそうになった)。しかし、そうではなかった――死んだ女のドレスの裾に、いつものごとく、例の三角形の灰色の紙がピンで留められていたのである。人間によって作られた、もっともおぞましい名刺である!しかも今回の事件において復讐者は今までを上回る大胆不敵さを示した。まさしく平然として異常な狂信的行為、残虐で非道な犯行を行ったのである」

 ミセス・バンティングがゆっくりと、痛ましいほど真剣に読みふけっているあいだ、彼女の夫は話しかけたくてたまらなさそうに、しかし同時にそうすることを怖れるように、ずっと彼女を見守っていた。エレンの冷たい耳にすら打ち明けたい、ある新しい考えがのど元までこみ上げていたのだ。

 とうとう読み終わった彼女は挑戦するように目をあげた。

 「わたしをじろじろ見るしか能がないの?」彼女はぷりぷりして言った。「殺人があろうがなかろうが、もう起きなくっちゃ!さっさと行きなさいよ!」

 バンティングはとなりの部屋へ行った。

 夫が行ってしまうと、妻は仰向けに寝て眼を閉じた。彼女は何も考えまいとした。いや、それどころではない――彼女の意志があまりにも強く、あまりにも堅かったので、実際しばらくのあいだ彼女は何も考えなかったのだ。ひどく疲れて、気力がなく、心も身体もぼんやりして、消耗の激しい長患いから、ようやく回復しつつある人のようだった。

 やがてたわいもない考えが、夏の空の小さなちぎれ雲のように心の表面を漂ってきた。あのいやらしい新聞売り子は、ベルグレイブ・スクエアでもやっぱり怒鳴り声をあげているのかしら。もしもそうなら、マーガレットは、彼女の義兄とは似ても似つかないマーガレットは、起き上がって新聞を買うかしら。いいや、そんなことはあるまい。マーガレットはそんなくだらないことのために暖かいベッドをはなれるような人じゃない。

 デイジーが帰ってくるのは明日だったろうか。そう――明日だ。今日じゃないわ。ああ、ほっとした。デイジーは今回のマーガレット訪問の話をおもしろおかしく聞かせてくれるだろう!あの娘は物真似の天才だわ。マーガレットはその几帳面で偏屈な態度と、引きも切らない「ご一家」の話で、あの娘の残酷な才能のえじきになるんだ。

 それからミセス・バンティングの心は――哀れな、力のない、疲れた心は――チャンドラー青年のことへと移っていった。愛って、考えてみたら、おかしなものね――彼女、エレン・バンティングは、愛について考えることなどめったになかった。ここにジョーという好青年がいる。若い女やかわいい娘もたくさん見ている――そう、デイジーと同じくらいかわいくて、その十倍も媚びを売るのがうまい女たちを――でも、どうだろう!彼はこの前の夏以来、そんな連中をみんな素通りするようになった。狡猾な女ギツネどもはきっとただでは彼のそばを通りすぎはしないだろう――しかし彼はそんな連中に見向きもしないのだ!デイジーがこの家にいないから、今日はたぶんこちらには来ないはずだ。それも彼女を安心させる材料だった。

 ミセス・バンティングが起き上がると、記憶がどっと洪水のように押し寄せてきた。もしもジョーが来たら、彼女は勇気を出してすべてを聞かなければならない――彼とバンティングのあいだで交わされる復讐者の話をすべて。

 少しずつ彼女は身体をベッドの外に引きずり出した。まるで病み上がりのような、ひどく衰え、心も身体も疲れ切っているような感じだった。

 彼女は立ち上がって、しばらく、耳をすませた――耳をすませながら彼女はぶるっと震えた。ひどく寒かったのだ。まだ朝早いのにずいぶん大勢の人がメリルボーン通りを行き来しているようだ。閉じた玄関のドアや、固く閉ざした居間の窓を通して、いつもとはちがう音が聞こえてきた。男も女もそれこそ群れをなし、ある者は徒歩で、ある者は馬車で、復讐者が犯した驚くべき最新の犯罪現場へと急いでいるのだ。

 突然どさっという音が聞こえた。いつもの朝刊が郵便受けから押し込まれ、玄関広間の床に落ちたのだ。さっそくバンティングがすばやく、静かに部屋を出てきて新聞をひろった。居間に戻って、火をおこしたばかりの煖炉のそばに腰かけ、満足のため息をつく、そんな夫の様子が彼女の眼に浮んだ。

 物憂い動作で彼女は服を着はじめた。そのあいだじゅう、遠くの足音や往来の音が、刻一刻とますます烈しさを増していった。

******

 ミセス・バンティングは台所へ降りてみた。何もかも、彼女が出ていったときとまったく同じであるような気がした。鼻につんとくる臭いは彼女の予想とちがって跡形もなく消えていた。そのかわりに水しっくいを塗った洞穴のような部屋は霧がたちこめていた。しかしよく見ると、なるほど鎧戸は彼女が出ていったときと同じように、かんぬきがかかり、横木を渡してあるが、その背後の窓は大きく開いている。彼女は閉めておいたはずなのに。

 新聞をねじって「こより」を作り――娘時代にお仕えした老婦人からこのやり方を教わったのだ――屈んでガスストーブのかまどを開けた。やっぱりだ。思った通り、彼女が最後にかまどを使ったときから、そこで猛烈な火が熾されている。その下の石床にまで真っ黒な、粘着質のすすが落ちていた。

 ミセス・バンティングは自分とバンティングの朝食用に前日買っておいたハムエッグを持って上へ行き、居間のコンロで火を通した。夫はびっくりして何も言わず彼女を見ていた。そんなことをしたのははじめてだったのだ。

 「下にいられなかったのよ」と彼女は言った。「寒すぎるし、霧が入り込んでいるんですもの。今日だけ朝ご飯はこっちで作ろうと思って」

 「なるほど」彼は優しく言った。「そのほうがいいね、エレン。そのほうがいいと思うよ」

 しかしいざ食べる段になると、妻は自分で用意したおいしそうな朝食にちっとも食欲が湧かないのだった。彼女はお茶をおかわりしただけだった。

 「具合が悪いのかい、エレン」バンティングは気遣うように言った。

 「そんなこと、ないわ」彼女は短く言った。「具合悪いわけないでしょう。馬鹿なこと、言わないで。すぐ近くでむごたらしい事件があったんだと思うと、気持ちが混乱して、食べる気がなくなったのよ。ほら、あれを聞いてごらんなさいな!」

 閉じた窓を通して急ぎ加減の足音や、大きな、野卑な笑い声が聞こえてきた。何という群集、いや、何という野次馬たちが、事件現場へと忙しくむかい、そこから帰ってくるのだろう!見るものなどもう何もありはしないのに。

 ミセス・バンティングは夫に正面の門を閉めるように言った。「あんなハゲタカみたいな連中に入って来られちゃたまらないわ!」彼女は怒ってそう叫んだ。「この世のなかには、何て暇人がそろっているんでしょう!」

第十六章

 バンティングはそわそわと部屋のなかを歩きはじめた。窓のところへ行ってしばらく急ぎ足の人々を眺め、それから煖炉のほうへ戻ってきて椅子に座った。

 しかし長くはそこにじっと座っていられなかった。新聞をちらりと見て、椅子から立ち上がり、またもや窓辺へ寄った。

 「もうちょっと静かにしてほしいわ」と、妻がとうとうそう言った。それから数分後には「あなた、帽子とコートを着て外に行ってきたら」と強い声で言うのだった。

 バンティングは少し恥ずかしそうな顔をして、帽子とコートを身につけ外に出た。

 そうしながら彼はこう思った。おれだって結局は人間なんだよ。すぐ近くでどえらい、とんでもない事件が起きたんだ、興奮してぞくぞくしたって、それが人情ってものじゃないか。エレンにはそういうことが分からないんだ。今朝のあいつはつんけんして、様子が変だった――騒がしい理由を聞きに、外に出ただけで怒るし、戻ってきて何も言わなかったらもっと怒りやがった。あいつがいやがると思って言わなかったのに!

 一方、ミセス・バンティングは勇気をふるいおこして台所へ降りていった。天井の低い、水しっくいを塗った場所へ入ると、恐怖というか、強烈な戦慄が彼女の全身を襲った。彼女はくるりと振り返り、それまでやったことのないことをした。彼女の知るかぎり、ほかの誰も台所でそんなことをしたことはない。彼女はドアを閉めてかんぬきをかけたのである。

 しかし誰からも切り離され、とうとうたった一人になっても、奇怪で異様な恐怖は彼女に取り憑いたままだった。何だか眼に見えない存在といっしょに閉じ込められたような気分だった。それらは代わる代わる彼女をあざけり、冷やかし、非難し、脅かすのだ。

 どうしてわたしはデイジーを二日も外に出してしまったのだろう。いや、出て行くように仕向けたのだろう。デイジーは少なくとも話し相手になる――親切で、若くて、疑うことを知らない話し相手。デイジーといると彼女はいつものシャキッとした自分になれるのだ。話しかける必要も義務もない人といっしょにいられるというのは何と気楽なことだろう。バンティングといるときは、悪いことをしているような、恥ずべきことをしているような、いやな感じに追いかけられる。彼女は彼の妻なのだ――鈍感ではあるけれど、彼はとても優しい。なのに彼女は隠し事をしている。彼にも当然知る権利があることなのに。

 しかし彼女は絶対にバンティングに恐ろしい疑惑を――いや、ほとんど確信していることを――話そうとはしなかった。

 ようやくドアのところに戻り、かんぬきをはずした。上にあがり、寝室を掃除した。それで気分が少しよくなった。

 バンティングには帰ってきてほしかったが、ある意味で彼の不在に安堵も感じていた。夫にそばにいてほしいと思いつつも、夫を家から追い出す理由があれば、何でも歓迎だった。

 ミセス・バンティングは床を掃いたりほこりを払ったり、仕事に集中しようとしながら、上では何が起きているのだろうと絶えずみずからに問いかけていた。

 下宿人はぐっすりと休んでいる!しかしそれも当然だ。ミスタ・スルースは、彼女がよく知っているように、昨日の晩は遅くまで、いや明け方近くまで起きていたのだから。

******

 不意に客間の呼び鈴が鳴った。しかしミスタ・スルースの女主人は上にあがらなかった。いつもなら下宿人の朝食兼帯の簡単な昼ご飯を作る前に上にあがるのだ。しかしそのときはもう一度下に降り、急いで下宿人の食事を用意した。

 それから不思議なくらい心臓を高鳴らせ、ゆっくりゆっくり階段をあがった。客間のまえでお盆を手すりの上に置き、聞き耳を立てた――彼女はミスタ・スルースがもう起きていて、きっとその部屋のなかで彼女を待っていると確信していた。しばらく何も聞こえなかったが、ふとドアを通して、あの聞き慣れた、甲高い、震えるような声が聞こえてきた。

 「女は彼に云う。『盗んだ水は甘く、ひそかに食べるパンはうまい』と。しかしその人は、死の影がそこにあることを知らず、彼女の客は陰府の深みにおることを知らない」

 長い沈黙が訪れた。ミセス・バンティングは聖書のページを熱心に、忙しくめくる音を聞くことができた。と、またミスタ・スルースが声をあげた。今度は先ほどよりも静かな声だった。

 「彼女は多くの人を傷つけて倒した、まことに、彼女に殺された者は多い」そしてさらに落ち着いた、低い、もの悲しい調子で「わたしは心をつくして知恵を知り、また狂気と愚痴とを知ろうとしたが、これもまた風を捕えるようなものであると悟った」

 その場に立ち尽くして聞き入っているとき、深い苦しみと心の憂鬱がミセス・バンティングを襲った。彼女は生まれてはじめて人間の生にまつわる計り知れない謎、悲しさ、奇怪さに触れたような気がした。

 お気の毒なミスタ・スルース――お気の毒で、不幸で、心の平静を失ったミスタ・スルース!圧倒的な哀れみの気持ちが下宿人に対する恐怖、いや、嫌悪すらをも一瞬かき消してしまった。

 彼女はノックし、お盆を取りあげた。

 「お入りください、ミセス・バンティング」ミスタ・スルースの声は普段より弱々しく、生気がなかった。

 彼女はドアの取っ手を回してなかに入った。下宿人はいつもの場所に座っていなかった。寝ながら読書するとき、いつもろうそくを置いている小さな丸テーブルを寝室から客間の窓際へ移していた。その上には聖書とコンコーダンスが開いたまま置いてある。しかし女主人が入ってくると、ミスタ・スルースは急いで聖書を閉じ、夢見るような目つきで窓の外を眺めはじめた。下のほうでは浅ましい男女が大勢、急ぎ足にメリルボーン通りを通り過ぎていく。

 「今日はたいへんな人出のようですね」彼は振り返りもせずそう言った。

 「さようでございます、旦那様」

 ミセス・バンティングはテーブルクロスを敷き、朝食兼帯の昼ご飯を広げはじめた。そのあいだじゅう彼女はそこに座る男に対して本能的な死の恐怖を感じていた。

 ようやくミスタ・スルースは立ち上がり振り返った。彼女は無理やり彼に眼をむけた。何て疲れた、何てやつれた表情だろう――そして何て不思議な表情だろう!

 食事を広げたテーブルに近寄ると、彼は神経質そうに両手をこすり合わせた――それは何かが気に入ったとき、いや何かに満足したときだけ、彼が見せる仕草だった。ミセス・バンティングはそれを見ながら、以前も彼がこんなふうに手をこすり合わせたことを思い出した。はじめて上の階の部屋を見て、そこに大きなガスストーブと便利な流しがあることに気づいたときだ。

 おかしなことだがミスタ・スルースの仕草は同時に、昔見た芝居を思い出させた――はるか昔の少女の頃、若い男といっしょに行って興奮し、魅了された芝居だった。「消えろ、忌まわしいこのしみ!」女王の役を演じていた背の高い、荒々しい、美しい女性が、ちょうど今下宿人がしているように、両手をよじり合わせてそう言ったのだった。

 「いいお天気ですね」ミスタ・スルースは座ってナプキンを広げながら言った。「霧が晴れましたよ。あなたはどうお考えになるか分からないけど、ミセス・バンティング、わたしは今みたいに太陽が照っているときは気分がいつも明るくなります。ともかく日が差しているときは」彼は問いかけるように彼女を見たが、ミセス・バンティングは返事をしなかった。ただ頷いただけだった。しかしミスタ・スルースは機嫌を損じなかった。

 彼はこの落ち着いた、寡黙な女に大いに好意と尊敬を抱いていた。そのような感情を女性に抱いたのはもう何年もなかったことだ。

 彼は蓋をかぶせたままの皿を見下ろし、頭を振った。「今日は食欲があまりありません」彼はもの悲しそうに言った。それから唐突にチョッキのポケットから十シリング金貨を取り出した。

 ミセス・バンティングはとっくにそれが昨日着ていたチョッキとはちがうことに気づいていた。

 「ミセス・バンティング、こちらにおいでいただけますか」

 つかのま、ためらったあと、女主人はその言葉に従った。

 「どうかこのささやかな贈り物を受け取ってください。ご親切にも昨晩、台所を使わせていただいたお礼です」彼は静かに言った。「できるだけ汚さないようにしたのですよ、ミセス・バンティング、しかし――その、実をいうと、たいへん手の込んだ実験をしていたのです」

 ミセス・バンティングは手を差出したものの、迷ったように躊躇し、それから硬貨を受け取った。彼女の手のひらをさっとかすめた指は氷のように冷たかった――冷たくじっとりしていた。ミスタ・スルースは明らかに具合が悪いのだ。

 階段を降りているとき、くすんだ空にかかる赤い玉のような冬の太陽が、ミスタ・スルースの女主人を照らしだし、彼女が手に持つ金貨を血のような赤色に輝かせた。少なくとも彼女の眼にはそのように見えたのだった。

******

 その日、その静かな家のなかではいつものように時間が経過していった。もちろん小さな家の外では普段よりはるかに大きなざわめきが起きていた。

 久しぶりに太陽が照っていたせいだろう、ロンドンじゅうの人々がそのあたりに遊びに来たようだった。

 ようやくバンティングが戻ってきて、あたりを覆う異常な興奮について話すのを、妻は黙って聞いていた。ひとしきり夫がしゃべったあとで、彼女は急にじろりと奇妙な目つきを彼にむけた。

 「現場を見に行ったのね」

 悪いことでもしたように、彼はそれを認めた。

 「それで?」

 「うむ、見るものなんて何もなかった――今頃行ったってだめさ。しかしね、エレン、犯人の野郎は大胆だよ!だって、エレン、被害者が一声叫んでいたら――その暇はなかったらしいけど――一声叫んでいたら、必ず誰かが聞きとがめただろうからな。こんな調子で、午後なんかに事件を起こされたら、犯人は捕まりっこないって話だ。だってズブリとやって十秒後には雑踏に紛れ込んじまうんだから」

 その日の午後、バンティングは金に糸目をつけず新聞を買いあさった――実をいえば、ほぼ六ペンスを散財したのである。しかし事件の鍵らしきものがいろいろあげられているにもかかわらず、目新しい情報は何もなかった――前よりも少なくなっているくらいだった。

 警察が途方に暮れていることは明らかだった。ミセス・バンティングはそれを知って朝のうちより不思議なくらい気分がよくなりはじめた。疲れが取れ、かげんがよくなり――恐怖感がずっと減ったのである。

 そのとき劇的といってもいいくらい突然、その日の静けさを破るあることが起きた。

 彼らはお茶をすませ、バンティングは走って買ってきた最後の新聞を読んでいた。すると不意に大きなノックの音が雷のように玄関から響いてきたのだ。

 ミセス・バンティングは驚いて顔をあげた。「まあ、いったい誰かしら」と彼女は言った。

 バンティングが立ちあがると彼女はすぐにこう付け加えた。「あなたは座ってらっしゃい。わたしが行く。下宿を探してきたんでしょう。すぐ追っ払うわ!」

 彼女は部屋を出たが、出るまえにまたもや大きなノックが二回響いた。

 ミセス・バンティングは玄関のドアを開けた。眼のまえに見知らぬ人が立っていた。体格のいい、浅黒い顔つきの男で、獰猛な黒髭を生やしている。なぜか――彼女自身にもよく分からなかったけれど――その男はミセス・バンティングに警察官を思い起こさせた。

 彼女の印象は男が最初に発した言葉によって確認された。というのは、彼は芝居じみた、くぐもった声で、こう言ったからである。「令状により捜査する!」

 か細い抗議の叫び声をあげ、ミセス・バンティングはとっさに腕を広げ、男の行く手をさえぎろうとした。彼女は真っ青になった――ところがその瞬間、見知らぬ男と思われた人間が笑い声を放った。腹の底から愉快そうに笑うその声は、聞き慣れた声だった。

 「ひっかかりましたね、ミセス・バンティング!こんなにうまくいくとは思わなかった!」

 それはジョー・チャンドラー――変装したジョー・チャンドラーだった。それほど多くはないにしろ、ときどき彼が仕事の関係で変装することは、彼女も知っていた。

 ミセス・バンティングは笑い出した――止めどなく、ヒステリックに。デイジーが到着した朝と、ちょうどそっくりだった。新聞売り子が怒鳴りながらメリルボーン通りを走ってきたあのときと。

 「どうしたんだね」とバンティングが出てきた。

 チャンドラー青年はうしろめたそうに玄関のドアを閉めた。「こんなふうにおどかすつもりはなかったんです」彼はしまらない顔をして言った。「ただのいたずらのつもりだったんです、ミスタ・バンティング」彼らは二人して彼女を支え、居間に連れて行った。

 しかし居間に入ると、ミセス・バンティングの取り乱し様はさらにひどくなった。黒いエプロンで顔を覆い、ヒステリックにしゃくりあげはじめた。

 「ぼくだと分かるようにしゃべったんですけど」若者は詫びるように言った。「でも、おどかしてしまったんですね。ごめんなさい!」

 「気にしないで!」エプロンを顔からはなしながら彼女は言った。しかし交互に泣いたり笑ったりする彼女の目からはまだ涙がこぼれている。「ちっとも気にすることないのよ、ジョー!わたしが馬鹿だからあんなにびっくりしたのよ。でも、殺人が近くで起きたじゃない。あのせいで――今日はすごく気が高ぶっているのよ」

 「誰だってそうなりますよ」若者は浮かぬ調子で言った。「ちょっと寄ってみただけなんです。仕事の最中にこんなことしてちゃだめなんだけど――」

 ジョー・チャンドラーはまだテーブルに残っていた食事の残りを物欲しげに見つめていた。

 「ちょいと一口食べていけばいい」バンティングはあたたかく言った。「それからニュースがあったら教えてくれないか、ジョー。われわれは事件のまっただなかだな」彼は身の毛もよだつ事実を、いかにも楽しそうに、ほとんど誇らしげに語った。

 ジョーは頷いた。とっくにバター付きのパンを口いっぱいに頬ばっていたのだ。彼はしばらく待ってこう言った。「一つだけニュースがありますよ――あまり面白くはないだろうけど」

 夫婦は二人とも彼を見た――ミセス・バンティングは急に落ち着きを取りもどした。もっともその胸はまだときどき波打っていたけれど。

 「うちの大ボスが辞任したんです!」ジョー・チャンドラーはゆっくりと、重々しく言った。

 「まさか!警視総監がかね?」バンティングが叫んだ。

 「そうなんです。非難に耐えられなかったんですよ――同情しますね!総監は最善を尽しました。ぼくらもみんな。でも一般大衆はただもう怒り狂って――今日のウエスト・エンドでの話ですけどね。それに新聞ときたら残酷ですよ――まったくあの連中は。ろくでもないことを書き立てるし!連中の要求ときたら信じられませんよ――それも真顔で言ってくるんだから」

 「どういうことを?」とミセス・バンティングが訊いた。彼女は本当に知りたがっていた。

 「たとえばクーリエ紙は一軒一軒しらみつぶしに捜査しろと言うんです――ロンドン全域をですよ。考えてもみてください!どの家も警察に入りこまれて、隅から隅まで調べられるんですよ。復讐者が隠れていないかって屋根裏部屋から台所まで。正気の沙汰じゃないです!ロンドンでそんなことしようものなら、それだけで何ケ月もかかってしまう」

 「わたしの家に警察が入ろうとしたら目にもの見せてやるわ!」ミセス・バンティングは怒って言った。

 「復讐者が今度、やり方を変えたのは、あのいまいましい新聞どものせいなんです」とチャンドラーがゆっくりと言った。

 バンティングは客にむかってサーディンの缶詰を押しやり、熱心に聞き入っていた。「どういうことだね」と彼は訊いた。「意味が分からんよ、ジョー」

 「こういうことです。新聞は復讐者が特定の時間を選んで事件を起こすのは実に驚くべきことだ、といつも言っていました――つまり誰も通りにいないような時間帯を選んでるってことです。だから犯人はそれを読んで、当然、『そうだ』って気がついたんですよ。『今度は別のやり方で行くか』って。まあ、これを聞いてください!」彼はポケットから紙切れを取り出した。新聞の切り抜きだった。

 「元ロンドン市長、復讐者について語る。

 『復讐者は捕まるだろうかだって?もちろんだ』とサー・ジョンは答えた。『必ず捕まるに決まっている――たぶん今度事件を起こしたときだ。比喩的な意味でも文字通りの意味でもブラッドハウンドたちが大挙してやつのあとを追いかけることになるだろう。やつがまたもや血を吸い取ったその瞬間からだ。全社会を敵に回して、逃げられるわけがない。特に、一日でいちばん静かな時間帯を選んで犯罪を行うことが分かっているんだから。

 ロンドン子は今、恐慌状態に陥っている――こう言ってよければ、疑心暗鬼のびくびく状態だ――何の罪もないのに、仕事の都合で夜中の一時から三時のあいだに外出しただけで、誰もがとなりの人から疑惑の眼で見られてしまう』」

 「この元市長には猿ぐつわをはめてやりたいな!」とジョー・チャンドラーはかっかしながらしめくくった。

 ちょうどそのとき、下宿人の呼び鈴が鳴った。

 「おれが行ってくるよ」とバンティングが言った。

 妻は先ほどのショックでまだ顔が青ざめ、身体が震えていた。

 「だめ、だめ」彼女はすぐにそう言った。「あなたはここでジョーとお話しなさい。わたしがミスタ・スルースの用事を聞いてくる。今日はいつもより少し早めに夕食を召し上がるのかもしれない」

 彼女はゆっくりと、つらそうに階段をあがった。またもや足が綿でできているような感じがした。二階にたどりつくと、ドアをノックし、なかに入った。

 「お呼びになりましたか、旦那様」彼女は静かな、うやうやしい声で言った。

 ミスタ・スルースが顔を上げた。

 彼女はふと気がついたのだが――しかしあとから考えてみると、それはただの気の迷いだったのかもしれないが――下宿人はそのときはじめて怯えているように――怯えてびくびくしているように見えた。

 「下から声が聞こえてきました」彼はそわそわしながら言った。「何があったのでしょう。最初、この部屋を借りるときに言いましたが、ミセス・バンティング、静かであることがわたしにはいちばん大切なんです」

 「わたくしどもの友人が来ただけでございます。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。あしたノッカーを取り外しましょうか。ノックの音がお耳に触るようでしたら、バンティングが喜んではずしますが」

 「いいえ、とんでもない。そんなことまでなさることはありません」ミスタ・スルースはほっと安心したようだった。「お友達ですか、ミセス・バンティング。とても声が大きいですね」

 「若いものですから」彼女は謝るように言った。「バンティングの古い友だちの息子でございます。よく遊びにまいりまして。今まであんなに大きなノックの音を二回もたてたことはございませんでしたのに。一言申しつけておきましょう」

 「それには及びません、ミセス・バンティング。どうかそんなことはなさらないで。ちょっと迷惑しただけですから!」

 彼女はしばらく待った。ミスタ・スルースがあの耳障りな叫び声について何も言わないのはいかにも変だった。外の道は、その日、一時間か二時間おきに、ベツレヘム精神病院そっくりの大騒ぎをしていたのだから。しかしミスタ・スルースは、物静かな紳士の読書を妨げるあの騒音については何一つ話さなかった。

 「今晩、夕食はいつもより早めに用意いたしましょうか、旦那様」

 「お任せしますよ、ミセス・バンティング――ご都合のいいときでかまいません。よけいなお手間をおかけしたくないのです」

 彼女はこれが引き時だと感じ、静かに出ていくとドアを閉めた。

 そのとき玄関のドアがバシンと閉まる音が聞こえた。彼女はため息をついた――ジョー・チャンドラーときたら、なんて騒々しい若者なのだろう。

第十七章

 下宿人が彼女の台所で奇怪な実験をしたその次の夜、ミセス・バンティングはぐっすりと眠ることができた。疲れすぎてぐったりしていた彼女は、枕に頭をのせるやいなや眠りに落ちてしまった。

 だからこそ次の日は、朝早く目を覚ましたのだろう。バンティングが持ってきてくれたお茶を飲む暇もなく、彼女は起き上がり身支度を調えた。

 彼女は唐突に、廊下と階段を徹底的に「大掃除」しようと決意した。そして朝食もまだだというのに、仕事に取りかかったのである。バンティングはすっかり落ち着かない気分になってしまった。煖炉のそばで新聞を――しかもふたたび夢中になるほど面白くなった新聞を――読みながら、彼は声をかけた。「そんなに急ぐことはなかろうよ、エレン。デイジーが今日戻ってくるんだ。帰るまで待って手伝ってもらえばいいじゃないか」

 しかし彼女がせっせとはたきをかけ、ほうきを使い、磨きをかけている廊下からは、こんな声が返ってきた。「若い子にこういう仕事は無理。心配しないで。今日はお掃除を少しだけよけいにしたい気分なんだから。お客さんが来て、うちのなかが汚かったらみっともないわ」

 「来るわけないさ!」バンティングがクスクス笑った。が、そのときふと思いついたことがあった。「下宿人を起こしやせんだろうな」

 「ミスタ・スルースは昨日はほぼ一日じゅう寝ていたわ。昨日の晩もずっと寝ていたのよ」彼女は早口に答えた。「あの方の都合に合わせすぎていたみたい。この階段なんか、もう長いこと掃除してないもの」

 廊下を掃除しているあいだ、ミセス・バンティングは居間のドアを大きく開けたままにしていた。

 そんなことをするのは彼女にしては珍しいことだった。しかしバンティングは立ちあがってドアを閉め、いわば、彼女を閉め出すような気にはなれなかった。それでも物音がつづいているあいだはどうしても落ち着いて新聞を読むことができないのだった。エレンがこんなに騒々しい音をたてたことなどかつてなかったことだ。彼は一二度顔を上げて、いささか怒ったように渋面を作った。

 突然、物音が途絶え、それに気がついた彼はぎくっとした。エレンがドア口に立って、何もせず彼を凝視していた。

 「入れよ」と彼は言った。「入ればいいじゃないか。まだ終ってないのかい」

 「ちょっと休んでいるだけ」と彼女は言った。「あなたが何も言わないから。何か――何か新しいニュースはないの――今朝の新聞には」

 自分らしくない好奇心を恥じているような、小さな声だった。その疲れた、青ざめた表情は急にバンティングを不安にした。「入りなさい!」彼は鋭く繰り返した。「もう充分やったじゃないか――朝ご飯もまだだっていうのに。そんなに無理することはないさ。入ってドアを閉めなさい」

 彼は命令するように言い、驚いたことに妻はそれに従った。

 彼女は入ると同時に、それまでしたことのないことをした――ほうきを持ち込み、隅の壁に立てかけたのである。

 彼女は椅子に腰かけた。

 「朝ご飯はここで作るわね」と彼女は言った。「さ、寒いのよ、バンティング」夫は驚いて彼女を見た。彼女の額には汗が光っていたからだ。

 彼は立ちあがった。「よしきた。下に行って卵を取ってくる。心配するな。何なら、おれが下で料理するが」

 「いいえ」と彼女は頑固に言った。「自分の仕事だもの、わたしがする。あなたはただ卵を持ってきてちょうだい。大丈夫よ。明日はデイジーが手伝ってくれるし」

 「こっちに来て、おれの椅子にゆったり座ったらいい」彼は優しく言った。「ちっとも休もうとしないじゃないか、エレン。おまえみたいな女は見たことないぞ!」

 ふたたび彼女は立ちあがり、夫の言うことに従った。力のない足どりだった。

 彼は不安そうに、落ち着かなげに彼女を見ていた。

 彼女は夫が置いたばかりの新聞を取りあげた。バンティングは二歩、彼女のほうに近づいた。

 「いちばん面白いところを教えてやるよ」彼は勢い込んで言った。「『本紙特別捜査官』という見出しの記事なんだ。ほら、この新聞は特別に捜査官を雇って活動させはじめたんだ。この捜査官は警察が見のがした小さな事実をいっぱいつかんだんだよ。本人が、つまり特別捜査官が、そのへんのことを残らず書いている。昔は有名な探偵だったらしい。引退していたんだが、この新聞の仕事のために、また返り咲いたんだ。彼の記事を読んでごらん。この男が賞金を手にしたとしても驚くには当らんね。犯人の居場所を突き止めるのが好きでたまらないようだよ」

 「そんな仕事、ちっとも自慢できるようなものじゃないわ」と妻がいらいらして言った。

 「復讐者を捕まえたら自慢になるさ!」とバンティングは言った。エレンに水を差されても気にならないほど彼は興奮していた。「ゴム底の一件を読んでみろ。こいつは今まで誰も気がつかなかったんだ。チャンドラーに教えてやるよ。あいつはまだ寝ぼけ眼で捜査しているんだから」

 「あなたにそんなことを言われなくたってちゃんとぱっちり眼を開けていますよ。ところで卵はどうなったの、バンティング。あなたは平気かも知れないけど、わたしはお腹がぺこぺこ――」

 ミセス・バンティングは今、「エレンのうなり声」と夫がときどきひそかに呼んでいる声でしゃべっていた。

 彼は奇妙な戸惑いを感じながら、くるりと向き直って部屋を出た。彼女の様子がどうもおかしい。しかもその原因が分からない。辛辣なものの言い方や嫌みなら慣れているから気にしない。しかしこの頃の彼女はお天気屋で気分がしょっちゅう変わるのだ。まえはあんなふうじゃなかったのに!昔はいつも落ち着いていた。でも今はどう接していいのかよく分からない。

 彼は下に降りながら、妻の態度の変化について不安そうに思いを巡らせた。

 たとえば肘掛け椅子のことだ。確かにささいなことだが、しかしエレンがあの椅子に座るとは知らなかった――今まで一回だって、一分だって座ったことはなかったのに。あれはおれへのプレゼントとして買ったものなのだから。

 ミスタ・スルースが来て最初の一週間は、彼らはとても幸せだった。幸せで――平和だった。もしかしたら心配だらけの苦しい生活から、気苦労のない安定した生活に、突然変わったせいかもしれない。エレンはその変化についていけなかったのだ――そうだ。きっとそうだ。それとみんなが興奮している復讐者の殺人。何しろロンドン子は一人残らずあの事件にぴりぴりしている。鈍感なバンティングでさえ、妻が恐るべき事件に病的な関心を抱いていることに気づいていた。はじめのうちは話をするのもいやがり、殺人とか犯罪の話にはまったく興味がないと公言していたのだからなおのこと奇妙に見えるのだ。

 彼、バンティングは、そうしたものにいつも軽い関心を抱いていた。若い頃は探偵小説を大いに読みあさり、今でもそれにまさる面白い読み物はないと思っている。そのせいで彼はジョー・チャンドラーにひきつけられ、はじめてロンドンに来たときも、この若者を暖かく迎え入れたのだ。

 しかしエレンは大目に見ていただけで、二人の男がその手の話をすることを決してこころよく思ってはいなかった。彼女が非難するようにこう叫んだことは一度や二度のことではない。「あなたがた二人の言うことを聞いていたら、この世のなかには善良で、立派で、おとなしい人なんか一人もいないみたいだわ!」

 しかし今やすべてが変わってしまった。彼女はみんなと同じように復讐者の犯罪について最新の情報を熱心に聞きたがる。確かに彼女はどんな説に対しても自分なりの考えを示す。でもいつだってエレンはどんなものにも自分なりの考えを持っているのだ。頭のいい女だ。そんじょそこらの女とはわけがちがう。

 こんな思いが途切れ途切れに頭に浮んできたのだが、そのあいだにバンティングは卵を四つボールに割って入れた。彼はエレンをちょっと驚かしてやろうと思っていた――何年もまえにフランス人のシェフから教わったオムレツを作ってやろうとしていたのだ。さっき彼女はそんなことをするなと言っていたから、どう思われるか分からないが、しかし気にするものか。作ったら彼女もオムレツをおいしく食べてくれるだろう。エレンは最近まともに食事をしていないのだ。

 上に戻ってみると、ほっとしたことに、そしてまた驚いたことに、妻はオムレツを見て何も言わなかった。彼がどれだけ下にいたのかも気づいていないようだった。というのは彼らが取っている新聞を真剣に、念入りに読んでいたからである。大新聞が雇った、かつての名探偵が書いた記事だった。

 この特別捜査官がみずから語るところによると、彼は警察や公認探偵の目を逃れたいくつもの手がかりを発見したらしい。たとえば、これは幸運な巡り合わせであったことは彼自身も認めているが、このまえ二重殺人が行われたとき、事件の発覚直後に――正確には半時間以内に――両方の現場を調べることができたのである。そこで彼はつるつるの濡れた舗道に、犯人のものとおぼしき右の足跡を見つけたのだ。

 新聞はなかばすり切れたゴム底の跡を再現していた。同時に彼は次のことも認めていた――この特別捜査官は非常に真面目で、しかも恐るべき謎の解明を彼に託した進取的な新聞は彼にたっぷりと記事を書くスペースを与えていたのだ――つまり、このようなゴム底の靴はロンドンでは何千という人々が履いている……。

 そのくだりまで読み進んだとき、ミセス・バンティングは顔をあげ、その薄い、固く閉じた唇の上に弱々しい笑みを浮かべた。ゴム底について言われていることはまったくその通りだ。今、ゴム底は何千という人々が履いている。彼女はその点をはっきりと指摘してくれた特別捜査官に感謝したいような気持ちだった。

 記事は次のように終っていた。

 「本日は十日前の二重殺人事件に関して検死審問が行われる予定である。わたしは公開予備審問が即刻行われることが望ましいと思う。たとえば新たな殺人が発覚したら、その日のうちに開くのがいい。そうする以外に一般大衆から寄せられた証拠を検証し、ふるいにかけることはできないだろう。事件から一週間も経過し、これらの人々が警察から極秘に尋問を受けつづけているうちに、彼らの印象はぼやけ、どうしようもなく混乱するからである。前々回の事件においては、数名の人々、少なくとも二人の女性と一人の男性が、凶暴な二重殺人の現場から急ぎ立ち去る犯人の姿を見ていることはまちがいないらしい。そうであるなら、本日行われる取り調べはその重要性において千鈞の重みを持つ。明日はこの審問や審問での証言についてわたしの印象を語りたいと思っている」

 夫がお盆を持って入ってきても、ミセス・バンティングはちらりと目をあげただけで新聞を読みつづけた。とうとう夫はややむっとした声でこう言った。「その新聞を置きなさい、エレン、いますぐ!せっかくオムレツを作ってやったのに、食べなきゃ革みたいに固くなっちまうぞ」

 しかし妻は朝食をすますと――バンティングにとっては屈辱的なことに、彼女は半分以上もおいしそうなオムレツを残した――また新聞を取りあげた。大きなページをめくり、復讐者とその犯行を扱った見開き二ページの特集記事の下のほうに、彼女が求めていた情報を見つけ出したときは、声を殺して叫んだ。

 ミセス・バンティングが探していたもの――彼女がついに見つけたもの――それはその日に行われる検死審問の時間と場所だった。時間は少々異例な午後の二時だった。しかしミセス・バンティングにとってはもっとも都合がいい時間だ。

 二時までに、いや一時半までに、下宿人は昼食を食べるだろう。ちょっと早めに準備すれば、彼女とバンティングもディナーをすますことができる。デイジーはお茶の時間まで帰ってこないはずだ。

 彼女は夫の椅子から立ちあがった。「あなたの言う通りね」と、彼女は早口にしわがれた声で言った。「お医者さんに診てもらえって、言ってたでしょう、バンティング。午後になったらさっそく行ってくるわ」

 「ついていってあげようか」と彼は訊いた。

 「いいえ、いらない。それどころか、あなたがいっしょに行くなら、わたしは行かないわよ」

 「そうかい」彼はかちんときて言った。「好きなようにするさ。おまえのことはおまえがいちばん分かっているんだから」

 「そうよ、わたしの健康のことはわたしがいちばん分かっている」

 バンティングでさえ、せっかく心配してやっているのにと、この態度にはかんかんになった。「ずっとまえに言ったじゃないか、医者に行くべきだって。なのにおまえはいやだって言ったんだ!」彼はむかっ腹を立てて言った。

 「あなたがまちがっているなんて言ったおぼえはないわ。ちがう?とにかく、わたしは出かけるから」

 「どこか痛いのかい?」彼はその丸々とした、鈍感そうな顔に真剣な気遣いの色を浮かべて彼女を見た。

 向かい合って立つエレンの様子がなんとなく変だった。肩が縮こまり、頬さえやや落ちくぼんでしまったようだ。こんなに調子の悪そうな彼女は見たことがない――飢え死にしかけ、それでも馬車馬のように働いていたあの頃だってこんなにひどい様子はしていなかった。

 「そうなの」彼女は短く答えた。「頭が痛いの。首のうしろが。ほとんどずっとつづいているの。どきっとすることがあるともっとひどくなるわ。昨日の晩、ジョー・チャンドラーにおどかされたときみたいに」

 「あんなことするなんて、まったくどうしようもないやつだよ!」バンティングは不機嫌に言った。「今度がつんと言ってやる。だけど、エレン、どうしてあんなものにだまされたんだい。おれはひっかからなかったのに!」

 「そりゃそうよ。あなたは彼の正体をはじめから知っていたじゃない」と彼女はゆっくりと言った。

 バンティングは黙ったままだった。エレンの言うことが正しかったからだ。バンティングが玄関に出ていって、巧みに変装した訪問者を見たとき、ジョー・チャンドラーはもう普通にしゃべっていたのだ。

 「あんなばかでかい黒髭なんかつけおって」彼は愚痴をこぼしつづけた。「おまけに真っ黒なかつらまで。馬鹿馬鹿しいったらありゃしない。おれはそう思うね!」

 「ジョーを知らない人ならそうは思わないわ」と彼女は鋭く言った。

 「さあ、どうかな。あんな格好の人間、おりはせんよ、絶対。あいつに分別があるなら、あんな格好はデイジーにだけは見せないほうがいいな!」バンティングはそう言って愉快そうに笑った。

 この二日間、彼はデイジーとチャンドラーのことをさんざん考え、いろいろなことを考慮したうえで、二人の関係に至極満足していた。娘が伯母さん(オールド・アーント) のところで過ごしている生活はつまらない、不自然な生活である。それにジョーはちゃんと金を稼いでいる。二人は遠からず結婚するかもしれない。恋人というのは、バンティングとデイジーの母親の場合みたいに、延々と待たされることがしばしばあるのだが。そう、すぐくっついたっておかしくはないのだ――彼らがその気になりさえすれば。少なくともジョーのほうはその気になるはずだ、とバンティングはほぼ確信していた。

 しかし時間はたっぷりある。デイジーは再来週が来てようやく十八だ。彼女が二十歳になるまで待ってもいいだろう。そのときまでには伯母さん(オールド・アーント)は死んで、デイジーは多少まとまった金を手にしているかもしれない。

 「何をにやにやしているの?」妻がきびしい声を出した。

 彼は頭を振った。「おれかい?――にやにやしているって?いや、別に」彼は一瞬口ごもった。「知りたいなら教えてやるよ、エレン。おれはデイジーとジョー・チャンドラーのことを考えていたのさ。あいつは娘に気があるんだ。そうだろう?」

 「気がある?」そう言ってミセス・バンティングは変な、いびつな笑い声をあげたが、しかし冷たい笑い方ではなかった。「気があるですって、バンティング?」彼女は繰り返した。「彼はぞっこん惚れ込んでいるのよ――ほかのものが何にも見えなくなるくらい!」

 彼女はためらいつつも夫をじっと見つめながらこうつづけた。その指は黒いエプロンの端をひねりつづけた。「あの人、今日の午後は彼女を迎えに行くんでしょう?それとも――それとも審問に行かなきゃならなのかしら、バンティング」

 「審問?何の審問だね」彼は面食らったように彼女を見た。

 「キングズ・クロスの近くで死体が見つかったでしょう。あの検死審問よ」

 「いいや、行かないよ。あいつは検死審問には何の用もない。デイジーを迎えに行くんだ。昨日の晩そう言っていた――おまえが下宿人のところに行っているあいだだけど」

 「それならよかった」ミセス・バンティングは心からほっとして満足そうに言った。「さもないとあなたが迎えに行かなければならなかったでしょう。わたしは家を空けるのがいやなのよ――二人とも出かけてしまうのが。ドアのベルが鳴ったりしたらミスタ・スルースが迷惑するし」

 「ああ、おれは家をはなれないよ。安心するがいい、エレン。おまえが帰ってくるまで留守番しているさ」

 「帰りが遅くなっても出ちゃだめよ、バンティング」

 「心配するな。遅くなるのは分かってるさ。イーリングの医者のところに行くつもりなんだろう?」

 彼は探るように彼女を見、ミセス・バンティングは頷いた。どういうものか、頷くだけなら嘘を言うより罪深くないような気がした。

第十八章

 どんなに苦しい体験も二回目になると恐怖感は薄れ、勇気を持って対処できるようになる。さほど困難でなくても、まったく新しい経験をするときのほうがはるかに気骨が折れるものだ。

 ミセス・バンティングはすでに一度死因審問に出席したことがあった。しかも証人としてである。それはどことなくぼやけた彼女の記憶のなかでもくっきりと鮮明に思い起こすことのできる数少ない出来事の一つだった。

 当時エレン・グリーンだった彼女は、年老いた雇い主の婦人と、とある田舎の邸宅に泊まっていた。そこで思いも寄らぬ、痛ましい悲劇が起きたのだ。立派な大邸宅の落ち着きや、いかにも上品そうな雰囲気をぶちこわすように、こういう悲劇というものはときどき起きるものなのである。

 下級女中のかわいい、陽気な娘が従僕を愛するあまり入水自殺した。男は恋人に激しい嫉妬をかきたてるような真似をしたのである。少女は悩み事を同僚の召使いにではなく、見知らぬ婦人のお手伝いに打ち明けたのだった。二人の女が話をしているとき、娘は自殺をほのめかした。

 ミセス・バンティングは外出着を着ながら、あの恐ろしい事件の詳細と、不本意ながらも自分が演じた役回りをことこまかに思い出した。

 彼女はあのかわいそうな、不幸な娘の検死審問が行われた田舎の宿屋を思い浮かべた。

 執事も彼女と一緒に屋敷を出た。彼も証言をする予定だったのだ。彼らがやってくると宿屋のまわりに集まった人々は期待に胸をはずませた。村人たちが男も女もうろうろしていた。死んだ娘の運命は彼らの興味を大いにそそった。この惨事は、田舎で退屈な生活を送っている者にとっては、避けて通るよりもむしろ歓迎すべきたぐいの出来事だった。

 誰もが彼女、エレン・グリーンをことのほか丁寧に、優しく扱ってくれた。その古い宿屋の二階が控え室になっていたのだが、証人たちには椅子だけでなくケーキとワインもあてがわれた。

 彼女は証人になることを怖れていた。悲しい事件について自分が知るわずかなことを言わなければならないくらいなら、その居心地のいい、快適な場所から逃げ出したほうがましだと思ったことを思い出した。

 しかし終ってみるとそれほど恐ろしいことではなかった。検死官はおだやかな話し方をする紳士で、彼女が不幸な少女の使った言葉を正確に証言すると、その明快で筋の通った説明を褒めてくれたくらいなのである。

 詮索好きな陪審員が質問をし、それに対するエレンの答えが人でいっぱいの、天井の低い部屋に笑いを引き起こした。「ミス・エレン・グリーンは娘さんが自殺をほのめかしたとき誰かに報告すべきじゃなかったんでしょうか」とその男は言った。「そうしていれば湖に身投げするのを防げたんじゃないでしょうか」証人である彼女は多少とげとげしく――検死官が親切だったので、そのときはもう楽な気分になっていた――次のように返答した。彼女はでまかせを言っているのだと思っていた、若い女が恋のために身投げなどという、馬鹿馬鹿しい真似をするわけがないと思っていた、と。

******

 午後出席する審問はずっと昔、あの田舎で行われた審問と似たようなものになるだろうとミセス・バンティングは漠然と考えた。

 あの審問での取り調べはなまやさしいものではなかった。彼女は丁寧な話し方をする紳士、検死官が、真実を――つまり、彼女、エレン・グリーンが一目見たときからいけ好かないと思った、あの感じの悪い従僕がほかの女と浮気するに至った経緯を――少しずつ、残らず引き出していったことをよくおぼえている。検死官はその間の事情をつまびらかにすることはないだろうと思われていたのだが、しかしそれは静かに、容赦なく明らかにされた。さらに死んだ娘の手紙が読みあげられた。教養のない、おかしな言い回しを使っていたが、哀れをもよおす内容で、溺愛と激しい脅迫的な嫉妬に満ちていた。陪審団は若者を痛烈に非難した。見物人のひしめく部屋からこそこそと出て行く彼の表情を彼女は今でも思い出すことができる。まわりの人々は彼を避けるように後じさりして道をあけていた。

 考えてみると、彼女がその昔話をバンティングに一度もしたことがないというのは奇妙なことである。二人が知り合う何年もまえに起きたことなのだが、どういうものか、話そうという気にならなかったのだ。

 バンティングは検死審問に行ったことがあるのだろうか、と彼女は思った。訊いてみたいのはやまやまだが、今この瞬間訊いたら、彼女がどこに行こうとしているのか勘づかれてしまう。

 寝室のなかを動き回りながら、彼女は首を横に振った――いいえ、そんなことないわ、バンティングが勘づくわけがない。わたしの嘘に気づくなんて、彼にかぎって絶対ありえない。

 ちょっと待って――わたしは嘘を言ったのかしら。彼女は審問が終ったら医者のところに行くつもりだった。時間があればの話だけれど。審問はいったいどのくらい時間がかかるのだろうと彼女は心配になってきた。今度の事件では手がかりがほとんどないから、手続きはきっとごく形式的なものだろう――形式的だから、短いのではないか。

 彼女には一つだけはっきりした目的があった。殺人者を見たと信じている人々の証言を聞くのだ。犠牲者たちがまだ流れ出す自分の血にまみれて身もだえする犯行現場から、殺人者が立ち去るのを見たという人々の証言だ。彼女は自信を持ってそう言う目撃者たちがどんなふうに復讐者の見かけを言いあらわすか、それが知りたいという強い、ひそかな、そう、熱烈な好奇心を燃やしていた。多くの人が復讐者を見ているにちがいないのだ。バンティングがつい昨日、チャンドラー青年に言ったように、復讐者は幽霊ではない。生きた人間で、どこかに身を隠している。そこにいることは人に知られていて、また恐るべき犯罪の合間はそこで生活しているはずなのだ。

 彼女が居間に戻ってきたとき、夫はその真っ青な顔色を見てぎくりとした。

 「おいおい、エレン」と彼は言った。「医者のところに行く時間だが、葬式に行くみたいな顔色じゃないか。駅までいっしょに行こう。汽車で行くんだろう?バスじゃないんだね。イーリングは遠いからな」

 「ほらほら!真面目な顔で約束したのに、さっそく反故にするの!」しかしその言い方に冷たさはなかった。ただ落ち着かなげで、悲しそうだった。

 バンティングはしょんぼりした。「ああ、確かに下宿人のことをすっかり忘れていたよ!でも、おまえ、大丈夫かい、エレン。明日まで待って、デイジーを連れて行けばいいじゃないか」

 「自分のことは自分のやり方でする。人の指図は受けません!」彼女はぶっきらぼうに言った。しかしバンティングが本当に心配そうな表情を見せ、自分の調子もよいとはとても言えた状態ではなかったので、優しい声を出してこう付け加えた。「わたしは大丈夫よ、あなた。心配しないで!」

 ドアのほうにむかいながら、彼女はロングジャケットのうえにまとった黒いショールをぎゅっと強く合わせた。

 彼女はこんなに優しい夫をあざむくことが恥ずかしくて恥ずかしくてたまらなかった。しかしほかにどうすることができるだろう。自分の恐ろしい重荷をバンティングと分かち合うことなどできるわけがない。そんなことをされたら誰だってびっくりして頭が変になるだろう。彼女でさえもう耐えられないと思うことがよくあった。彼女が疑っていること、心の奥底でそれが真実ではないかと怖れていること――それを誰かに打ち明けられるなら、誰でもいいから打ち明けられるなら、何を差し出しても惜しくはないのだが。

 しかし外の空気は、霧が立ちこめていても、いつのまにか彼女の気持ちを軽くしはじめた。最近は外出することがあまりにも少なかった。無防備な状態にして家を離れることを神経質に怖れ、同時に、バンティングが下宿人と顔をつきあわせることを非常に嫌ったからである。

 地下鉄の駅に着いたとき、彼女は急に立ち止った。セント・パンクラスに行くには二つの方法がある――バスでも行けるし、汽車でも行ける。彼女は汽車で行くことにした。しかし駅に入るまえに彼女の目は舗道に置いてある昼の新聞のちらしのあいだをさまよった。

 「復讐者」

の三文字がいろいろな活字で彼女をじろりと見あげていた。

 黒いショールをさらに少しだけ強く肩に巻き付け、ミセス・バンティングはちらしを見つめた。まわりの大勢の人々が新聞を買っていたけれど、彼女はそうする気になれなかった。今でも目が痛かったのだ。バンティングが持ってきた号外の、細かな活字を追うという、慣れないことをしたせいだった。

 ようやくゆっくりと彼女は地下鉄に入っていった。

 そこで驚くような幸運がミセス・バンティングを待っていた。

 彼女が乗り込んだ三等車はたまたまがら空きで、そこには警部が一人いるだけだった。電車が駅を離れてかなり時間が経ってから、彼女は勇気を奮い起こし、もうすぐ誰かに訊かなければならないことを彼にむかって質問した。

 「教えていただけませんか」と彼女は低い声で言った。「検死審問の場所はどこでしょう」――彼女は唇をしめらせてちょっとだけ言葉を切り、こうつづけた――「キングズ・クロスの近所でしょうか」

 男は振り返り、彼女を注意深く見た。彼女はただ面白がって審問に行くようなロンドン子には見えなかった。そんな連中は大勢いるのだけれど。彼はやもめだったので、彼女の黒いコートとスカートを見て好感を持った。彼女の白い、上品な顔を包む無地のプリンセス・ボンネットも気に入った。

 「わたしも検死法廷に行くんです」彼は愛想よく言った。「いっしょについていらっしゃい。ご存じでしょうが、今日は例の復讐者の検死審問がありましてね。だから、何て言うか、通常の事件に関してはいつもとちがうやり方をすると思います」彼女が黙って見つめているので彼はつづけた。「復讐者の検死審問は人で大混雑するんです。一般人はもちろん、切符を持っている人も大勢入りますから」

 「わたしが参りますのもその審問でございます」とミセス・バンティングはたどたどしく言った。彼女はまともに言葉を発することができなかった。これからしようとしていることが、どれだけけしからぬ、心得違いなことであるかということに気づき、猛烈な不快感と恥ずかしさを感じていたのである。立派な社会的地位のある女性が殺人の検死審問に出たがるなんて、考えただけでもとんでもない話だ!

 この数日間、彼女の感覚は心配と恐怖に鋭くとぎすまされていた。単に病的な好奇心からそうした審問に出たがる女を、彼女自身がどれほど軽蔑していたか、名も知らぬ相手の無感動な顔を覗きこみながら、彼女はそのことにふと思い当たった。しかし――しかし、それこそまさに彼女がしようとしていることにほかならない。

 「少々事情がございまして、出席したいと思っているのですが」と、彼女はつぶやいた。知らない人であってもこんなふうにちょっとだけ胸の内を打ち明けられるのはほっとすることだった。

 「そうでしたか」彼は考え込むように言った。「犠牲者のご亭主のどちらかとご縁があるのですか?」

 ミセス・バンティングは顔をうつむけた。

 「証言をなさるのですか」彼は何気なくそう訊くと、ミセス・バンティングのほうを振り返り、今までよりはるかに注意深く彼女を見た。

 「いいえ、とんでもない!」話し手の声は恐怖と戦慄に充ち満ちていた。

 警部は気の毒なような、いたわってやりたいような気持ちになった。「被害者の女性とは長いことお会いになっていらっしゃらなかったんでしょうね」

 「ぜんぜん、その、会っておりませんでした。わたしは田舎から来ましたので」どういうわけかミセス・バンティングはそう言わずにいられなかった。しかし彼女は急いで次のように訂正した。「ともかく昔は田舎におりましたので」

 「彼も来るんですか」

 彼女は茫然と相手を見た。誰のことを言っているのか、見当もつかなかった。

 「旦那さんのことですよ」と警部は早口につづけた。「いや、まったくお気の毒です――最後の犠牲者の旦那さんですが――たいへん気を落とされていたようでした。奥様はお酒を飲むようになるまでは、良妻賢母であられたそうですから」

 「ええ、そういうものでございますわね」とミセス・バンティングはささやいた。

 「まったくです」彼は言葉を切った。「検死法廷に知り合いはいらっしゃいますか」

 彼女は首を振った。

 「どうぞご心配なく。わたしがお連れいたしますよ。お一人ではなかに入れませんから」

 彼らは下車した。他人が何もかもやってくれるというのは何て気楽なことだろう。しかも警察の制服を着た、毅然とした男性に面倒を見てもらえるのだ!しかしそれでもミセス・バンティングはすべてが実体を伴わない、夢のような気がした。

 「この人がもしも――もしもわたしの知っていることを知ったなら!」彼女は何度も何度もそう思いながら、大きなたくましい警部の横を軽い足どりで歩いたのだった。

 「遠くはないですよ――三分もかかりません」と彼は唐突に言った。「わたしの歩き方は早すぎますか、奥さん?」

 「いいえ、ちっとも。わたしは歩くのが速いですから」

 急に角を曲ると男も女も押し合いへし合いしている大変な人だかりにぶつかった。彼らは高い壁から少し落ちくぼんだ、意地の悪そうな小さなドアを見つめていた。

 「腕につかまって」と警視は言った。「道をあけて!道をあけて!」彼はいかにも権威ありげにどなった。ぎっしり居並ぶ人々は彼の声を聞き、制服を見て道をあけた。彼は彼女を連れてそのあいだをさっさと抜けていった。

 「わたしに会えたのは幸運でしたね」と彼はにこやかに笑いながら言った。「お一人ではこうはいきませんでしたよ。それに連中は決して心優しい群衆ではありませんから」

 小さなドアがほんの少し開いた。なかに入ると、狭い板石敷きの小径があり、四角い中庭に通じている。数名の男がそこでタバコを吸っていた。

 ミセス・バンティングの親切な新しい友人は中庭のうしろの建物へ彼女を案内するまえに時計を取り出した。「はじまるまで二十分ありますね」と彼は言った。「あそこに死体置き場があります」――彼は親指で中庭の右端から突き出した天井の低い一室をさした。「なかをごらんになりますか」と彼は小声で言った。

 「まあ、とんでもない!」彼女は怖気だった声で叫んだ。彼は同情をこめて彼女を見下ろし、ますます尊敬の度合いを強めた。彼女は立派なすばらしい女性だ。不健全な、いとわしい好奇心からではなく、そうするのが彼女の義務と心得てここに来たのだ。おそらく復讐者の犠牲者の義理の姉ではないだろうか、と彼は思った。

 彼らは大きな部屋か広間のようなところを通り抜けた。そこはもう人で埋まっていて、みんなひそひそと、しかし熱心に、興奮したように話をしていた。

 「こちらにお座りなってください」彼は気遣うようにそう言って、水しっくいを塗った壁から突き出したベンチの一つに彼女を導いた。「もちろん証人たちといっしょにいたければ別ですが」

 しかし彼女はまたもや「まあ、とんでもない!」と言った。それからやっとの思いでこう付け加えた。「混雑しそうですので、先に法廷に入ってはいけないでしょうか」

 「ご心配なく」と彼は優しく言った。「ちゃんと座れるように手配します。ちょっとだけ失礼しますよ。すぐ戻ってきてご一緒しますから」

 彼女はあの薄気味悪い、狼のような外の群集を通り抜けるとき、顔の上におろしていた厚いベールを持ちあげ、あたりを見まわした。

 まわりに立っている紳士は、ほとんどがシルクハットに上等な外套といういでたちだったが、彼女はその多くの顔に何となく見おぼえがあった。すぐに一人の男に眼がとまった。彼は有名なジャーナリストで、その鋭い生き生きした顔は洗髪剤の広告で広く宣伝されていたのだ。今よりもっと幸せで裕福だったころ、バンティングがその効能を信じて愛用していた洗髪剤で、彼はすばらしい効き目があるんだといつも言っていた。この紳士が熱のこもった会話の中心で、六人ほどの人が彼に話しかけ、彼が話すときは敬意をこめてその言葉に耳を傾けていた。その誰もがみな有名人であることにミセス・バンティングは気がついた。

 何て不思議な、驚くべきことだろう。眼に見えない、一人の謎の男がこうした人間たちをロンドンじゅうから呼び寄せたのだ。きっと大切な仕事があるだろうに、この底冷えのする陰鬱な日に、こんなむさ苦しい場所に呼び寄せたのだ。ここで彼らは全員がただ一人の、誰も知らない謎めいた男のことを考え、話し、描き出そうとしている。つまりみずからを復讐者と呼ぶ、影のような、それでいて恐ろしく現実的な人間のことを。そして彼らのいるところからさほど遠くない場所にいるはずなのに、復讐者はこの才知に富み、教養ゆたかな精神たちを――そしてもちろんその肉体をも――決してそばには近づけさせないのだ。

 ひっそりとそこに座るミセス・バンティングでさえ、彼らに混じってこんなところに自分がいるとは何と皮肉なことだろうと思った。

第十九章

 警察の友人が戻ってきたとき、ミセス・バンティングはずいぶん長いことそこに座っていたような気がした。実際は十五分程度であったのだけれど。

 「さあ、行きましょう」と彼はささやいた。「もうすぐはじまります」

 彼女は彼について廊下に出、急な石の階段をのぼり、検死法廷に入っていった。

 法廷は大きな明るい部屋で、どことなく礼拝堂に似ていた。ギャラリーのようなものがぐるっと半円を描くようにもうけられていたのでなおさらその印象が強かった。これはどうやら一般大衆用の傍聴席であるらしい。というのは、すでにそこは収容可能な人数ぎりぎりまで人が詰まっていたからである。

 ミセス・バンティングはびっしりとひしめき合う顔、顔、顔のほうにおどおどした視線をむけた。今彼女を案内している男に出会うという幸運がなければ、彼女はあそこに行かなければならなかったのだ。もちろん彼女などはじき出されていただろう。あの人たちはドアが開いたとたんに彼女にはとてもできないような押し合いと突き飛ばし合いを演じながら中に殺到してきたのだ。

 そこには女性の姿もちらほらと見えた。一歩だって引くことを知らない、意志の強そうな女たちだ。その階級もさまざまのようだが、いずれも大事件の興奮に惹かれ、行きたいと思ったところにがむしゃらに突き進むその胆力に物を言わせてその場に割り込んできたのである。しかし何と言っても女性は少数派で、そこに立っている大多数は男性だった。やはりロンドンのいろいろな階級から集まってきているようだった。

 法廷の中心はアリーナのようになっていた。まわりの傍聴席より二段か三段低くなっていたのである。陪審団の男たちがベンチに座っているだけで、今はまだ比較的人がいない状態だった。これらの男たちから少し離れたところに、信者席のようなものがあり、そこに七名の人間が寄り集まっていた。三人は女性で四人は男性だった。

 「証人たちが見えるでしょう?」とそれらの人々を指さしながら警視がささやいた。彼は彼女がそのうちの一人と顔なじみだと思ったのだが、しかしそうだったとしても彼女は何の反応も示さなかった。

 窓と窓のあいだに部屋全体とむかい合う形で小さなひな壇のようなものが設けてあった。その上には机と肘掛け椅子が置いてある。ミセス・バンティングが正しく推測したようにここが検死官の座る場所だった。台の左側には証人席があり、ここも陪審団より一段と高くなっている。

 その様子ははるか昔の明るい四月に村の宿屋で行われた死因審問とは驚くほどちがうし、あれよりもはるかに厳格で畏怖の念を起こさせた。あのときの検死官は陪審団と同じ高さのところに座り、証人たちはただ一人一人進み出て、検死官のまえに立っただけだった。

 恐る恐るまわりを見ながら、ミセス・バンティングはあの箱みたいな変な台に立たされたりしたら、自分はきっと死んでしまうと思い、ベンチに座る七人の証人に心の底から同情する視線を送った。

 しかし彼女でさえ同情などまったくお門違いであることにじきに気がついた。証人のどの女もやる気満々、興奮して生き生きしていた。一般大衆の耳目を集め嬉しくてたまらないのである。彼らはこの胸躍るドラマに出演する女優、地味かもしれないが重要な女優であって、誰もがその役を楽しんでいることは明らかだった。しかもこのドラマは今やロンドンじゅう、いや、世界じゅうの注目を集めているといってもいい。

 彼らを見ながら、ミセス・バンティングは、どの女がどの女なのだろうとぼんやり考えた。少々薄汚い格好をしたあの若い女だろうか、二重殺人の直後、十秒も経たないときに、確かに、いや、ほとんどまちがいなく復讐者の姿を見たと言うのは。犠牲者の一人が恐怖の悲鳴をあげ、それに目を覚まされて、窓辺に駆け寄ったところ、殺人者の影が霧のなかをすばやく歩き去るのを見たと言うのは。

 もう一人いたはずだ、とミセス・バンティングは思い出した。復讐者がどんな外見をしていたか、詳細に語っていた女が。復讐者と彼女がすれちがうとき、実際に袖が触れ合ったらしい。

 今眼のまえにいるこの二人の女は警察だけではなく、ロンドンのあらゆる新聞記者から何度も何度も質問を受けた。そして彼ら二人の証言をもとにして――もっとも不運なことに二人の証言は大きく食い違っているのだが――復讐者の人相書きが作られたのだった。それによると犯人は立派ななりをした二十八歳くらいのハンサムな若者で、新聞の包みを持っていたという。

 三人目の女は、きっと死んだ女の知人か親友なのだろう。

 ミセス・バンティングは証人たちから眼をそらし、別の見慣れない光景に視線を合わせた。とりわけ注意を引いたのがインクの染みたテーブルで、これは仕切りによって囲われた部分の端から端まで、つまり検死官の小高いひな壇から木の仕切りの出入り口までのびていた。彼女が入ってきたときは三人の男が忙しそうにスケッチをして座っていたのだが、今はどの席にも疲れた、頭の良さそうな男たちが腰掛けている。彼らはおのおのノートというか、綴じていない紙を何枚かまえに置いていた。

 「あれは新聞記者ですよ」と彼女の友だちはささやいた。「ぎりぎりまで入ってこようとしないんです。出ていくのはいちばん最後になりますから。普通の検死審問では二人か、せいぜい三人しか来ないんですが、でも今は新聞記者席のパスを申請しない新聞社は王国内に一つもないといっていいでしょう」

 彼は考えるように法廷の奥を見つめた。「さて、いいように取りはからってきます」

 彼は検死官補佐を手招きした。「こちらの女性をあそこの隅にお一人だけで座れるようにしてもらえませんか。お亡くなりになった方のご親戚なんですが、ただ――」彼が一言二言小声で言うと相手は同情したように頷き、ミセス・バンティングを好奇の眼で眺めた。「こちらにおいでいただきましょうか」と彼は言った。「あそこには今日は誰も来ないんです。証人が七名しかいませんしね――もっとたくさんいるときもあるんですけど」

 彼は優しく彼女を誰もいないベンチに座らせてくれた。そのむかい側には七人の証人が立ったり座ったりしていた。やる気満々の気負った表情で、いつでも自分の役を演じる準備があるような――いや準備どころかそれ以上の意気込みに燃えているような様子だった。

 一瞬、法廷じゅうの眼がミセス・バンティングに集中した。しかし彼女をじろじろと熱心に見つめていた人々もすぐに彼女が事件と何の関係もないことに気づいた。どうやらただの観客らしい。ただほとんどの人とちがって幸運にも法廷に知り合いがいたのだ。だから群集のなかに立ち混じることなく椅子に座って楽にすることができたのだ。

 しかし彼女は長いこと一人ぽつねんとそこに座っていたわけではない。下で見かけた偉そうな紳士たちがすぐに法廷に入ってきて、彼女の席のほうへ案内されてきた。そのうち二人か三人は新聞記者席へと招じ入れられた。ミセス・バンティングが親友みたいにその顔をよく知っている、例の有名な新聞記者もそこには含まれていた。

 「検死官の入場です」

 陪審団はどやどやと立ちあがり、また座った。聴衆は急にしんと静まりかえった。

 そのあとつづいて起こったことは、遠い昔、田舎で行われた形式ばらないささやかな検死審問を、はじめてミセス・バンティングに思い出させた。

 まず「オウイェズ!オウイェズ!」という声が聞こえてきた。死の原因――突然の、不可解な、恐るべき死の原因――を厳密に調べることが仕事である人々への、古いノルマン・フレンチの呼びかけである。

 陪審団は全部で十四人だったが、全員がまた立ちあがった。彼らは手を挙げ、奇妙な誓いの文句をおごそかに一斉に繰り返した。

 検死官と補佐のあいだでくだけた会話がすばやくかわされた。

 ええ、準備のほうはとどこおりなく。陪審団は死体を二体とも――と言いかけて彼は急いで訂正した――死体を見ております。この検死審問の対象となるのは厳密に言えば一体の死体のみだったのである。

 かすかな衣擦れの音すら法廷じゅうに聞こえそうな完璧な静寂のなか、検死官は――賢そうな顔付の紳士だったが、このように重要な日に、このように重要な役目を果すにはいささか年若いような気がミセス・バンティングにはした――恐ろしい、謎めいた復讐者のいわば犯罪歴を簡単に振り返った。

 彼は非常に明快な話し方をし、それが次第に熱を帯びていった。

 彼は以前、復讐者の犠牲となった一人の人間の検死審問に出たことがあると言った。「専門家としての興味から行ったにすぎないのですが」と彼は余談としてそんなことを言った。「まさかわたし自身が、不運な人々の一人の審問を担当することになろうとは思ってもいませんでした」

 彼は延々と話しつづけた。もっとも本当のことを言えば、彼に言いたいことなどほとんどなかったのである。しかも彼が言うべき少しのことは、聴衆の誰もが知っていることだった。

 ミセス・バンティングはそばに座る年老いた紳士が別の紳士にこうささやくのを聞いた。「できるだけ引き延ばそうっていうんだな。あいつめ。いかにも楽しんでいるといった感じだな!」すると相手がささやき返した。「そう、そう。しかしあいつはいいやつだよ――父親を知っているんだ。学校でいっしょだった。えらく仕事熱心な男でね。とにかく今日も一生懸命やっているよ」

******

 彼女は一心に耳をすませた。隠された恐怖から彼女を開放してくれる単語や文が発せられるのを、あるいは逆にそれらを裏付ける単語や文が発せられるのを、今か今かと待ちながら。しかしそんな単語や文は一度も飛び出してこなかった。

 それでも検死官はその長い演説のしめくくりに何か意味のありそうなことを――あるいは何の意味もないことを――言ったのだった。

 「本日この場において得られた証言が、この恐るべき犯罪を犯し、今なお犯しつつある無法者の逮捕へと将来つながるのではないか、われわれがそういう希望を持っていることをここに申しあげておきたいと思います」

 ミセス・バンティングは不安そうに検死官の決意を秘めた、毅然たる顔を覗きこんだ。今のはどういう意味だろう。何か新しい証拠があるのだろうか――たとえばジョー・チャンドラーが知らないような証拠が。心のなかでそう問いかけたとたん、彼女の心臓はいきなり飛びはねた。大きなたくましい男が証人席についていた――ほかの証人たちとはいっしょにいなかった警察官だ。

 しかし彼女の不安と恐怖はすぐに鎮められた。この証人は最初の死体を発見した警官にすぎなかったのだ。早口なてきぱきした話しぶりで、彼は十日まえの寒い、霧の夜の出来事を正確に説明した。地図を見せられ、ゆっくりと考えながらその太い指で印をつけた。ちょうどこの位置であります――いや、まちがえました――ここは別の死体が横たわっていた場所であります。二つの死体が――ジョハンナ・コベットとソフィー・ハートルの死体が――頭のなかでごっちゃになっておりましてと、彼は申し訳なさそうに釈明した。

 そのとき検死官が威厳たっぷりに口をはさんだ。「この検死審問の目的のためには」と彼は言った。「しばらく二つの殺人をまとめて考えなければならないと思います」

 そのあと証人は緊張感が取れたように話しつづけた。早口な一本調子の説明を聞くうちに、復讐者の犯行の圧倒的な恐ろしさがミセス・バンティングをとらえた。血も凍るような怖れと――そう、深い後悔の念が津波のように彼女をとらえたのだ。

 それまで復讐者に殺された酔っぱらいの犠牲者のことなど、考えたこともなかった。考えたとしても脳裏をかすめる程度でしかなかった。彼女の頭は復讐者のことでいっぱいだったのだ――復讐者と彼を追いかけようとしている人々のことで。だけど今はどうだろう。彼女は今日、ここに来たことを激しく後悔していた。警官の言葉がありありと喚起した情景を、はたして心のなかから――記憶のなかから、消すことができるだろうかと、彼女は思った。

 そのとき興奮と興味のどよめきが法廷じゅうから湧き起こった。警官が証人席から降り、かわりに女性の証人の一人がそこへ導かれていったのだ。

 ミセス・バンティングは興味と同情を感じながらその女を見た。そう言えばわたしも恐ろしさにがたがたと震えたものだ、あの哀れな、みすぼらしい、平凡な見かけの女が今そうしているように。女は一分まえまではずいぶん陽気で、ずいぶん嬉しそうにしていたのだが、しかし今や顔色は青ざめ、狩りたてられたけもののようにあたりを見まわしていた。

 しかし検死官はとても優しかった。その物腰は証人を安心させる穏やかなもので、水死した娘の検死審問でエレン・グリーンを優しく扱ってくれたあの検死官とちょうどそっくりだった。

 証人が単調な声で厳かな誓いの言葉を繰り返したあと、彼女は順々に目撃談を語らされていった。ミセス・バンティングはすぐに彼女が寝室の窓から復讐者を見たと言う女であることを知った。話が進むにつれて自信を得たのか、証人は押し殺された悲鳴が長く尾を引くように響き、深い眠りから起こされ、本能的にベッドから飛び起きて、窓に駆け寄ったことを話した。

 検死官は机の上に置いてある何かを見下ろした。「さて、ここに地図があります。あなたの下宿先は二つの犯罪が起きた路地のちょうど真向かいにあるんですね」

 そこで簡単な、意味のないやり取りがかわされた。家じたいは路地のほうをむいていないのだが、証人の寝室の窓は路地を見下ろしていたのである。

 「重要なちがいはありませんね」と検死官はいらだたしそうに言った。「では窓を覗いたとき何が見えたか、簡潔に分かりやすくおっしゃってください」

 人で混み合う法廷に完全な静寂が訪れた。女がそれまでよりももっと冗舌に、確信に満ちた声で話しはじめた。「わたし、あいつを見たんです!」と彼女は叫んだ。「二度と忘れないわ――死ぬまで忘れるもんですか!」そう言って彼女は挑戦するようにまわりを見た。

 ミセス・バンティングはこの女の一階下の住人を取材した新聞記事をふと思い出した。その人は意地悪っぽくこう言ったのだった。リジー・コールはあの晩、ベッドから起き出したりはしなかった、彼女の話はみんなでっち上げだ、と。自分は眠りが浅いのだ、と取材された女は言った。あの晩は病気の子供を看病していた。だからリジー・コールが言うような悲鳴があったり、リジー・コールがベッドから跳ね起きる音がしたら、きっとそれを耳にしていたはずだ。

 「その点はよく分かっているのですよ、あなたが」――検死官は躊躇した――「この恐るべき犯罪を行った人間を見たと考えていることは。しかしあなたからお聞きしたいのは、その人の人相です。誰もが霧が出ていたことを認めていますが、あなたは彼が窓下を歩くのをはっきり見たとおっしゃる。ですので、彼がどんな様子をしていたか、どうかそのことを話してください」

 女は手にした色つきのハンカチの隅をねじったり、元に戻したりしはじめた。

 「はじめからお聞きしましょう」と検死官は忍耐強く言った。「その男は路地から急ぎ足で出てきたとき、どんな帽子をかぶっていましたか」

 「ただの黒い帽子でしたよ」と証人はようやくしゃがれた、やや動揺した声を出した。

 「なるほど――ただの黒い帽子。ではコートはどうです。男が着ているコートはどんなものか分かりましたか」

 「コートは着てなかったんです」と彼女はきっぱりと言った。「コート無しですよ!それははっきりおぼえてる。だってすごく寒かったんですから。あんな天気でコートを着ない人なんていませんよ」

 陪審員の一人は新聞の切り抜きを読んでいて、証人の発言にはいっこう耳を傾けていないようだったが、そのときばかりは飛び上がって手を挙げた。

 「何でしょうか」検死官は彼のほうを振り向いた。

 「ちょっと申しあげたいんですが、こちらの証人――リジー・コールさんとおっしゃるのならですね、彼女は最初、復讐者はコートを着ていたと言っているんですよ。大きな厚手のコートを着ていたって。ここに書いてあります、この新聞に」

 「あたし、そんなこと言わなかった!」と女はかんかんになって言った。「イヴニング・サンの若い記者が来て、そういうことをわたしに言わせたのよ。そいつは自分の好きなことを新聞に載せたんだわ――あたしは一言もそんなこと言っちゃいないのに!」

 これに対して失笑がもれたが、すばやく静められた。

 「これからは」と検死官はもう着席しているさきほどの陪審員にむかってきびしい調子で言った。「お尋ねになりたいことがあるときは、陪審長を通して訊くように。それからわたしの取り調べが終わるまで待ってください」

 しかしこの中断――この非難は、証人をすっかり動転させてしまった。彼女はどうにもならないほど矛盾したことを言いはじめた。窓の下の薄暗がりを急ぎ足で通り過ぎた男は背が高かった――いいえ、低かったわ。やせていて――ちがう、太りぎみの若者だった。彼が何かを手に持っていたかという点になると、実に激しい議論が繰り広げられた。

 証人は断定的に、自信たっぷりに、新聞紙の包みを脇に抱えていたと言った。うしろ姿を見たときも、それは脇からはみ出して見えた――そう彼女は言い切った。しかしロンドン警視庁の捜査官にはじめて目撃証言をしたとき、彼女はそんなことを一言も言っていなかった。そのことはごく穏やかに、しかしきっぱりと証明された。実のところ彼女は、男は手ぶらだった、何も持っていなかった、と断言していたのだ。両腕を前後に振っているのが見えたとも言っていた。

 検死官は一つの事実――それが事実と呼べるならの話だが――を引き出した。リジー・コールは、男が窓の下を通るとき、顔をあげて彼女を見た、とみずからすすんで証言したのである。それはまったく新しい証言だった。

 「あなたを見あげたのですか」と検死官は繰り返した。「取り調べを受けたとき、そんなことは何もおっしゃっていなかったが」

 「こわかったから、何も言えなかったのよ。死にそうなくらいこわかったから!」

 「あの晩は暗くて霧が出ていたことは知っていますが、本当に顔を見たというのなら、どんな人相だったか教えてもらえませんか」

 しかし検死官の声は熱意を失い、手は机の上をさまよっていた。今や法廷にいる人間は誰ひとり女の話を信じていなかった。

 「浅黒かった!」彼女は芝居がかった声で答えた。「浅黒くて、黒人みたいだった!分かるかしら、黒んぼうみたいな感じ」

 クスクスという笑い声が聞こえてきた。陪審団さえにやりと笑った。検死官は鋭くリジー・コールに証人席を降りるよう言った。

 次の証人ははるかに信憑性のある証言をした。

 さきほどの証人よりも年のいった、おとなしそうな女性で、慎み深く黒い服を身につけていた。彼女の夫は犯罪のあった路地、あるいは抜け道から百ヤードほど離れたところにある大きな倉庫の夜警をしていた。そのため夫がいつも午前一時に食べる夜食を届けに彼女は外出したのだった。すると男が荒く息をはずませながら急ぎ足で彼女のそばを通りすぎた。彼に注意をむけたのは、その時間に人に会うことがめったになかったからで、また男の表情と振る舞いが奇妙で異様だったからである。

 じっと聞き入っていたミセス・バンティングは、警察が出した復讐者の人相書き――彼女、エレン・バンティングをほっと安堵させたあの人相書き――は主にこの証人の言ったことをもとに作られたのだと思った。

 証人は静かに、自信を持って話をし、男が持っていた新聞の包みに関しては非の打ち所がないくらい明快で確かな証言をした。

 「ひもで小さくくくられた包みでございました」と彼女は言った。

 立派ななりをした若者がそんな包みをかかえているというのが、彼女にはちぐはぐに感じられた――だからこそ包みに目が行ったのである。しかし重ねて尋ねられると、あの晩はひどく霧が深かったこと――通りなれた道だったが、迷子になりそうなくらい霧が濃かったことを認めた。

 三人目の女が証人席に立ち、ため息をついたり涙を流したりして、亡くなった被害者の一人、ジョハンナ・コベットと交友があったことを語ると、同情のざわめきが起こった。しかし故人となった「アニー」は酒さえ飲まなければ、優しい上品な女になっていただろうとしぶしぶ認めたことをのぞいて、捜査に新たな光を投げかけるようなことは何も言わなかった。

 彼女への尋問はできるかぎり簡略化された。その次の証人、ジョハンナ・コベットの夫に対する尋問もそうだった。彼はきわめて堂々とした恰幅のいい男で、クロイドンにある大きな会社の作業長をしていた。彼は自分の社会的地位に強いこだわりがあるようだった。妻とは二年間会っていません。半年ほど消息を聞いていませんでした。酒を飲むようになるまえは、すばらしい妻で――ええ、すばらしい母でもありました。

 心ある人、想像力のある人は、そのあと、またもや胸の苦しくなるような数分間を過ごさなければならなかった。殺された女の父親が証言台に立ったのである。彼は夫よりも娘の最近の様子を知っていたが、しかしもちろん娘の殺害、あるいは殺害者について新しい情報を与えることはできなかった。

 店じまいの直前に二人の女に酒をついだバーテンはかなり手荒い扱いを受けた。彼はさっそうと証言台に立ったのだが、引きさがるときは下をむいておろおろしていた。

 このあとまさかと思うような実に劇的な出来事が起きた。それは新聞各紙が夕刊に派手に書き立て、ミセス・バンティングを憤慨させた出来事だった。しかし検死官も陪審員もそれにさしたる重要性を認めなかった――結局のところ、彼らがどう考えるかが肝腎なのである。

 審問の進行が一時とどこおっていた。七名の証人全員の聴取が終り、ミセス・バンティングの近くにいた紳士がこうささやいた。「次はドクタ・ゴーントが呼ばれる。この三十年ほど、大きな殺人事件には必ず喚問されているんだ。何か面白いことを話してくれると思うよ。わたしは彼の話を聞きに来たようなものなんだから」

 しかし検死官のそばに腰かけていたドクタ・ゴーントが立ちあがるよりも早く、一般の観衆のあいだから、より正確には、傍聴席と法廷をへだてる低い木の入り口近くに立っていた観衆たちのあいだから、ざわめきが起こった。

 検死官補佐が申し訳なさそうに検死官に近づき、封筒を手渡した。ふたたび法廷に完全な静寂が訪れた。

 ややとまどったような表情で検死官は封筒を開けた。そこに入っていたメモ用紙を見つめ、それから顔をあげた。

 「ミスタ――」彼はもう一度視線を落とした。「ミスタ、ええ、ミスタ、これはキャノットでしょうか」彼は心もとなさそうに言った。「どうかまえのほうへ」

 観衆のあいだから忍び笑いがもれ、検死官は顔をしかめた。

 立派な毛裏の外套を身につけ、生き生きしたピンク色の顔に頬髭を生やし、こざっぱりした、しゃれた恰好の老紳士が、一般の観衆に混じって立っていたその場から証人席へと案内されてきた。

 「これはいささか異例の取り計らいです、ミスタ、ええ、キャノット」と検死官はきびしく言った。「このようなメモは審問がはじまるまえにわたしに送っていただかねばなりません。こちらの紳士は」と彼は陪審団にむかって言った。「われわれの捜査に関連してきわめて重大な情報をお持ちとのことです」

 「わたしが黙っていたのは――知っていることを胸に秘めたままにしていたのは」――ミスタ・キャノットは震える声でそう話しはじめた。「新聞が怖くてたまらなかったからです!わたしが何か言ったら、たとえ警察に対してしゃべったとしても、わたしの家は記者とか新聞社の人間に取り囲まれるでしょう‥‥わたしには病弱な妻がいます、検死官殿。そんなことが起きたら――わたしが怖れているようなことが起きたら――妻は死んでしまうかもしれません。この審問の記事だって読ませたくはないのです。さいわい妻には優秀な看護婦がついていて――」

 「宣誓をしてください」と検死官が鋭く言った。彼はもうこのくだらない人物に発言の機会を与えたことを後悔していた。

 ミスタ・キャノットはそれまでのほとんどの証人たちとちがい、威儀を正して重々しく宣誓した。

 「陪審団に申しあげます」と彼は話しはじめた。

 「おやめください」と検死官がさえぎった。「よろしいですか。わたしの言うことをよく聞いてください。あなたはこの手紙にこう書いている。例の――例の――」

 「復讐者ですね」とミスタ・キャノットはとっさに口をはさんだ。

 「この犯罪を犯した者を知っている、と。さらに今われわれが調べている殺人が行われた晩に、あなたは彼に会ったと言明していらっしゃる」

 「その通りです」とミスタ・キャノットは自信たっぷりに言った。「わたし自身は健康そのものでありますが」――彼は今や面白そうに聞き入る法廷に笑顔をむけた――「わたしのまわりにいるのは病気の人ばかり、友だちも病気に苦しんでいる人ばかりです。それがわたしの運命なのでしょう。ご面倒でもわたしの個人的な事情について説明を聞いていただかなければなりません、検死官殿。夜中の一時などという突拍子もない時間にたまたま外出していた事情をご理解いただくために――」

 またもやクスクスという笑い声が法廷のなかを駆け巡った。陪審団でさえ、満面に笑みを浮かべた。

 「そうなのです」と証人はおごそかにつづけた。「わたしは病気の友だちといっしょでした。実は彼は死を目前にしていて、そのあと亡くなってしまいました。わたしが住んでいるところを申しあげるわけにはいきませんが、検死官殿がお手にしていらっしゃる紙には書いておきました。住所を明らかにする必要はありませんが、しかしわたしが家に帰るとき、リージェント・パークの一角を通らなければならないことはお分かりになるでしょう。そこで――正確に言うとプリンシズ・テラスの真ん中あたりですが――非常に奇妙な風体の人に呼び止められ、話しかけられたのです」

 ミセス・バンティングははっと胸を押さえた。激しい恐怖感が彼女をとらえた。

 「気絶なんかしちゃだめよ」彼女は急いで自分にそう言い聞かせた。「気絶なんかしちゃだめ!いったいどうしたのかしら」彼女はかぎ薬を取り出し、たっぷり長々と息を吸い込んだ。

 「彼は近づきにくい感じの、やせた男でした、検死官殿。そして何とも奇妙な表情を浮かべていました。彼は教育のある男――分かりやすく言えば、紳士であると思います。特に注意をひかれましたのは、彼が独り言を言っていたことであります。それも詩を暗唱しているようでした。わたしは復讐者のことなどまったく頭にありませんでした。これっぽっちも考えていませんでした。正直に言いますが、わたしはこの紳士は施設を抜け出してきた精神病患者じゃなかろうか、と思いました。付き添い人のもとから逃げ出してきたんじゃなかろうか、と。申しあげるまでもありませんが、リージェント・パークはたいへん静かな、心休まる場所ですから――」

 そのとき一般の傍聴人の一人が大声でゲラゲラ笑い出した。

 「お願いします、検死官殿」と年老いた紳士は急に大声を出した。「この見苦しい不真面目な振る舞いからわたしをお守りください!わたしは市民としての義務を果すという、その目的のためにのみ、ここに来たのです」

 「事件に関係のあることだけをお話しください」と検死官は冷淡に言った。「時間が経っていますし、ほかにもう一人重要な証人――お医者さんの証人を呼ばなければなりません。できるだけ手短に理由を説明してください、なぜその男が――」審問がはじまってからはじめて彼は我を折ってこの言葉を使った。「復讐者だと思ったのですか」

 「その話をするところだったんですよ!」とミスタ・キャノットは慌てたように言った。「今その話しをします!もうちょっとだけご辛抱ください、検死官殿。あれは霧の深い夜でしたが、そのときはまだ大したことはなかったのです。わたしたちが――わたしと大きな声で独り言を言っていた男が――すれ違ったとき、彼はむこうに行くかわりに立ち止って、わたしのほうにむかってきたのです。わたしは妙に不安な気持ちになりました。興奮したような、取り乱したような顔をしてましたから。わたしはできるだけ気持ちを落ち着かせるようにしゃべりかけました。『ずいぶんと霧が深い夜ですね』と。すると彼は『そう――そうですね。霧の深い夜です。仄暗く、有益な行いをするにはぴったりの夜です』まったく妙な言い方じゃありませんか、検死官殿――『仄暗く、有益な行い』だなんて」彼は期待に満ちた眼で検死官を見た。

 「それで?それでどうだというのですか、ミスタ・キャノット。それで終りですか。その人物が――たとえばキングズ・クロスにむかったのを見たのですか」

 「いいえ」とミスタ・キャノットはしぶしぶ頭を振った。「いいえ。正直に申しあげますが、見ませんでした。しばらく肩を並べて歩いたのですが、彼は道路を横切り霧のなかに消えてしまいました」

 「それでけっこうです」と検死官は言った。彼の口調はそれまでよりも優しいものになっていた。「お礼を申し上げます、ミスタ・キャノット。あなたが大切だとお考えになった情報のためにわざわざお出でいただきまして」

 ミスタ・キャノットは滑稽な、時代がかったお辞儀をした。またもや観客のなかの数名がへらへらと笑った。

 証人席を降りるとき、彼は振り返って検死官を見、唇を動かした。あたりはひそひそと話し合う声でざわめいていたが、少なくともミセス・バンティングははっきりと彼が言ったことを聞いた。

 「一つ言い忘れました、検死官殿。重要なことかもしれません。その男は鞄を持っていたんです――どちらかというと薄い色の革鞄で、左手に持っていました。柄の長いナイフとかが入りそうな鞄ですよ」

 ミセス・バンティングは記者席を見た。彼女はミスタ・スルースの鞄が消えたとバンティングに話したことを急に思い出した。そのとき強い感謝の気持ちが胸のなかに湧き起こった。インクの染みた長テーブルにむかう記者は誰一人ミスタ・キャノットの最後の言葉を書き留めていなかった。実は誰もその発言を聞いていなかったのだ。

 この最後の証人はまたもや手を挙げ人々の注目を集めた。法廷はふたたび静まりかえった。

 「もう一言」彼は震える声で言った。「審問が終るまで座っていてもいいでしょうか。証人席に余裕があるようですね」彼は許可されるのを待たずにすばやくそちらのほうに行き、ベンチに座った。

 ミセス・バンティングは驚いて顔をあげた。友だちの警視が彼女のほうに身体を屈めていた。

 「よろしかったらいっしょに出ませんか」彼は急いで言った。「医学的な証言なんてお聞きになりたくないでしょう?いつもそうなんですが、女性にとっては聞くに堪えない内容ですからね。それに審問が終ると人々がどっと出口に殺到します。今なら静かに出ていくことができますよ」

 彼女は立ちあがり、青ざめた顔にベールを降ろし、おとなしく彼に従った。

 彼らは石の階段を降り、下の大きな、今は誰もいない部屋を通り抜けた。

 「裏口から出ましょう」と彼は言った。「お疲れでしょうね。家に帰ってお茶を一杯お飲みになりたいんじゃないですか」

 「何てお礼を申しあげたらよろしいのやら!」彼女の眼には涙が浮んでいた。興奮と感激で身体が震えていた。「本当にご親切に」

 「いやいや、とんでもない」彼は少しきまり悪そうに言った。「さぞかしつらかったでしょうなあ」

 「あの老紳士はまた呼ばれるんでしょうか」彼女は小さな声で言った。相手を見あげる眼には訴えるような、苦しんでいるような色が浮んでいた。

 「とんでもありませんよ!あんな変人の爺さんなんか!われわれはあの手の連中に悩まされているんです。しかもあの手合いは得てして妙な名前の持ち主なんですよ。あいつらはシティとかでせっせと仕事をし、六十になって引退すると、あとはもう退屈で首をつりたいくらいなんです。ロンドンにはあんなおかしな連中が何百人といますよ。夜中に外を歩けば必ずあんなやつらに出くわすんですから。それこそうじゃうじゃいます!」

 「では、あの方の証言には何の価値もないとお考えですか」彼女は思いきって訊いてみた。

 「あの老人の証言ですか。ご冗談を!」彼は気さくに笑った。「わたしの考えを教えてさしあげましょう。殺人が起きてから時間が経過しているという点を除けば、わたしは二人目の証人は確かにあの奸智にたけた悪魔を見たと思いますね――」彼は声をひそめた。「しかしドクタ・ゴーントは断言しています――彼のほかにも二人のお医者さんがそう言っているんですが――あの犠牲者たちは発見された時間より何時間もまえに殺されたんだそうです。医者というのはいつでも自分たちの証拠事実は絶対正しいと言いますからね。そう言わなければならないんですよ――さもなきゃ、誰が彼らを信じます?時間があれば、ある事件のお話をするんだがなあ――それはドクタ・ゴーントのせいで殺人者にみすみす逃げられた事件なんですよ。わたしたちはその男がやったと確信していたんです。でも犯人のやつ、ドクタ・ゴーントが鑑定した被害者の死亡時刻には別の場所にいたって、アリバイを証明しやがったんです」

第二十章

 審問は定刻にはじまったから今からでも遅くはないのだが、ミセス・バンティングはどんなに強制されてもイーリングに行く気力はないと思った。すっかりくたびれはて、何も考えることができないくらいだった。

 老いさらばえた老女のようにゆっくりゆっくり歩きながら、彼女は力なく家のほうにむかって歩き出した。どういうわけか、汽車に乗るより外の空気を吸っていたほうが気分がよくなるような気がした。それにそのほうが医者とのやりとりをでっちあげなければならない瞬間を――彼女が怖れ、いとわしく思う瞬間を――先延ばしすることができる。

 バンティングは彼の階級に属するたいていの男や女がそうであるように他人の病状にむやみやたらと興味を持つ。自分が並はずれて健康に恵まれているからなおさら興味があるらしい。エレンが何もかも、つまり医者が何を言ったか、その一言一句にいたるまですべてを教えなかったら気を悪くするにちがいない。

 足早に歩いていると、どの曲がり角でも、どの酒屋のまえでも、熱心な新聞売り子が同じように熱心な買い手たちに午後の最新版の新聞を売りつけているようだった。「復讐者の検死審問」と彼らは大得意の面持ちで叫んだ。「最新の証拠が全部載ってます!」あるところでは内容を書いたちらしが舗道の上に一列に並べられ、重しがわりの石が置かれていた。彼女は立ち止ってそれらを見た。「復讐者の検死審問はじまる。はたしてその正体は。詳細記事」また別のちらしには皮肉な問いかけが読まれた。「復讐者の検死審問。この男をご存じ?」

 そのふざけた質問が大きな活字で彼女を見上げたとき、ミセス・バンティングは気分が悪くなった。あまりにも気分が悪くなってめまいがしたものだから、彼女は生れてから一度もしたことのないことをした。酒場に入って、二ペンスをカウンターに置き、冷たい水を頼んでそれを受け取ったのである。

 ガス灯に照らされた通りを歩いているとき、彼女の頭にひっきりなしに浮んできたのは――見てきたばかりの審問のことではなく、復讐者のことですらなく、その被害者のことばかりだった。

 彼女は死体置き場に横たわる二つの冷たい死体を思い描いてぶるっと身体を震わせた。三つ目の死体も見えるような気がした。それは冷たいけれども、ほかの二体と比べればまだ温かい。昨日の今くらいの時間には、復讐者の最後の犠牲者はまだ生きていたのだ。かわいそうに。生きていて、しかも、とりわけ陽気で明るかったのだそうだ。彼女の友だちがさっそく取材に来た新聞にそう語っていた。

 これまでミセス・バンティングは復讐者に殺された人々の姿をどんな意味でも思い浮かべたことはなかった。しかし今や犠牲者の姿が彼女の脳裏を去らなかった。この新しい戦慄が昼も夜も彼女を包む恐ろしい不安に付け加わるのだろうか。彼女は悄然としてそう考えた。

 家が見えてくると、彼女の気持ちは急に軽くなった。狭くて、くすんだ色の小さな家――両側には同じつくりの家が建っているが、ただしどちらの家の庭もあまり手入れが行き届いていない――この家ならきっとどんな秘密だってもらすことはないだろう。

 復讐者に殺された人々は少なくともしばらくのあいだ彼女の心のなかからしりぞいた。もう彼らのことを考えることはなかった。彼女の意識はバンティング――バンティングとミスタ・スルースのことに集中した。自分が留守のあいだに何が起きたのだろう――下宿人は呼び鈴を鳴らしただろうか、もしもそうだとしたら彼はバンティングにどう接したのだろう。またバンティングは彼にどう接したのだろう。

 板石敷きの小径を歩く足どりは重かったけれど、しかし同時に彼女は帰宅の喜びも感じていた。そのとき彼女は、ぴたりと閉ざされたカーテンの背後からバンティングが彼女を覗き見していたことを知った。ノックもベルも鳴らさないうちに、彼がドアを開けてくれたからである。

 「心配していたんだよ」と彼は言った。「入れよ、エレン、さあ、早く!こんな日に出歩くのは寒くてたいへんだったろう。それに最近は外に出なかったものな。医者はどうだったい?何ともなかったかい?」彼は愛情のこもった心配そうな顔で彼女を見つめた。

 ミセス・バンティングの頭に、突然、名案が浮んだ。「それがね」と彼女はゆっくりと言った。「エヴァンズ先生はいなかったの。だいぶ待ってみたんだけれど、お戻りにならなかったわ。わたしが悪かったのよ」と彼女は急いで付け足した。なるほど自分には夫に嘘をつくなにがしかの権利があるだろうが、しかし数年前とても親切にしてくれた医者の悪口を言う権利は何もないと、こんなときでも彼女は几帳面にそう考えるのだった。「昨日の晩、お知らせしておくべきだったわ。もしかしたらいるかもしれないと思ってわざわざ出かけたわたしが馬鹿だった。一日じゅう往診で忙しくしていらっしゃるのに」

 「お茶くらいはいただけたんだろう?」と彼は言った。

 ふたたび彼女は躊躇した。医者がまともな召使いを雇っているのなら、当然、彼女にお茶を差し出していただろう。とりわけ彼女が医者と長い付き合いのあることを話していたなら、そうしてくれたはずである。

 彼女は妥協した。「差し出されたけど」と彼女は弱々しい、疲れ切った声で言った。「でも、バンティング、飲む気がしなかったの。今はとっても飲みたいんだけど。コンロでお湯を沸かしてくれる?」

 「ああ、まかせとけ」と彼は勢い込んで言った。「居間で座って待っていてくれ。外套なんて来たままでいいさ。まずはお茶を飲ませてあげよう」

 彼女は夫の言う通りにした。「デイジーはどこ?」彼女は唐突に訊いた。「わたしが帰るまでに戻っていると思ったんだけど」

 「今日は帰ってこないよ」――バンティングの顔に奇妙な、ずるそうな笑みが広がった。

 「電報でも寄こしたの?」とミセス・バンティングは尋ねた。

 「いや、チャンドラーがさっき来て教えてくれたんだ。彼はむこうの家に行ったらしい。しかもだね――こんなこと、信じられるかい、エレン?――あいつはマーガレットと友だちになってしまったんだ。愛というのはまったく偉大なものだね。デイジーの鞄を持ってやろうとむこうに行ったんだが、そうしたらマーガレットが、奥様から芝居にでも行きなさいとお金を送ってもらった、よかったら今晩いっしょに――つまり彼女とデイジーといっしょに――パントマイムを見に行かないかと誘われたんだそうだ。こんな話、おまえ、聞いたことがあるかい」

 「とってもいいことじゃない」ミセス・バンティングはぼんやりと言った。しかし彼女は喜んでいた――肩の荷が下りてほっとしていたのだ。「それじゃいつ家に帰ってくるの?」彼女は辛抱強く訊いた。

 「チャンドラーは明日の朝も勤務を抜けるそうだ。今晩と明日の午前だね。夜勤はあるんだけど、昼ご飯までにはデイジーを連れて戻ると言っていた。それでいいかい、エレン?」

 「ええ。それでいいわ」と彼女は言った。「あの娘にもちょっとぐらい遊ばせてあげなくちゃ。青春は一回きりですもの。ところでわたしのいないあいだに下宿人の呼び鈴は鳴った?」

 コンロにかけたやかんが煮立つのを見ていたバンティングは振り返った。「いや。考えて見りゃ変なんだが、しかし、エレン、正直な話、ミスタ・スルースのことはすっかり忘れていたよ。ほら、チャンドラーが来てマーガレットのことを話してくれたんだ。大笑いしながら。でも、おまえが留守のあいだに、ちょっとした事件が起きたんだよ、エレン」

 「ちょっとした事件?」彼女は驚いたように声を出した。椅子から立ちあがり、夫のほうに近づいた。「何があったの?誰が来たの?」

 「おれあてに知らせが届いたんだ。今晩、若いご婦人の誕生パーティーがあって、そこに給仕として出てくれないかって。場所はハノーヴァー・テラスさ。給仕が――例の無能なスイス人給仕の一人だよ――土壇場になってやめてしまったんで、おれにお鉢が回ってきたってわけさ」

 正直な顔が勝利感に輝いていた。ベイカー通りの古い友人の仕事を引き継いだ男はこれまでバンティングを無視しつづけてきた。バンティングの名前はずっと昔からリストに載っていたし、また彼はいつでも満足の行く仕事をしていたにもかかわらず、この新しい経営者はそれまで彼を雇ったことがなかった――たったの一度さえもなかったのである。

 「安い料金で引受けたりしなかったでしょうね」と妻は抜け目なく訊いた。

 「そんなことするもんか!さんざんしぶる振りをしてやったんだ。そしたら、やっこさん、やけにそわそわしだしてね。最後には半クラウン料金を上増してくれたよ。それで、まあ、丁重にお引き受けしたわけだ!」

 夫と妻は久しぶりに陽気な笑い声をあげた。

 「一人で留守番できるだろう?下宿人は勘定に入れてないが――あの人はいないも同然だから――」バンティングは心配そうに彼女を見た。思わずそんな質問をしたのはエレンが最近おかしな振る舞いをし、まったく彼女らしくなかったからである。そうでなければ一人になることを怖がるのではないか、などと心配することはなかっただろう。もっと仕事があった頃は、しょっちゅう一人で留守を守っていたのだから。

 彼女は夫をじろりと見た。どことなく疑うような目つきだった。「怖いですって」と彼女は繰り返した。「そんなはずないじゃない。どうしてわたしが怖がるのよ。怖がったことなんてなかったじゃない。バンティング、どうしてそんなことを言うの?」

 「いや、何でもないさ。ただ、一階に一人っきりでいると変な気分になりはしないかと思ってね。昨日、チャンドラーがいたずらで変装して玄関に来たとき、おまえ、ずいぶん取り乱していたじゃないか」

 「知らない人が来ただけだったら恐くなんかなかったわ」と彼女は無愛想に言った。「あの人がくだらないことを言うから――まったくあの人らしいけど――それで取り乱したのよ。それに今はもう何ともない」

 彼女がありがたくお茶を飲んでいるとき、外から新聞売り子の叫び声が聞えてきた。

 「ちょいとひとっ走り行ってくる」とバンティングは弁解するように言った。「今日の検死審問で何があったか聞いてくるよ。それに昨日の晩の凶行について何か手がかりを知っているかもしれない。チャンドラーは事件のことばかりしゃべっていたんだ――デイジーとマーガレットの話をしてないときは。今晩は夜勤だそうだよ。幸い、十二時までは仕事がないんだ。芝居がはねたあと、二人を送っていく時間はたっぷりある。それにパントマイムが長引いて家に送っていくことができないようなら、あいつが金を払って馬車に乗せるつもりだそうだ」

 「夜勤?」とミセス・バンティングは鸚鵡返しに言った。「いったい何のために?」

 「知っているだろう。復讐者はいつも二日つづけて事件を起こすんだ。警察は今晩もう一度やるだろうと思っているんだよ。しかし、それでもジョーの勤務は真夜中から五時までだからな。それからちょっと休んでデイジーを迎えに行くそうだ。若いっていうのはいいなあ、エレン」

 「こんな夜に外に出るとは思えない!」

 「どういうことだい?」とバンティングは彼女をまじまじと見つめながらいった。エレンは独り言のように妙なことを口走った。しかも荒々しい、気が高ぶったような調子で。

 「どういうこと?」と彼女は繰り返し――喩えようもない恐怖に心臓をつかまれた。わたしは何を言ったのだろう?考えていることを思わず声に出してしまった。

 「外に出るとは思えないって言ったじゃないか。もちろん出かけるに決まっているさ。勤務前だって芝居を見に外出するんだ。警察が寒いからって外に出るのをいやがったら、仕事にならんだろう」

 「わ、わたしは復讐者のことを考えていたのよ」とミセス・バンティングは言った。彼女は夫をじっと見つめた。なぜか本当のことを言わずにいられなかった。

 「やつには暑さも寒さも関係ないんだ」とバンティングは重々しく言った。「人間らしい感情が死んでしまっているんだろう――もちろん復讐欲をのぞいてな」

 「復讐者ってそういう人間だと思う?」と彼女は夫を見た。この危険な、このあやうい会話に彼女はどういうわけか惹きつけられた。まるでそれをつづけなければならないような気がした。「どう思う?犯人はあの女が見たと言っている男かしら。新聞の包みを持って眼のまえを通り過ぎたっていう若い男かしら」

 「ええと、たしか」と彼はゆっくりと言った。「寝室の窓からだったな、女が彼を見たのは」

 「ちがう、ちがう。わたしが言っているのはもう一人のほう。倉庫で働いているご主人に食事を持っていった人。彼女のほうがずっと立派ななりをしていたじゃない」とミセス・バンティングはいらいらして言った。

 そのとき夫の茫然とした、驚きの表情を見て、彼女は言いしれぬ戦慄を感じた。自分は気でも狂ったのだろうか、こんなことを言うなんて!彼女は急いで椅子から立ちあがった。「あら、わたしとしたことが」と彼女は言った。「無駄話なんかしていられない。下宿人の夕食を作らなければならないのに。汽車のなかで知らない人が話してくれたのよ、復讐者を目撃したって人のこと」

 答えを待つことなく彼女は寝室に入り、ガスに火をつけ、ドアを閉めた。すぐにバンティングが新聞を買いに出かける音が聞えた。危険な会話のあいだ二人とも新聞のことは忘れてしまっていた。

 のろのろと疲れたように暖かいコートとショールを脱ぐと、ミセス・バンティングはぶるっと震えた。ひどい寒さだった。例年と比べてさえ不自然に寒かった。

 彼女は煖炉のほうにものほしそうな視線をむけた。今は前に化粧台が置かれているが、台を横にずらして少しだけ火を熾すことができたらどんなに気持ちがいいだろう。特に今晩はバンティングが外出するのだから。夫は制服を着用しなければならないだろう。彼女は夫が居間で服を着ることを嫌った。そんなことをするのは作法にはずれているように思えたのだ。この寝室に火をいれたらどうだろう。彼が出ていったあとも、火があると気持ちが引き立つのではないだろうか。

 今晩は眠れそうもない、ミセス・バンティングはそのことを痛いほど自覚していた。彼女はおぞましい物でも見るように、柔らかい、すてきなベッドを眺めた。安らぎのないあの寝台の上に自分は横たわるのだ、いつまでも、いつまでもじっと耳をすませながら……。

 彼女は台所に降りていった。ミスタ・スルースの夕食は準備ができていた。審問の途中であわてて帰らなくてもいいように、あらかじめ出かけるまえに用意しておいたのだ。

 お盆を手すりのてっぺんにもたせかけ、彼女は聞き耳をたてた。客間は暖かく、心地よい火が燃えている。けれども下宿人はテーブルで本を読みながらどれほど寒々とした思いをしているだろう!しかし聞き慣れない音がドアを通して聞えてきた。ミスタ・スルースはそわそわと部屋のなかを動き回っていたのだ。いつもなら夕方のこの時間は座って本を読んでいるのだが。

 ノックをして、しばらく待った。

 カチリという鋭い音がした。飾り棚の鍵を回した音だ――ミスタ・スルースの女主人はそれにまちがいないと思った。

 しばらく間があった。彼女はもう一度ノックした。

 「お入りください」とミスタ・スルースが大きな声で言い、彼女はドアを開け、お盆を運び入れた。

 「いつもより少し早いんじゃありませんか、ミセス・バンティング」彼の声にはかすかないらだちが感じられた。

 「そんなことはないと思いますが、旦那様。でも出かけておりましたので、もしかしたら時間の感覚が狂っているのかも知れません。お昼を早めにお召し上がりになったので、朝食もいつもより早めにと思いまして」

 「朝食?今、朝食とおっしゃいましたか、ミセス・バンティング」

 「申し訳ございません、旦那様!夕食でございます」彼は相手をじっと見つめた。その黒い、落ちくぼんだ眼には恐ろしい疑惑の色が浮んでいるようにミセス・バンティングには思えた。

 「おかげんが悪いのですか」と彼はゆっくりと言った。「顔色がよくないようですね、ミセス・バンティング」

 「さようでごさいます、旦那様。調子が良くないのでございます。午後はお医者様のところへ行ってまいりました。イーリングのほうまで」

 「お医者さんがちゃんと手当をしてくださったでしょうね、ミセス・バンティング」――下宿人の声は穏やかな、親切な響きに変わった。

 「お医者様に会うと、いつも元気になります」とミセス・バンティングは直接その問いに答えようとはしなかった。

 するとミスタ・スルースの顔に実に奇妙な笑みが浮んだ。「医者は悪しき人々です」と彼は言った。「あなたが彼らのことを褒めるのを聞いてうれしいですよ。彼らは一生懸命努力しています、ミセス・バンティング。人間ですからまちがいもありますが、しかし一生懸命努力しているのですよ」

 「そうでございましょうとも、旦那様」――彼女は心から、真摯にそう言った。医者はどんなときでも彼女にとても優しかった。料金をまけてくれたことだってある。

 テーブルクロスを敷いて、ほかほかの料理をのせた皿を置くと彼女はドアのほうにむかった。「石炭をもう一杯持ってきましょうか、旦那様。たいへん寒うございますから――一分ごとに寒さが厳しくなるようですわ。こんなひどい晩に外出しなければならないなんて――」彼女は遠慮がちに彼を見た。

 するとミスタ・スルースは彼女をどきりとさせるようなことをした。椅子を後ろに突き飛ばし、すっくと仁王立ちになったのである。

 「それは、ど、どういう意味です」彼はどもった。「なぜそんなことを言うのです、ミセス・バンティング」

 彼女はすくみあがり、眼をまるくして相手を見た。ふたたびあの恐ろしい疑惑の色が彼の顔に浮んでいた。

 「わたしはバンティングのことを考えていたのでございます。今晩仕事がございまして。若い女性の誕生パーティーに給仕の役をつとめにまいります。外に出なければならないとは夫ながら気の毒なことだと思っていたのです。制服は生地が薄いものですから」――彼女はたどたどしく話した。

 ミスタ・スルースはやや安心したようだった。彼はふたたび椅子に座った。「そうでしたか!」と彼は言った。「おやおや――それは大変ですね!旦那様が風邪をひかなければいいのですけれど」

 それから彼女はドアを閉め、下に降りた。

******

 バンティングには何も言わず、彼女は重い化粧台を煖炉のまえから移動させ、火をいれた。

 それから彼女はちょっと得意そうにバンティングを呼び入れた。

 「着替えの時間よ」と彼女は陽気に声をかけた。「着替えやすいように火を熾しておいたわ」

 大声で贅沢をとがめられると、「火があったほうが気分がいいのよ。あなたが外出しているあいだ、相手をしてくれるみたいな感じがするし。それに戻ってきたとき部屋が暖かいじゃない。すぐそばだけど、歩いて帰ってきたときには凍え死にそうになっているわよ」と彼女は言った。

 夫が着替えているあいだにミセス・バンティングは上にあがってミスタ・スルースの夕食を片づけた。

 片付けをしているとき、下宿人は一言も話しかけてこなかった。

 彼はテーブルから離れて座っていた。彼にしては珍しいことである。両手を膝の上において煖炉の火にじっと見入っている。

 ミスタ・スルースは孤独そうだった。ひどく孤独そうで、寂しそうだった。どういうものか恐怖だけでなく憐憫の情がどっとばかりにミセス・バンティングの胸のなかにあふれてきた。この方はとっても――何て言うのだろう――彼女は心のなかで言葉を探したが、しかし「優しい《ジェントル》」という言葉しか思いつかなかった――この方はとても上品な、優しい紳士なのだ、このミスタ・スルースは。最近彼は下宿しはじめた頃のように、ふたたびお金を放り出しておくようになった。女主人は蓄えがずいぶん減ってしまったことに気づき心配になったが、ごく簡単な計算をしてみると、なくなったお金のほとんどは彼女のものになっていることが分かった。あるいはともかく彼女の手を通して消えているのだった。

 ミスタ・スルースは食費を切り詰めたりはしなかった。また主人夫婦に対して払うと約束したものは惜しみなく支払った。ミセス・バンティングは少しだけ良心が痛んだ。というのは上の部屋――寛大にも余分な金を払ってくれているあの部屋――はほとんど使われなかったからである。もしもバンティングがベイカー通りのあのいけ好かない男からもう一つか二つ仕事を紹介してもらったら――もう手づるはついたのだからそうなる可能性は大いにある、なにしろ彼は非常に良く訓練された、経験豊富な給仕なのだから――もしもそうなったら、今ほど下宿代を払ってもらう必要はないとミスタ・スルースに言ってやろう。

 彼女は不安そうに、遠慮がちに彼のひょろりとした、丸めた背中を見た。

 「おやすみなさいませ、旦那様」彼女はようやくそう言った。

 ミスタ・スルースは振り返った。その顔は悲しそうで疲れ切っていた。

 「ごゆっくりお休みくださいませ」

 「ええ、ゆっくり眠るつもりです。しかしその前に軽く散歩してこようと思います。わたしの癖なんですよ、ミセス・バンティング。一日じゅう研究していましたから、少し運動しなければなりません」

 「まあ、わたしだったら今晩は外に出かけませんけど」彼女は控えめに言った。「底冷えのする寒さなのにお出かけになるなんてよくありませんわ」

 「しかし――しかしですね」――彼は注意深く彼女を見た――「今晩は大勢の人が街に出ているかも知れません」

 「いつもよりずっと大勢おりますでしょう、旦那様」

 「本当ですか」とミスタ・スルースはすばやく訊いた。「おかしなことですね、ミセス・バンティング、一日じゅう遊んでいる人たちが夜更けになってもまだ浮かれ騒いでいるなんて」

 「わたくし、騒いでいる人のことを考えていたのではありません、旦那様。わたくしが考えていたのは」――彼女はためらい、苦しそうに言葉を吐き出した。「警察のことでございます」

 「警察?」彼は右手をあげ、神経質な仕草で二三回あごをなでた。「しかし人間の――人間の取るに足りない力など、神の力をまえに何の役に立つでしょう。神の門守に足を守られた者にすらかないはしません」

 ミスタ・スルースはある種の勝利感に顔を輝かせて女主人を見、ミセス・バンティングはうち震えるほどの安堵感をおぼえた。それでは下宿人は気を悪くしなかったのだろうか。あんなことを言っても気に障らなかったのだろうか。あんなこと――わたしは忠告のつもりであんなことを言ったのだろうか。

 「その通りでございますわ、旦那様」と彼女はうやうやしく言った。「けれども神様はわたしたちに注意もするようにうながしていらっしゃいますから」そう言って彼女はドアを閉めて下に降りていった。

 しかしミスタ・スルースの女主人はそのまま台所まで降りていったわけではない。彼女は居間に入ると、下宿人の食事の残りをのせたお盆をテーブルの上に置いた。次の日の朝バンティングにどう思われようとかまいはしないと言わんばかりに。それから廊下と居間のガスを消し、寝室に入ってドアを閉ざした。

 火があかあかと燃えていた。着替えるにはその光だけで充分だと思った。

 どうして炎はあんな変な具合に伸び上がったり、縮こまったりするのだろう?しばらく火を見つめていた彼女はとうとうまどろみはじめた。

 そのとき――ミセス・バンティングは急に心臓がどきどきとして目を覚ました。気がつくと火は消えかけていた――十二時十五分前の鐘が聞える――そして眠りに落ちるまえに耳をすませて待ちかまえていた音――ミスタ・スルースがゴム底の靴を履き、こっそり下に降りてきて廊下を通り、静かに、音をたてないようにそっと玄関から出ていくのを聞いた。

 ベッドに入っても、ミセス・バンティングはせわしなく寝返りを打った。あっちをむいたり、こっちをむいたり、気持ちが落ち着かず、いらいらがおさまらなかった。眼がさえて寝ることができないのは、たぶん見慣れない煖炉の光が壁に踊り、彼女のまわりに奇怪な影を作っているせいだろう。

 彼女は横になったまま、考えては聞き耳を立て、聞き耳を立てては考えた。興奮した頭を鎮めるために、となりの部屋からバンティングの探偵小説を一冊取ってきて、明かりを灯し読みふけろうかとも思った。

 いや、やめておこう。ミセス・バンティングはベッドのなかで本を読むのは悪いことだといつも教えられてきたし、今は悪いことだと教えられてきたことに手を出すような気分ではなかったのだ……。

第二十一章

 ひどく寒い夜だった――気温がぐんと下がり、強い風が吹き、雪もよいの、誰もができることなら外には出たくないと思うような夜だった。

 しかしそのときバンティングは満足しきって仕事から家に帰る途中だった。すばらしい幸運が今晩、彼にふりかかったのだ。まったく思いも寄らぬ幸運だっただけになおさらうれしかった!彼は誕生パーティーで給仕の役を務めたのだが、パーティーの主役の若い貴婦人がその日、財産を相続したのである。しかも彼女は慈悲深くも驚くべきことを思いついた。雇われた給仕全員にソヴリン金貨を一枚ずつ与えたのだ。

 優しい言葉とともにおくられたこの贈り物はバンティングの胸をじんと熱くさせ、彼の保守的な考え方を裏付けたのだった。こんなお振る舞いをなさるのは紳士淑女の方々だけだ。つまり物静かな、昔気質の、家柄の良い人々だけなのだ。あのいまいましい急進主義者は彼らのことを知りもしなければ気にかけもしない!

 しかし元執事は彼が感じてしかるべき幸せに浸ることができなかった。歩調をゆるめ、近ごろ妻の様子がおかしいことを思い出し、途方に暮れた。エレンはときどき彼にも理解できないくらい、やけに興奮しやすくなり、やけにびくびくしている。これまでも決して愛想のいいほうではなかったが――有能な、自尊心の強い女はめったに愛想のいいことはない――しかし今みたいになることはなかった。時間が経っても良くなるどころか、かえって悪くなっている。最近は恐ろしくヒステリックだ。しかも何の理由もないのに!たとえばジョー・チャンドラーのあのいたずら。彼がしばしば変装することはエレンもよく知っているはずなのだ。なのにまるで血迷ったみたいに取り乱して。あんなふうになるとは、まったく思ってもいなかった。

 彼女についてはもう一つ、いろいろな意味で彼を困惑させることがある。この三週間ほどのあいだに、エレンは寝言を言うようになった。昨日の晩は「だめ、だめ、だめ!」と叫んでいた。「嘘よ――そんなことない――嘘よ!」普段の声は冷静な、とりすました声なのだが、そこには激しい恐怖と強い抗議の叫びがまじっていた。

******

 ぶるるる!冷えこむなあ。おまけに彼はうっかり手袋を忘れてきていた。

 彼は両手をポケットに突っこみ、足を速めた。

 てくてくと歩いていた元執事は誰もいない通りのむこう側にふと下宿人の姿を認めた。そこはリージェント・パークを取り巻く大きな道路から、ひょいと横にそれた短い脇道の一つだった。

 おやおや!散歩を楽しむにしちゃ、変な時間を選んだものだ!

 通りのむこうを見ながらバンティングはミスタ・スルースの背の高いやせた身体がうつむき加減であることに気がついた。顏が下をむいているのだ。左手は丈の長いインバネスに突っこまれ、完全に隠れている。しかしその反対側は大きくふくらんでいて、まるでまっすぐおろした手に鞄か包みを持っているような具合だった。

 ミスタ・スルースはかなりせかせかと歩き、歩きながら独り言を言っていた。バンティングはよく知っていたが、これは孤独な生活を送っている紳士にはよく見られる癖なのである。彼は下宿の主人が近くにいることにまだ気がついていないらしい。

 バンティングはエレンの言った通りだと思った。下宿人はたしかにひどく風変わりな、妙なところのある人だ。まったくおかしな話だよ、あのいかれ気味の変わった紳士がおれたち夫婦の幸せや暮らし向きを大きく変えてしまったんだから。

 道の反対側を歩くミスタ・スルースにもう一度眼をやりながら、彼は、これが最初というわけではなかったけれども、この完璧な下宿人のたった一つの欠点を思い出した。彼は意外なことに肉がきらいで、バンティングが漠然と「まともな食い物」と呼んでいるものを受けつけないのだ。

 しかし、なくて七癖というから、そのくらいは大目に見なくてはな!なにしろ下宿人は卵やチーズまでも食べない気の狂った菜食主義者じゃないんだから。うん、その点は分別のある人だよ。おれたち夫婦に対しても同じようにまともに振る舞ってくれるし。

 知っての通り、バンティングは妻に比べるとはるかに下宿人と会う機会が少ない。実際、ミスタ・スルースが来てから三度か四度しか二階に行ったことがないのだ。主人が給仕をするときは、下宿人はじっと黙っている。さらにこの紳士は夫であろうが妻であろうが、用事で呼ばれたとき以外は部屋に来てもらいたくないということをはっきり態度にあらわしていた。

 こりゃあ、お話をするいいチャンスかも知れないぞ。バンティングは下宿人と出会えたことが嬉しかった。彼を包む幸福がますます強く感じられてきた。

 そこで歳のわりにまだまだ元気な執事は道路を横切り、きびきびした足どりでミスタ・スルースに追いつこうとした。しかし彼が急げば急ぐほど相手は早足になるのである。しかも今や凍りはじめた舗道にカツカツと靴音を立てているのが誰なのか、うしろを振り返ってたしかめようともしない。

 ミスタ・スルース自身の足音はまったく聞えなかった――考えてみればおかしなことだ――バンティングはあとで妻の横に寝ころび、眼を開けたまま真っ暗闇のなかでそう考えた。もちろん下宿人はゴム底の靴をはいているのだ。しかしバンティングはゴム底の靴を磨いてほしいと頼まれたことは一度もなかった。下宿人はブーツを一足持っているきりだと、それまでずっと思っていた。

 二人の男――追う者と追われる者――はとうとうメリルボーン通りにやってきた。家からはもう数百ヤードしか離れていない。バンティングは勇気をふるって大声を出した。その声が静かな夜気にはつらつと響いた。

 「ミスタ・スルース!ミスタ・スルース!」

 下宿人は立ち止り振り返った。

 彼は速く歩きすぎたのと、身体の具合が悪いせいで、顔から汗がしたたり落ちていた。

 「ああ、あなたでしたか、ミスタ・バンティング。うしろから足音が聞えたので、急いでしまいました。あなただと分からなかったので。夜のロンドンには変な人がうようよしていますから」

 「今夜みたいな夜はべつですよ、旦那様。仕事がある真面目な人しかこんな夜は外を歩きません。冷えますなあ、旦那様」

 そのときバンティングの鈍い、正直な心に、突然疑問が降って湧いた。この耳を切るような寒い夜に、ミスタ・スルースはいったいどんな用事で外に出てきたのだろう。

 「寒い?」と下宿人は繰り返した。彼は少し息切れがし、その言葉は薄い唇から鋭く、ちぎれたように発せられた。「寒くはありませんよ、ミスタ・バンティング。雪が降るときは、いつも暖かい感じになります」

 「そうですが、旦那様、今晩は東風が強いですからね。それこそ骨に沁みるような寒さですよ!でも、旦那様もお気づきでしょうが、身体を温めるには歩くのがいちばんです」

 バンティングはミスタ・スルースが異様に彼から距離を取って歩いていることに気がついた。彼は舗道の縁を歩き、建物の壁側をすっかり下宿の主人に明け渡しているのだ。

 「道に迷ったのです」と彼は唐突に言った。「若いとき一緒に勉強した、プリムローズ・ヒルの友だちに会いに行ったのですが、その帰りに道が分からなくなったのです」

 彼らは小さな門のところまでやって来た。そこを開ければ家のまえの、みすぼらしい板石敷きの庭に入る。この門は今はもう決して鍵をかけられることはなかった。

 ミスタ・スルースは急にまえに出ると板石敷きの小径を歩きはじめた。元執事は「旦那様、失礼します」と言って、脇から下宿人を追い越し玄関のドアを開けてあげようとした。

 脇を通り抜けるとき、手袋をはめていないバンティングの手が、丈の長い下宿人のインバネスに軽く触れた。驚いたことに一瞬手が触れたその部分は、附着した雪のせいで湿っているだけでなく、べっとりと粘ついていた。

 バンティングは左手をポケットに突っこみ、反対の手で鍵を鍵穴に入れた。

 二人の男はいっしょに玄関に入った。

 家のなかは街灯のともる道路に比べて真っ暗なように思われた。手探りしながらまえに進んでいると、下宿人がすぐうしろからついてくるのが分かった。そのとき、バンティングは急にめまいのするような死の恐怖に襲われた。間近にせまる恐ろしい危険を直感的に感じとったのである。

 声なき声――最近はもう思い出すことも滅多にない、ずっと以前に死んだ最初の妻の声――が、彼の耳に「気をつけて!」とささやいた。

 そのとき下宿人が話しかけてきた。その声は大きくなかったものの、耳障りで聞き苦しかった。

 「ミスタ・バンティング、わたしのコートが汚れてべとついていることに気づいたんじゃないですか。説明すると長くなるのですが、動物の死骸にコートがこすれたんですよ。情け深い誰かがその動物の苦痛に終止符を打ってやったのでしょう。プリムローズ・ヒルのベンチに横たわっていたのです」

 「いや、わたしは何も気づきませんでしたよ、旦那様。コートにも触っておりません」

 何か外部の力が無理やりバンティングにそんな嘘をつかせたようだった。「それでは旦那様、ごゆっくりお休み下さいませ」と彼は言った。

 うしろに下がり、彼はありったけの力をこめて背中を壁に押しつけ、相手に道を譲った。一瞬の沈黙のあと、ミスタ・スルースは「お休みなさい」と虚ろな声で返事をした。バンティングは下宿人が二階に行くまで待った。それから玄関広間のガスに火をつけ、その場に座りこんだ。ミスタ・スルースの下宿の主人はひどく気分が悪くなり――しかも吐き気がした。

 彼がようやく左手をポケットから出したのは、ミスタ・スルースが二階の寝室のドアを閉める音が聞えてきたときだった。彼は左手を持ちあげ不思議そうに見つめた。薄く赤い血が点々と、あるいは筋をなしてこびりついていた。

 ブーツを脱いで、妻が寝ている部屋にこっそりと入った。忍び足で洗面台のところへ行き、水差しに手を浸した。

 「何をしているのよ、いったい」とベッドから声がした。バンティングはぎくりとして気まずそうな顔をした。

 「手を洗っているだけさ」

 「あら、そんなことしないでちょうだいよ!ひどいじゃない――明日の朝、わたしが顔を洗う水に手を突っこむなんて!」

 「ごめんよ、エレン」と彼は素直に謝った。「捨てるつもりだったんだ。汚い水で顔を洗わせるわけがないじゃないか」

 彼女はそれ以上何も言わなかった。しかし服を脱ぎはじめた彼を、ミセス・バンティングは横になったままじっと見つめつづけた。その視線は彼をいっそう落ち着かない気持ちにさせた。

 ようやく彼はベッドにもぐりこんだ。重苦しい沈黙を破ろうと、若い貴婦人がくれたソヴリン金貨のことを話そうと思ったが、しかしそのソヴリン金貨も今は道路で拾ったファージング銅貨より価値がないように思われた。

 また妻が話しかけてきた。彼はびっくりしすぎて、ベッドが揺れた。

 「あなた、玄関の明かりをつけたままにしてきたでしょう。お金の無駄づかいよ」と彼女はきびしい声で言った。

 彼はいやいや起き出して廊下に通じるドアを開けた。彼女の言ったとおり、ガスの炎がつけっぱなしになっていて、彼らの金を――というよりミスタ・スルースの金を――無駄づかいしているのだった。彼が下宿人になってから、夫婦は家賃の金に手を付けることはなかった。

 バンティングは明かりを消し、手探りで部屋に戻り、ベッドに入った。彼らはもうお互いに口をきかず、夫も妻も夜明けまで眼を開けたまま横になっていた。

 次の日の朝、ミスタ・スルースの下宿の主人ははっと目を覚ました。奇妙に手足がだるくて、眼がしょぼしょぼした。

 枕の下から時計を引っ張り出すと七時だった。妻を起こさないようにベッドを出るとブラインドを少しだけ寄せて外を見た。大雪が降っている。雪が降るときはいつもそうだが、そのときもすべてが不思議と奇妙に静まりかえっていた。大都会のロンドンでもそうなのだ。服を着て廊下に出る。彼が怖れもし、また同時に期待もしていたように、新聞がもうマットの上に転がっていた。たぶん郵便受けから押し込まれたときの音が彼の不安な眠りを破ったのだろう。

 新聞を拾いあげ、居間に入り、そっとドアを閉めた。それからテーブルに新聞を大きく広げて、身を乗り出した。

 バンティングがようやく顔を上げて背筋を伸ばしたとき、強い安堵の表情がその鈍感な顔に輝いていた。新聞のど真ん中にでかでかと印刷されているにちがいないと思っていた記事はどこにもなかった。

第二十二章

 バンティングは驚くほど気分が楽になった。ほとんど自分が何をしているのか分からないような状態で、彼はコンロに火をつけ、妻のために朝の紅茶を淹れたのだった。

 その最中に突然彼女の声が聞えた。

 「バンティング!」彼女は弱々しく叫んだ。「バンティング!」呼びかけに応じて彼女のところへ飛んで行き、「なんだい」と言った。「どうしたんだ。お茶はすぐできるよ」彼はやや間の抜けた笑顔を満面に浮かべた。

 彼女は起き上がり、ぼうっとしながら彼を見た。

 「何をにやにやしているの?」と彼女は疑わしげに訊いた。

 「すごくいいことがあったんだ」と彼は説明した。「しかし昨日の晩は機嫌が悪そうだったので言わなかったんだが」

 「じゃ、今教えてよ」彼女は低い声で言った。

 「お嬢さんからソヴリン金貨をもらったんだ。ほら、彼女の誕生パーティーだったんだよ、エレン、しかも彼女の懐に一財産転がり込んできたんだ。それで給仕一人一人にソヴリン金貨を一枚ずつくれたのさ」

 ミセス・バンティングは何も言わなかった。ただ後ろに寄りかかり、眼を閉じた。

 「何時にデイジーは帰るの」と彼女は気だるそうに訊いた。「ジョーがいつ彼女を迎えに行くのか、教えてくれなかったわね、昨日話をしたとき」

 「そうだったかい?お昼ご飯には間に合うように帰ると思うが」

 「いったいあの娘の伯母さんは、いつまで彼女をうちに預けておこうと思っているのかしら」とミセス・バンティングは考え込むように言った。バンティングの丸顔から陽気な表情がすっかり消えてしまった。彼はむすっとして不機嫌になった。自分の娘をしばらく預かってやれない法があるものか。特に今は生活が苦しいわけじゃないのだから!

 「デイジーはここに泊まれるだけ泊まっていくんだ」と彼はそっけなく言った。「よくないな、エレン、そんなふうに言うのは!彼女は一生懸命おまえを手伝っているし、彼女がいると、われわれも元気になるじゃないか。それに今、彼女を追い出すなんて、残酷というものだ。あの若者と仲良くなろうとしているときに。おまえだってそのくらいの理屈は分かるだろう!」

 しかしミセス・バンティングは答えなかった。

 バンティングは居間に戻った。お湯が沸騰していたので、お茶を淹れた。小さなお盆を取り出しながら、彼は怒りをやわらげた。エレンはほんとうに具合が悪そうだ――具合が悪くて、しなびたように見える。何も言わないけれども、痛いところでもあるのだろうか。彼女は調子が悪くても決してそのことを人にこぼしたりしないのだ。

 「昨日の晩は下宿人と一緒に帰ってきたんだよ」と彼はほがらかに言った。「ありゃあ、ずいぶん変わった紳士だね。散歩に出かけるような夜じゃなかったものな。でも、あの人が言ったことがほんとうなら、ずいぶん長いこと外にいたことになるなあ」

 「ああいう物静かな紳士は混雑した通りを嫌うものなのよ」と彼女はゆっくりと言った。「毎日毎日、ますます混雑するじゃない、実際の話。さあ、むこうに行ってちょうだい。もう起きるから」

 彼は居間に戻って煖炉に薪を積み、マッチで火をつけた。それから新聞を手に心地よく椅子におさまった。

 心の奥底でバンティングは昨夜の出来事を振り返り、自分に対して恥ずかしさと非難の気持ちを抱いた。突然彼をとらえたあのような恐ろしい考えや疑惑はいったいどこから湧いてきたのだろう。あんな血ぐらい、何だと言うんだ。ミスタ・スルースは鼻血を出したのだろう。きっとそうだ。しかしそう言えば、動物の死骸にさわったんだと言っていたな。

 やっぱりエレンの言うことが正しいのかも知れない。殺人などといったおどろおどろしいことばかり考えているのはよくないのだ。頭がおかしくなってしまうよ、まったく。

 そんなふうに思いを巡らしているとき、玄関のほうから大きなノックの音が聞こえてきた。トントントンという電報の配達員に特有のたたき方だった。しかし彼が部屋を出るよりも先に、ましてや玄関のドアにたどり着くよりも先に、ペチコートとショールだけのエレンが部屋から飛び出してきた。

 「わたしが出る」と彼女は息を切らして言った。「出るから、バンティング。来なくていいわ」

 彼はあんぐりと彼女を見つめ、玄関までついて行った。

 彼女はドアの陰に身体を隠しながら手を差出し、見えない配達員の少年から電報を受け取った。「待つことはないわよ」と彼女は言った。「返事するときは自分で送るから」そう言って封を切った。「ああ、よかった!」と彼女はほっとしたようにため息をついた。「ジョー・チャンドラーから電報が来ただけ。今日の午前はデイジーを迎えに行けないんですって。じゃ、あなたが行かなければならないわね」

 彼女は居間に戻った。「ほら。これを読んでごらんなさいよ、バンティング」

 「午前中も勤務のため、約束違反ですが、ミス・デイジーを迎えに行くことができません――チャンドラー」

 「なんで勤務があるんだろうな」とバンティングはゆっくりと、腑に落ちない様子で言った。「ジョーの勤務時間は時計みたいにいつも決まっているんだ――何があっても変わることはないんだが。しかし、しょうがないか。十一時くらいに出発すれば充分だよな?そのときにはもう雪も止んでいるかもしれん。今はまだ外に行く気がしないよ。今朝はひどく疲れているんだ」

 「十二時に出たらいいわ」と妻がすぐに言った。「それならゆっくりできるでしょう」

 その日の朝は静かに、何事もなく過ぎていった。バンティングは伯母さん(オールド・アーント) から手紙を受け取った。デイジーを来週の月曜日に帰して欲しいとのことだった。もう一週間もない。ミスタ・スルースはぐっすりと寝ていた。あるいは、ともかくも、起きたような様子はなかった。ミセス・バンティングは部屋を掃除するあいだ、たびたび立ち止って聞き耳を立てたが上からはどんな物音も聞えてこなかった。

 自分たちでも気づかないうちに、バンティングと妻は久方ぶりの明るい気分にひたっていた。台所に行ってミスタ・スルースの朝食を作るまえに、ミセス・バンティングはしばらく椅子に座り、夫婦水入らずの楽しい会話をかわした。

 「デイジーはあなたを見たらびっくりするでしょうね――がっかりはしないだろうけど!」と彼女は言い、思わず一人でクスクスと笑ってしまった。十一時になりバンティングが出かけようとして立ちあがると、彼女はもう少しゆっくりするように彼を引き留めた。「そんなに急ぐことはないわ」と彼女は機嫌よく言った。「むこうには十二時半に着けばいいのよ。お昼ご飯はわたしが一人で用意する。デイジーに手伝ってもらうことはないわ。たぶんマーガレットはさんざん彼女をこきつかったんじゃないかしら」

 しかしとうとうバンティングが出かけなくてはならない時間が来て、妻は玄関まで見送りに出た。雪はやや小降りになっていたが、まだ降りつづいていた。往来を行き交う人はごくわずかで、タクシーや馬車もほんの数台がぬかるみのなかを用心深くのろのろと運転しているだけだった。

 ミセス・バンティングがまだ台所にいるとき、玄関から鈴とノックの音がした。今ではなじみ深いものとなった鈴とノックの音だった。「ジョーはデイジーがもう帰ってきていると思っているんだわ」彼女は一人ほほえんだ。

 ドアが充分に開ききらないうちに、チャンドラーの声がこう言った。「今度は怯えたりしないでくださいよ、ミセス・バンティング!」しかし怯えはしなかったものの、彼女は驚いて息を呑んだ。というのは、ジョーが飲み屋をうろつく浮浪者の格好をしてそこに立っていたからである。しかもぼさぼさの髪を額に垂らし、くたびれた、ぶかぶかの、汚れた服に、暗緑色の山高帽をかぶったその姿は、まさに完璧な変装だった。

 「時間がないんです」と彼は軽く息を切らして言った。「ただミス・デイジーが無事に帰ってきたか、確かめようと思って。電報を受け取りました?ほかに知らせる手立てがなかったんですよ」

 「まだ戻ってないわ。お父さんがついさっき迎えに行ったけど」それから相手のただならない目つきに驚いて慌ててこう尋ねた。「ジョー、何があったの?」

 彼女の声に緊張感がこもり、顔が引きつった。かすかにあった赤みも消え、真っ青になった。

 「実は」と彼は言った。「実はですね、ミセス・バンティング、ほんとは言っちゃいけないんだけど――でも教えてあげますよ!」

 彼は家のなかに入ると、居間のドアをそっと閉めた。「また起きたんですよ!」と彼はささやいた。「でも今回は誰にも何も知らせないことになっているんです――さしあたっては」と彼は急いで訂正した。「警視庁は手がかりを見つけたと考えています――それも、今度は有力な手がかりなんです」

 「でも、どこで――それに、どうやって」ミセス・バンティングは口ごもった。

 「運がよかったんですよ、当面事件のことを秘密にできるっていうのは」――彼は依然として押し殺した、しわがれ声でささやいた。「犠牲者はプリムローズ・ヒルのベンチで死んでいるところを見つかりました。たまたまわれわれの仲間が死体の第一発見者だったんです。彼は家に帰る途中だったんですよ、ハムステッドのほうへ。彼はどこに行けば救急車をすぐ呼ぶことができるか知っていました。それでうまいこと、人に知られないように処理したってわけです。あいつはきっと昇進するだろうな!」

 「手がかりは?」とミセス・バンティングが乾いた唇で尋ねた。「手がかりがあったって言ったわね」

 「ぼくも手がかりのことはよく知らないんですよ。分かっているのは現場からほど近い『金槌と火ばさみ亭』っていう酒場と関係があることだけです。閉店間際に復讐者がその酒場に立ち寄ったと、警察は確信しているんですが」

 それを聞いてミセス・バンティングは腰をおろした。さっきよりもいくらか気分が楽になった。警察が酒場をうろつく浮浪者に目をつけるのは当然のことだ。「じゃあ、そのせいでデイジーを迎えに行くことができなかったのね」

 彼は頷いた。「でも内緒ですからね、ミセス・バンティング!今夜の最終版にはみんな出ているでしょうけど――いつまでも秘密にはできませんから。ずっと隠していたら大騒ぎになってしまうし」

 「これからその酒場に行くところなの?」

 「そうです。やっかいな仕事を言いつかっちゃって。酒場のウエートレスから情報を聞き出さなきゃならないんです」

 「ウエートレスから情報を?」ミセス・バンティングがそわそわしながら繰り返した。「いったい何のために?」

 彼はそばに寄ってきて耳打ちした。「警察は犯人が紳士だったとふんでいるんです」

 「紳士?」

 ミセス・バンティングは怯えたようにチャンドラーを見た。「どうしてそんな馬鹿なことを」

 「それがですね、閉店間際にすっごく変な格好の紳士が革鞄を手に酒場に入ってきて、ミルクを一杯頼んだんだそうです。それからその人が何をしたと思います?ソヴリン金貨で支払いをしたんですよ!おつりは受け取ろうとしませんでした――ウエートレスにチップとしてやってしまったんです!だからお給仕をした若い女は彼のことを話そうとしないんです。どんな人相だったかってことも。彼の容疑のことは話していません。まだ知らせたくないので。この話が新聞に出ないのはそのせいもあるんです。ああ、だけど、ほんとにもう行かなくちゃ。僕は三時まで勤務があります。帰るときに、こちらに立ち寄ってお茶でもいただこうかと思っていたんですけど、ミセス・バンティング」

 「そうなさいな」と彼女は言った。「お寄りなさいな、ジョー。歓迎するわ」しかし彼女の疲れた声には歓迎の響きは少しもなかった。

 見送ることなく一人で彼を出ていかせると、彼女は台所に降り、ミスタ・スルースの朝食を作りはじめた。

 下宿人はもうすぐ呼び鈴を鳴らすだろう。バンティングとデイジーももうすぐ戻って来て、何かを食べたがるだろう。マーガレットは「ご一家」が出かけているときも、いつも異様なくらい早い時間に朝ご飯を食べるのだ。

 忙しく立ち働きながらミセス・バンティングは何も考えまいとした。しかし疑心暗鬼の状態にあるとき、何も考えずにいるというのは実に難しい。酒場に入った男を、警察はどんな男だったと思っているのか、彼女はチャンドラーに尋ねることができなかった。下宿人とあの詮索好きな若者が顔を突き合わせたことがないのはまったく幸運なことだった。

 ようやくミスタ・スルースの呼び鈴が鳴った――静かにチリンと鳴っただけだった。しかし朝食を持って上に行くと下宿人は客間にいなかった。

 まだ寝室にいるのだろうと思ったミセス・バンティングはテーブルクロスを敷いた。そのとき階段を降りる足音がして、耳ざとい彼女はガスストーブに火が入っていることを示すボウボウという音を聞きつけた。ミスタ・スルースはもうストーブに火をつけていたのだ。今日の午後、何か手の込んだ実験をする気なのだろう。

 「まだ雪が降っているのですか」と彼は疑わしそうに訊いた。「雪に覆われたロンドンは何て静かなんでしょう、ミセス・バンティング。今朝みたいに静かなロンドンは見たことがありません。家の内も外も、物音一つしません。メリルボーン通りはときおり叫び声がこだましてうるさくなりますが、今日は打って変わってたいへん気持ちがいい」

 「さようでございますね」と彼女はうつろな返事をした。「今日はたいそう静かでございます――わたしには静かすぎるような気がします。何だか自然ではないような」

 外の門が勢いよく開き、しんとした空気に騒々しい音を響かせた。

 「誰か来ることになっているんですか」とミスタ・スルースははっと息を呑んだ。「誰が来たのか、窓から見ていただけませんか、ミセス・バンティング」

 女主人はその言葉に従った。

 「バンティングでございます、旦那様。バンティングと娘でございます」

 「ああ!それだけですか?」

 ミスタ・スルースは急いで彼女のそばに寄り、彼女は思わず少し後じさった。部屋を案内した最初の日をのぞいて、下宿人とそんなに接近したことはなかったのである。

 二人は並んで窓から外を眺めていた。すると誰かがそこに立っていることに気づいたように、デイジーはその明るい顔を窓のほうにむけ、まま母と下宿人にほほえんでみせた。もっとも下宿人の顔はぼんやりとしか見えなかったのだけれども。

 「とても愛らしい娘さんですね」とミスタ・スルースは考え込むように言った。それから短い詩を引用したのだが、それがミセス・バンティングをひどく驚かせた。

 「ワーズワースですよ」と彼は夢を見るようにつぶやいた。「最近ではもう読まれなくなった詩人です。しかし自然や、青春や、無垢な心に対して美しい情感を示した人です」

 「左様でございますか、旦那様」ミセス・バンティングは少し後じさった。「朝食が冷めてしまいますわ。すぐお召し上がりにならないと」

 彼はおとなしくテーブルに戻り、叱られた子供のように席に着いた。

 女主人は退出した。

 「さてと」バンティングは陽気に言った。「万事つつがなく終了だ。デイジーはついているよ――いやはや、強運の持ち主だな!マーガレット叔母さんから五シリングせしめたんだから」

 しかしデイジーは父親が思っているほど喜んではいない様子だった。

 「ミスタ・チャンドラーに何ごともなければいいんだけど」と彼女はやや浮かぬ顔をした。「昨日の晩、別れ際に、十時に迎えに来るって言ったのよ。時間が来てもあらわれないから、ずいぶん気をもんだわ」

 「彼、うちに来たのよ」とミセス・バンティングがゆっくりと言った。

 「うちに来た?」と夫が叫んだ。「じゃ、何だってデイジーを迎えに行かなかったんだ?ここに来る暇があるなら」

 「仕事に行く途中だったのよ」と妻は答えた。「さ、あなたは下へ行きなさい、デイジー。ここに来たらお手伝いをしてもらわなくっちゃね」

 デイジーはしぶしぶ命令に従った。まま母はいったい何を彼女に聞かせたくないのだろうといぶかしく思いながら。

 「話があるの、バンティング」

 「なんだい」彼はそわそわした視線をむけた。「言ってみろよ、エレン」

 「また殺人事件が起きたの。でも警察は誰にもそのことを知られたくないらしいわ――今のところは。だからジョーはデイジーを迎えに行けなかったのよ。全員がまた呼び出されて」

 バンティングは手を伸ばしてマントルピースの端をつかんだ。彼は顔が赤くなっていたが、妻は自分の感情や思いに囚われていて、そのことに気がつかなかった。

 二人のあいだに長い沈黙が訪れた。それから彼は懸命に平気な振りをしながらこう言った。

 「どこで起きたんだい?」と彼は訊いた。「このまえの現場の近くかい?」

 彼女はためらってから言った。「知らない。言わなかったから。ほら、静かに」と彼女はすばやく言った。「デイジーが来るわ!あの娘のまえでこんな恐ろしい話をしちゃだめよ。それにチャンドラーには口外しないって約束したんだから」

 彼は黙ってそれに従った。

 「テーブルクロスを敷いてちょうだい、デイジー。わたしは下宿人の朝食を片づけてくる」返事を待つことなく、彼女は急いで二階へ行った。

 ミスタ・スルースはおいしそうなカレイにほとんど手をつけていなかった。「今日は気分がよくありません」彼は気むずかしそうに言った。「それから、ミセス・バンティング。ご亭主がお持ちだった新聞を見せていただけないでしょうか。新聞はあまり好きじゃないのですが、今、ちょっと拝見させていただけるとありがたいのです」

 彼女は階段を飛ぶように降りた。「バンティング」彼女は軽く息を切らして言った。「下宿人がサンを借りて読みたいんですって」

 バンティングは新聞を差し出した。「おれは読んでしまったよ」と彼は言った。「お返しいただく必要はありませんて言ってくれ」

 上に行く途中で、彼女は淡紅色の新聞紙を見た。でこぼこした絵が紙面の三分の一を占めていて、その下に大きめの活字でこう書かれていた。

 「十日まえ、復讐者が二重殺人を犯した際に履いていたと思われる、半ばすり切れたゴム底の正確な複製である。これを読者の御覧に入れることができ、われわれは欣快にたえない」

 彼女は客間に入っていった。ほっとしたことに、そこに下宿人はいなかった。

 「どうか新聞はテーブルの上に置いておいてください」とミスタ・スルースのこもった声が上の階から聞えてきた。

 彼女は言われた通りにした。「かしこまりました、旦那様。バンティングは新聞を返していただかなくても結構だそうでございます。読んでしまいましたので」そう言って彼女は急いで部屋を出た。

第二十三章

 午後はずっと雪が降りつづいた。三人は座ったまま耳をすまし、待っていた。バンティングと妻は何を待っているのか分からなかった。デイジーはジョー・チャンドラーの来訪を告げるノックの音を待っていた。

 聞き慣れた音が聞えてきたのは四時頃だった。

 ミセス・バンティングは急いで廊下に出て、玄関のドアを開けるなりこうささやいた。「デイジーにはまだ何もしゃべってないわ。若い娘は秘密を守れないから」

 チャンドラーは分かったとばかりに頷いた。今は服装だけでなく顔つきまでが浮浪者そのものだった。寒さに顔から血の気がひいて、意気消沈し、疲れ切っていたのだ。

 デイジーは彼の巧みな変装を見たとき、驚愕と笑いと歓迎の小さな叫び声をあげた。

 「あきれた!」と彼女は叫んだ。「まるっきり変わっちゃうのね!目も当てられない格好だわ、ミスタ・チャンドラー」

 どういうわけか、彼女のその言葉は父親を面白がらせ、彼はすっかり陽気になった。バンティングはその日の午後はずっと元気がなく、ひどくおとなしかったのだ。

 「十分もあればまともな格好に戻れますよ」と若者はどことなくうち沈んだ声で言った。

 主人夫婦はそっと彼の顔色に注目していたが、どちらも彼が任務に失敗し、価値のある情報を引き出せなかったらしい、と結論した。そのため、ある意味では楽しく一緒にお茶を飲んだのだが、その小さなお茶の会にはどこか気まずい、いや、息苦しい雰囲気さえ漂っていた。

 バンティングは唇の上で震えている質問を訊くことができず、もどかしくてしようがなかった。それまでの一カ月間、ジョーが知っている話を残らず聞き出せなかったら、どんなときでも堪らない気持ちになっただろう。しかし、今やこの奇妙な宙づり状態はほとんど彼を悶絶させんばかりだった。彼が知りたくてたまらない重要な事実が一つあったのだが、ようやくそれを知る機会が訪れた。ジョー・チャンドラーが暇を告げて立ちあがったのだ。今度はバンティングが彼を玄関まで送っていった。

 「どこで起きたんだね」と彼はささやいた。「それだけ教えてくれんか、ジョー」

 「プリムローズ・ヒルです」と相手は短く答えた。「もうすぐ詳細が分かりますよ。夕刊の最終版にみんな出ますから。そういう取り決めなんです」

 「犯人は捕まっていないんだろう?」

 チャンドラーはしょげたように頭を振った。「ええ」と彼は言った。「今回ばかりは警視庁も見当外れな捜査をしているとしか思えません。しかし、まあ、どんな手がかりもできるだけ調査しなければならないんだけど。ミセス・バンティングから聞きましたか、閉店間際にやってきた客のことで、ぼくがウエートレスに質問をしたことは。彼女は知っていることをみんな話してくれました。彼女の言う変わり者の老紳士は、ただの人畜無害なキ印ですよ。それは火を見るよりも明らかだと思います。彼女が禁酒主義者だと言っただけでソヴリン金貨をあげちゃうんだから!」彼は残念そうに笑った。

 バンティングでさえそれを聞いて思わずにやりとした。「ウエートレスにしちゃ珍しいな!」と彼は言った。「彼女は酒場の主人の姪なんです」とチャンドラーは説明した。それから玄関のドアを出て快活に「じゃ、失礼します!」と言った。

 バンティングが居間に戻ると、デイジーの姿がなかった。彼女はお盆を持って下に行っていたのだ。「娘はどこだ?」と彼はいらいらと訊いた。

 「お盆を持って下にいったわ」

 彼は台所に降りる階段のてっぺんから、鋭く呼びかけた。「デイジー!デイジー!そこにいるのか」

 「いるわよ、お父さん」と元気のいい、楽しそうな声が返ってきた。

 「台所は寒いからあがっておいで」

 彼は妻のところへ戻った。「エレン、下宿人はいるのかい?動いている音が聞こえないけど。気を悪くしないでほしいんだが、おれはデイジーをあの方に会わせたくないんだ」

 「ミスタ・スルースは今日はおかげんがよくないみたいね」とミセス・バンティングは静かに答えた。「あの方のことでデイジーに何かしてもらおうなんて思ってもいない。会ったこともないのよ。今さらお世話をさせるつもりなんてないから」

 彼女はバンティングのしゃべり方に驚き、多少いらいらさせられたが、彼女の心が真実のかすかな光をとらえることはなかった。恐ろしい秘密の重荷を一人で担うことに慣れていた彼女は、不機嫌な言葉を一言二言聞いたり、バンティングの顔色がはかばかしくなく疲れたように見えるくらいのことでは、彼女の秘密が今や他人にも共有されているのではないか、とか、しかもその他人とは夫ではないか、などという疑問は毛筋ほども抱かなかった。

 このあわれな魂は、警察に家宅捜査をされることを考え、何度も苦しみ、震えていたのだ。なにしろ彼女は警察には超自然的な探知能力があるといつも信じていた。警察が彼女の胸に隠された恐ろしい事実を暴き出すのはどう見ても当然のことのように思われた。しかしバンティングがぼんやりとすらそのことに勘づこうとはよもや思っていなかった。

 だがデイジーでさえ父親の変化に気づいていたのだ。彼は身体を丸めるようにして火にあたっていた――そのまま何も言わず、何もしようとしなかった。

 「お父さん、具合が悪いの?」と娘は何度か訊いた。

 顔を上げると彼はこう答えた。「おれなら大丈夫さ。ただ寒いんだよ。やけに冷えるんだ。こんなにさむけがするのははじめてだ」

******

 八時になると、いつもの叫び声がまたもや外から聞えてきた。

 「復讐者がまたやったぞ!」「またもや残忍な殺人!」「夕刊特別版!」――そんな怒鳴り声、高揚した叫び声が、冷たい澄んだ空気のなかに威勢よく飛び交った。それは静かな部屋のなかに、まるで爆弾のように落ちてきた。

 バンティングも妻も押し黙ったままだったが、デイジーの頬は興奮してピンク色に染まり、眼は輝いた。

 「聞いて、お父さん。エレンも聞いてよ。ほら、あれが聞える?」彼女は子供のように叫び、両手を打ち鳴らしさえした。「ミスタ・チャンドラーがここにいたらよかったのに。びっくりしていたでしょうね!」

 「いい加減にしなさい、デイジー」とバンティングは顔をしかめた。

 彼は立ちあがって背筋を伸ばした。「だんだん嫌になってきたよ、ああいう物騒な事件は。ロンドンからうんと遠く離れたところへ行きたいな。できるだけ遠いところへ!」

 「北の果てのジョン・オ・グローツまで行く?」とデイジーは笑いながら言った。「ねえ、お父さん、新聞を買いに行かないの?」

 「そうだな。買わなきゃならんだろうな」

 彼はゆっくりと部屋を出て、玄関広間で足を止め厚手の外套と帽子をかぶった。それから玄関のドアを開け、板石敷きの小径を歩いた。鉄の門を開けて舗道に出ると、道路を渡って新聞売りの少年にむかって歩いて行った。

 いちばん近くにいた少年はサンしか持っていなかった。彼がとっくに読んでしまった新聞の遅版である。すでに主な内容を知っている無価値な新聞に一ペニーを払うことはためらわれたけれど、しかしほかにどうしようもなかった。

 街灯の下に立って彼は新聞を広げた。身を切るような寒さだった。新聞を見ながら手が震えたのは、もしかしたら寒さのせいもあったかもしれない。バンティングはお気に入りの夕刊紙の編集者を不当に評価していたようだ。この特別版は新しい情報を満載していた――復讐者に関する新しい情報を。

 まず紙面を横断する大きな活字が、復讐者が九番目の犯罪を犯したと報じていた。しかも今までとはまったくちがう場所、ロンドン子がプリムローズ・ヒルと呼んでいる寂しい丘をその現場に選んだらしい。

 バンティングは記事を読んだ。「復讐者の新たな犠牲者がいかに発見されたのか、警察はその間の事情について堅く口を閉ざしている。しかしわれわれが判断するところ、警察が極めて重要な証拠をつかんだことはまずまちがいない。しかもその一つは本紙が本日その輪郭をはじめて読者に複製して御覧に入れた、あのすり切れたゴムの靴底と関係している。(次のページを見られたし)」

 バンティングがページをめくると、サンの早版ですでに見たいびつな輪郭が載っていた。復讐者のゴム底の靴跡であると新聞が主張するものだ。

 彼は本来活字で埋められるべき大きなスペースを占めている粗雑な輪郭を見つめた。すると恐怖と不安で眼のまえが真っ暗になるようなおかしな気分に陥った。犯行現場やその近くに残された靴跡は、犯人をつきとめる手がかりとして何度も何度も利用されてきた。

 バンティングが家でする唯一の雑用は靴磨きだけだといってよい。彼はその日の昼過ぎに、毎朝磨いている小さな靴の列を思い浮かべたのだった。まず妻の丈夫で頑丈な長靴、それから自分の二足の靴。これは散々修理されて、つぎはぎだらけだった。それからミスタ・スルースの丈夫な、ほとんどすり減っていない、高価な、ボタン付きのブーツ。最近、紙みたいに薄い靴底の、小さな、かわいらしいハイヒールがその列の最後に加わった。ロンドンへの旅行用にデイジーが買ったものだ。彼女はエレンの非難と忠告に反抗してこの薄い靴をいつも履いていた。バンティングは娘のもっとまともなカントリー・シューズを一回しか洗ったことがない。二人がチャンドラー青年に連れられて警視庁に行った日に、もう一方の靴が濡れてしまったからだった。

 のろのろと彼は道路を渡った。なぜか家のなかに戻り、妻の辛辣な批評を聞いたり、デイジーのしつこい質問をかわすのが耐えがたいことのように思われた。だからわざとゆっくり歩き、新聞に何が書いてあるのか、話をしなければならない不愉快な瞬間を先延ばししようとしたのだった。

 彼がその下で新聞を読んだ街灯は家のちょうど前ではなく、やや右のほうに位置していた。道路を渡り、門にむかって舗道を歩いていたとき、舗道と庭を区切る低い壁の向う側から奇妙なごそごそという音が聞えてきた。

 普段であればバンティングは飛んで行ってそこにいる人間を追い出しただろう。寒い季節になるまえは浮浪者がそこで雨宿りをしたりして、彼と妻は頭を痛めたものだった。しかし今晩、彼は外でじっと耳をすました。緊張感と恐ろしさに胃の腑がおかしくなりそうだった。

 おれたちの家が――もうすでに――監視されているなんて、そんなことがありうるだろうか。彼はそうであっても不思議はないと思った。バンティングはミセス・バンティングと同じように、警察にはほとんど超自然的な力があると考えていた。警視庁を訪ねてからは特にその印象が強かった。

 しかしバンティングが驚き、そして、そう、ほっとしたことに、ぼんやりした明かりのなかにぬっと突然姿をあらわしたのは下宿人だった。

 ミスタ・スルースは屈んでいたにちがいない。というのは、そのひょろりと背の高い姿は、低い壁の背後から玄関につながる板石敷きの小径に出てくるまで完全に隠れていたからである。

 下宿人は茶色い紙包みを持っていた。歩くと履いている新品の長靴がキュッキュッと鳴り、釘を打った固いかかとが小径の板石にあたってカツカツと音をたてた。

 ずっと門の外に立っていたバンティングは、下宿人が低い壁のむこうで何をしていたのか、はっと思い当たった。ミスタ・スルースはどうやら外出して新しい長靴を買ってきたらしい。そして門のなかに入ると、その靴を履き、古いほうは新品を包んでいた紙でくるんでしまったのだ。

 元執事は待った――長い時間待ちつづけた。ミスタ・スルースが家のなかに入るまで待っただけではない。二階に上がったと思われるころまで、長い時間を待ちつづけたのだ。

 それから彼も板石敷きの小径を歩き、ドアの掛けがねをあけた。玄関広間では、帽子やコートを掛けるのにできるだけ時間をかけた。実際、妻に呼びかけられるまでずっとそうしていたのである。彼は部屋に入ると新聞をテーブルの上に放り出してむすっとしながら言った。「ほら、全部自分で読んだらいい――たいした記事はないけどな」そう言って暖炉の火のほうへむかった。

 妻はひどく心配そうに彼を見た。「いったいどうしたの?」と彼女は大きな声で言った。「具合が悪いんでしょう――きっとそうだわ、バンティング。昨日の晩、風邪をひいたのよ!」

 「風邪をひいたことはもう言っただろう」と彼はぶつぶつと言った。「だが昨日の晩じゃない。今日のことだ。バスで帰ってくるときだよ。マーガレットは自分の家政婦部屋を温室みたいにあったかくしていたんだ。そこから寒風のなかに出たものだから、いっぺんにおかしくなった。こんな天気の日に外に出なきゃならないのはつらいだろうな。ジョー・チャンドラーがあんな生活に我慢しているのが不思議だよ――どんな天気でも外に行かなきゃならないんだから」

 バンティングはとりとめもなくしゃべりつづけた。彼は見捨てられたようにテーブルに置いてある新聞からひたすら逃げたかった。

 「一日じゅう外にいる人は、かえって病気にならないものよ」と妻は辛辣に言った。「でもそんなに具合がよくないのなら、どうしてこんなに長いあいだ外にいたのよ、バンティング。どこかに行っちゃったのかと思ったわ!新聞を買いに行っただけなの?」

 「街灯の下でちょいと読んでいたんだ」と彼は弁解するように言った。

 「馬鹿なことをしたものね!」

 「そうかもな」と彼はおとなしく言った。

 新聞を取りあげていたデイジーは「たいしたことは書いてないわ」とがっかりしたように言った。「目新しいことは何もなし!でも、ミスタ・チャンドラーがまたすぐ来るかもしれないわね。そうしたら、もっといろんなことを教えてくれるわ」

 「あなたみたいな若い娘が殺人なんかに興味を持っちゃいけません」とまま母はきびしい声を出した。「そんなことを聞きたがったら、嫌われるわよ。わたしだったら、彼が来てもそんなことは一言も言わないわ――はっきり言って、わたしは彼が来なければいいと思っているの。あの若者を見るのは、今日はもうたくさん」

 「彼、もうずいぶんここに来てないわ――少なくとも今日は来てない」デイジーの唇は震えていた。

 「あなたがびっくりすることを一つだけ教えてあげる」――ミセス・バンティングは意味ありげにまま娘を見た。彼女もあの恐ろしいニュースから逃げたかったのだ――まだニュースになってはいない、あのことから。

 「何よ」とデイジーはやや挑戦するように言った。「何が言いたいの、エレン」

 「驚くかもしれないけど、ジョーは今朝うちに来たのよ。事件のことはとっくにみんな知っていた。でも、あなたには話をしないよう、念を押されたわ」

 「嘘よ!」と屈辱をおぼえながらデイジーは叫んだ。

 「嘘じゃないわ」と情け容赦なくまま母はつづけた。「お父さんに訊いてごらんなさい」

 「そんなに騒ぐようなことじゃないさ」とバンティングは重々しく言った。

 「わたしがジョーだったら」とミセス・バンティングはさっそく有利な立場を利用して言った。「せっかく友だちと静かなおしゃべりを楽しみに来たのに、そんな恐ろしい話をさせられたらたまったもんじゃないと思うでしょうよ。でも彼はここに来たとたんに事件の話をしてくれとせがまれる――はっきり言えば、たいがいはお父さんのせいなんだけど」彼女は夫をきびしく見つめた。「でも、あなただって、あなたなりに同じことをしているのよ、デイジー!彼を質問攻めにして――ときどき、あの人、どうしていいか分からないみたい。そんなに根掘り葉掘りものを訊くものじゃありません」

******

 たぶんミセス・バンティングのこの短いお説教のせいだろう、その晩、ふたたびチャンドラー青年が訪ねてきたとき、復讐者の新しい事件のことはほとんど話題にならなかった。

 バンティングはまったくそちらのほうに話をふろうとしなかった。デイジーはそれに関したことを一言言ったが、しかしただそれだけだった。ジョー・チャンドラーは今まで味わったことがないくらい楽しい夕べを過ごした。なぜなら終始おしゃべりをしていたのは彼とデイジーだけで、年上の二人はほとんど黙ったままだったのである。

 デイジーはマーガレット叔母さんと何をしたのか、残らず語って聞かせた。長い退屈な時間のこと、叔母さんにやらされた仕事のこと。彼女はフランネルを敷きつめた大きなたらいに客間の豪華な陶器を入れて洗わされたのだった。彼女(デイジー)は、ほんのわずかの欠けもできないようにと、びくびくしながら陶器を扱った。それから彼女は「ご一家」にまつわるマーガレット叔母さんのおもしろおかしい話を聞かせた。

 そのなかに一つ、滑稽きわまりない逸話があって、チャンドラーはそれにことのほか興味を持ち、面白がったのだった。それはマーガレット叔母さんの奥様がペテン師にだまされた話だった。彼女が馬車から降りようとしたとき、そのペテン師が近づいてきて、玄関の前で発作を起こしたふりをしたのだ。心優しいマーガレット叔母さんの奥様は、その男を広間に招じ入れ、ありとあらゆる気付け薬を与えた。男が去ったとき、彼が若旦那様のいちばんいいステッキを「ふんだくって」いったことが分かった。握りの部分が見事な鼈甲づくりのステッキだった。マーガレット叔母さんは、男が仮病を使ったのだと説明し、彼女のご主人はかんかんになった。彼女自身が発作を起こしそうなくらいに!

 「そういう手合いはたくさんいますよ」とチャンドラーは笑いながら言った。「手に負えない悪党とかルンペンとか、そういう連中はね!」

 そして今度は彼が狡猾きわまりない詐欺師のいりくんだ話を披露した。もっともその男は彼自身の手によって取り押さえられたのである。彼はそのことを非常に自慢していた。刑事としてのキャリアのなかで特筆すべき出来事だった。ミセス・バンティングでさえ、この話には興味深そうに聞き入った。

 チャンドラーがまだ座って話していたとき、ミスタ・スルースの呼び鈴が鳴った。しばらく誰も動かなかった。それからバンティングがいぶかしげに妻を見た。

 「聞えたかい?」と彼は言った。「エレン、あれは下宿人の呼び鈴だよ」

 彼女はいやいや立ちあがり二階へ行った。

 「呼び鈴を鳴らしたのは」とミスタ・スルースは弱々しく言った。「今晩、夕ご飯はいらないと申しあげたかったからなんです、ミセス・バンティング。ミルクが一杯あれば結構です。砂糖を一つ入れて下さい。それ以外はいりません――何も。とても調子がよくないのです」――彼は追い詰められたような、悲しげな表情を浮かべていた。「それからご主人に新聞をお返しします、ミセス・バンティング」

 自分でも気がつかないうちに相手をまじまじと見つめていたミセス・バンティングはこう答えた。「いいえ、よろしいんですよ、旦那様!バンティングはもう必要ないんですから。ぜんぶ読んでしまったんです」どういうわけか彼女は無慈悲にも次のような一言を付け加えてしまった。「夫はとっくに別の新聞を買ってしまいました。売り子たちが外で叫んでいるのをお聞きになったと思います。そちらのほうもお持ちいたしましょうか、旦那様」

 ミスタ・スルースは首を横に振った。「おかまいなく」と彼はぐちっぽく言った。「とても後悔しているんですよ、新聞をお借りしたことを。新聞はわたしの心をかき乱したのです、ミセス・バンティング。愚にもつかない記事ばかりです。何年もまえに新聞を読むのは止めてしまいました。今日、その決まりを破ったことを、わたしは強く後悔しています」

 会話はこれで終りだということを示すかのように、下宿人は女主人の前で一度もしたことがないことをした。彼は煖炉のほうへ行き、わざと彼女に背中をむけたのだ。

 彼女は下に降り、頼まれた砂糖入りのミルクを持ってきた。

 そのときの彼はいつも通り、テーブルの前に座り聖書を研究していた。

 ミセス・バンティングがみんなのところに戻ると、彼らは陽気におしゃべりをしていた。彼女は陽気なのが若い二人だけであることに気づかなかった。

 「どうだったの?」とデイジーが小生意気な調子で言った。「下宿人はどんな様子だった、エレン?元気そうだった?」

 「ええ」と彼女は堅苦しく言った。「当たりまえじゃない!」

 「ずっとひとりで部屋にこもりきりなんて、きっとすごく退屈しているにちがいないわ――とっても寂しいでしょうね」と娘は言った。

 しかしまま母は黙ったままだった。

 「いったい一日じゅう何をしているの?」とデイジーはしつこく訊いた。

 「今は聖書を読んでいるわ」ミセス・バンティングは短く、そっけなく答えた。

 「へえ、信じられない!紳士のくせにおかしなことをするわね!」

 三人の聞き手のなかでジョーだけが笑った――心から楽しそうな笑い声が長々とつづいた。

 「いい加減になさい」とミセス・バンティングはきびしい声を出した。「聖書のことで大笑いするなんてとんでもないことです」

 かわいそうにもジョーはとたんに真剣な顔つきになった。ミセス・バンティングが本気で彼を怒ったのは、これがはじめてだった。彼はしゅんとして答えた。「ごめんなさい。聖書のことで笑ったりしちゃいけないことは分かっていたんです。でもミス・デイジーの言い方があんまりおかしかったから。それに誰に聞いても、下宿人は変人みたいだし」

 「変人と言ったって、わたしが知っている大勢の人と変わりはしません」彼女は言下にそう言った。この謎めいた言葉を残し、彼女は立ちあがって部屋を出た。

第二十四章

 当然ながらバンティングはそれ以後、絶えずうずくような恐怖と緊張にさらされつづけた。

 この不幸な男は悶々と悩んだ。いったいどうしたらいいのだろう。そのときどきの気分と心理状態によって彼は大きく異なる行動方針のあいだを揺れ動いた。

 彼は何度もそわそわとこう考えた。いちばん困ることは確信が持てないことだ。確信が持てさえすれば、取るべき道は決まるのに。

 しかしそう自分に言い聞かせながら、彼は自分を偽っていたのだし、その事実にぼんやりと気がついてもいた。一家のあるじであれば、たいていの人は警察に行くことを唯一の対応策だと考えるだろう。しかしバンティングはそれ以外のやり方があるなら、ほとんどどんな対応策でもかまわなかったのである。バンティングの階級に属するロンドン子は法律に対して不安と恐れを抱いている。そんな恐ろしいものに巻き込まれたことがみんなに知られたら、彼もエレンも破滅することになるだろう。法律にかかわる人間は誰も彼らのことや、彼らの未来を心配してはくれない。それどころか死ぬ日まで彼らを追い回すだろう。そして何よりも彼らが落ち着いた生活に戻ることを不可能にするだろう。落ち着いた生活こそが、まさに今、バンティングが心ひそかにこいねがうものだったのだけれども。

 そう、警察に行くのではなくて、別の手立てを見つけなければならない。彼はそれを考え出すために、さんざん鈍い頭をひねった。

 何よりつらいのは、一時間おきに行動の方針がよりいっそう困難なものに、よりいっそうやっかいなものになることだ。それは良心にのしかかる重圧をますます大きくしていった。

 真実が分かってさえいたら!絶対まちがいないと思うことができさえしたら!しかし結局のところ、判断の材料はほとんどないのだと彼は自分に言い聞かせた。あるのはただ疑惑だけ――疑惑と、自分の疑惑が正しいというひそかな、恐るべき確信だけだった。

 そういうわけで、とうとうバンティングはどう見ても言い訳の立たないある解決法を望むようになった。つまり下宿人がある晩、ふたたび恐るべき用事のために外へ行き、逮捕されることを――現行犯で逮捕されることを心の奥底で期待するようになったのだ。

 ところがミスタ・スルースは、恐るべき用事も何も、まったく外に出なくなってしまった。彼は二階にこもり、しかもしばしば一日のほとんどをベッドのなかで静かに過ごした。彼はミセス・バンティングに、いまだに体調が回復しないのだと言った。帰宅の途中で主人と会ったあの寒い晩、彼は風邪をひき、それがずっと治らないのである、と。

 ジョー・チャンドラーもデイジーの父親にとってはやっかいな問題になってしまった。刑事は非番のときはバンティング家に入り浸っていた。一時は好意をしめし歓迎していたバンティングも今では彼が死ぬほど恐かった。

 この青年が話すのはほとんど復讐者のことばかりで、ある晩などはウエートレスにソヴリン金貨を与えた風変わりな紳士について詳細に語り、それがミスタ・スルースとあまりにも合致するものだからバンティングもミセス・バンティングも聞きながらそれぞれひそかに暗澹たる思いにとらわれていた。しかし若者は下宿人には少しも関心を示さなかった。

 ある朝、バンティングとチャンドラーはとうとう復讐者についておかしな会話をかわすことになってしまった。若者はいつもより早く家にやってきた。彼が着いたときミセス・バンティングとデイジーはちょうど買い物に出かけるところだった。娘は家に残りたがったのだが、しかしまま母は勝手な真似は許さないとひどく嫌な顔をし、デイジーは愛らしい顔を真っ赤にしてぷんぷんしながら出かけることになったのだった。

 チャンドラー青年が居間に入ってきたとき、バンティングはふとその表情がいつもとちがうことに気がついた。実をいえば、元執事を不安にさせるくらい、チャンドラーの態度には何やら威嚇的なところがあった。

 「お話があります、ミスタ・バンティング」と彼は唐突に、ためらうように話しはじめた。「ミセス・バンティングとミス・デイジーがお出かけになっているので、この機会に」

 バンティングははげしい非難の言葉を待ち受け、身構えた――殺人者を、世界が追い求めている怪物を、あなたは一つ屋根の下にかくまっていた、という非難だ。そのとき彼は恐るべき法律用語を思い出した。「事後共犯」。そうだ、おれは事後共犯なんだ。まちがいない!

 「なんだね」と彼は言った。「どうした、ジョー」この不幸な男は椅子に座った。「なんだね」彼は不安そうにもう一度言った。チャンドラー青年はテーブルに近寄り、バンティングを凝視していたのだ――それを見て相手はおどかされているように感じた。「さあ、言いたまえ、ジョー!気を持たせるんじゃないよ」

 するとかすかな微笑が若者の顔に広がった。「ぼくの話は別に驚くようなことじゃありませんよ、ミスタ・バンティング」

 バンティングは頭を振ったが、それは肯定とも否定とも、どちらにでも取れるような仕草だった。

 二人の男は見つめ合い、年上のほうの男にはそれがいつまでも、いつまでも、つづくように思えた。それからジョー・チャンドラーが思いきってこう言った。「ぼくが話したいことはもうご存じだと思います。ミセス・バンティングもご存じのはずです。最近、二回ほど、ぼくのほうを意味ありげに見ていたから。お嬢さんのことなんですよ――ミス・デイジーのことなんです」

 バンティングはむせび泣きとも笑い声ともつかない叫び声をあげた。「娘のことかね」と彼は大声で言った。「なんだい、ジョー!きみが話したいのはそんなことかね。ああ、ギクリとさせやがって――ほんとうに、もう!」

 一気に緊張感から解放されて、彼は部屋がぐるぐると回転するような気がした。そのあいだ彼は娘の恋人を見ていた。彼にとっては今や恐怖の対象たる法の体現者でもある娘の恋人を。彼はいささか間の抜けた笑顔を訪問者にむけた。チャンドラーはその穏和な心のなかに激しいいらだちというか、焦燥感が波のように湧き起こるのを感じた。デイジーの父親は、まったく察しの悪いおいぼれなのだ。

 バンティングの表情が改まった。部屋は回転するのを止めた。「わたしは」と彼はぐっとおごそかに言った。そこにはかすかな威厳すら感じられた。「きみを祝福するつもりだよ、ジョー。きみは有望な青年だし、きみのお父さんは心から尊敬している」

 「ありがとうございます、ミスタ・バンティング。でも、彼女はどうなんでしょう――本人の気持ちは」

 バンティングは相手をじっと見つめた。エレンがいつもほのめかしていたことはまちがいで、デイジーがすっかり気を許したわけではないことを知り、彼は機嫌がよかった。

 「わたしからデイジーのことはなんとも言えない」と彼は重々しく言った。「それは自分で訊かなければならないね――きみ以外、誰にもできないことだ」

 「機会がないんですよ。二人っきりで会うことができないんです」とチャンドラーはいささか興奮したように言った。「お分かりにならないようですね、ミスタ・バンティング、ぼくはミス・デイジーと二人だけで会う機会がないんですよ」と彼は繰り返した。「彼女は月曜日に出て行くそうじゃないですか。でも今までいっしょに出かけたことが一回あっただけです。ミセス・バンティングが口やかましいんですよ、ミスタ・バンティング、頭が固いとまでは言いませんが――」

 「それは困ったことだが、正しいことでもあるんだよ――若い女の子に対してはね」とバンティングは考えながら言った。

 チャンドラーは頷いた。ほかの若い男に対してはミセス・バンティングはいくら厳しくても厳しすぎることはない、と彼も納得した。

 「レディとして育てられてきたからな、うちのデイジーは」とバンティングがいささか得意そうにつづけた。「伯母さん(オールド・アーント) は彼女から目を離さないし」

 「今、その伯母さん(オールド・アーント) のことで質問しようと思っていたんです」とチャンドラーは憂鬱そうに言った。「ミセス・バンティングの話だと、デイジーは、あのご婦人が死ぬまでおそばについていなきゃならないみたいなんですが――それってほんとうですか。それが訊きたかったんですよ、ミスタ・バンティング――あれは本気で言っているんですか」

 「エレンには一言言っておくよ。心配しなくてもいい」とバンティングはぼんやりとして言った。

 彼の心はデイジーや眼のまえの好青年のことを離れて、今や絶えず彼に取り憑いている不安な思いに移ってしまっていた。「明日来たまえ」と彼は言った。「デイジーと外出できるように取りはからってあげよう。年寄り抜きで、二人きりで話したいというのはもっともだ。そうしなけりゃ、娘もきみが好きかどうか告白できないからな!しかしね、きみはまだ娘がどんな人間か分かっちゃいないよ、ジョー――」彼は若者をじっと見つめた。

 チャンドラーはいらいらと頭を振った。「知りたいだけのことはちゃんと知ってますよ」と彼は言った。「はじめてあったとき、ぼくは彼女と結婚しようと心に決めたんです、ミスタ・バンティング」

 「まさか!ほんとうかね」とバンティングは言った。「そういや、娘の母親と会ったときのおれもそうだった。それから何年もあとだが、エレンのときも。しかしきみは二人目が欲しいなんて思うようなことにならなきゃいいがな、チャンドラー」

 「変なことを言わないでください!」若い男は声をひそめて言った。それからややじれったそうにこう尋ねた。「二人はまだ帰らないんでしょうか、ミスタ・バンティング」

 バンティングはもてなしの心を忘れていたことに気がついた。「さあ、座りたまえ」彼は急いで言った。「長くはかからないと思うよ。たいしたものを買うわけじゃないから」

 それからふと調子を変えて、よく響く、心配そうな声でこう訊いた。「仕事のほうはどうなんだね、ジョー。新しい展開は何もないのかい。また事件が起きるのを待っているんだろう?」

 「ええ、そんなところです」チャンドラーの声も陰気な、とげとげしい調子に変わった。「ぼくらはうんざりしています――いったいいつ終るんだろうと思って!」

 「犯人がどんなやつか想像したことはあるかい?」とバンティングは訊いた。なぜかそれを訊かずにはいられなかった。

 「ええ」ジョーはゆっくりと言った。「ぼくが思い浮かべるのは――残忍で、たけだけしい顔つきの悪魔。犯人はそんなやつにちがいないですよ。人相書きのせいでぼくらはまちがった方向を捜査しているんです。霧のなかで女とすれちがった男は関係ないとぼくは思います。あれは犯人なんかじゃないです。でも、迷いますね。犯人像をはっきりこうだとは言えません。ときには船乗りじゃないかと思うこともあるし――ほら、噂に出てくる外国人ですよ。事件と事件のあいだ、八日か九日くらいはオランダとか、フランスに行っている外国人。別のときはセントラル・マーケットあたりの肉屋じゃないかと思うこともあります。誰であるにしろ、殺しに慣れた男ですね。それは絶対まちがいない」

 「それじゃ、きみの意見じゃ、あれは正しくないと言うんだね――」(バンティングは立ちあがって窓のほうに寄った)「つまり、その、新聞が書いているようなことは信じてないんだね、あの男が」――彼は躊躇してから必死になって言葉を吐き出した――「紳士だなんて」

 チャンドラーはびっくりしたように彼を見た。「思いませんね」と彼は落ち着いて言った。「それはぜんぜんまちがっているな。もっとも、警察のなかにはお偉いさんも含めて、ウエートレスにソヴリン金貨をやった男が犯人だと確信している人もいます。でも、ミスタ・バンティング、もしもそれが事実だとしたら――そいつは施設を逃げ出した精神異常者と考えるべきでしょう。脱走した精神異常者なら、付添人がいるはずです。そして彼はどこに行ったと、大騒ぎするでしょう。ちがいます?」

 「きみは」とバンティングは声を落してつづけた。「やつが、たとえば下宿なんかしているとは考えないんだね」

 「復讐者がウエスト・エンドのホテルに泊まっている上流人だってことですか、ミスタ・バンティング?そんなことはないだろうなあ」彼は考えるのもおかしいといったようにほほえんだ。

 「うん、まあ、そんなところなんだが」とバンティングはつぶやいた。

 「もしもその予想が当っていたら、ミスタ・バンティング――」

 「おれがそう思っているってわけじゃないんだ」とバンティングはあわてて言った。

 「まあ、それが正しいとすればですね、ぼくらの仕事は今まで以上にむずかしくなります。だって、干し草畑のなかから針を捜し出すようなものですもの!でも、その可能性はまずないと思います――少なくともぼくはないと思うな」彼はためらった。「仲間のなかには」――彼は声をひそめた――「やつが――復讐者が――がどこかへ行ってしまえばいいと思っているのもいます――別の大都市、たとえばマンチェスターとかエジンバラとかにね。そこならやつもたくさんやることがあるだろうから」そう言ってチャンドラーは自分のブラックユーモアにクスクスと笑った。

 そのときミセス・バンティングの鍵が鍵穴に差し込まれる音が聞えてきて、どちらの男も内心ほっとしたのだった。バンティングは復讐者とその犯罪に関するこの議論がひどく恐くなってきたところだった。

 デイジーはチャンドラー青年がまだそこにいることを知り、うれしさに頬を赤く染めた。とっくに帰ってしまったものと思っていたのだ。エレンがまるでわざとのように何だかんだとつまらぬ買い物をぐずぐずつづけるものだからなおさら不安がつのったのだった。

 「ジョーはデイジーと外出したいんだそうだ」とバンティングはだしぬけに口走った。

 「母があなたをお茶に招待したがっているんですよ、リッチモンドのほうへ」とチャンドラーはぎこちなく言った。「ご都合はどうかと思って来たんです、ミス・デイジー」デイジーは訴えるようにまま母を見た。

 「今日これから?」とミセス・バンティングは辛辣に言った。

 「いやいや、もちろんそうじゃない」バンティングが急いで割り込んできた。「なんだってそんなことを言うんだい、エレン!」

 「お母様はいつが都合がいいとおっしゃったの?」ミセス・バンティングは皮肉な目で若者を見ながら訊いた。

 チャンドラーは口ごもった。母親は特に何日とは指定していなかった――それどころかデイジーに会うことに驚くほど無関心だった。しかし彼は何とか母親を丸めこんだのだ。

 「土曜日はどうだ?」とバンティングが提案した。「デイジーの誕生日だよ。リッチモンドに行くのは誕生日の記念になるだろう。月曜には伯母さん(オールド・アーント) のところへ帰るんだから」

 「土曜はぼくが行けません」とチャンドラーは悲しそうに言った。「土曜日は勤務があります」

 「よし、それじゃ日曜日だ」とバンティングは断固として言った。妻はびっくりして彼を見た。自分のいるまえで彼が自己主張することはめったになかった。

 「それでいいですか、ミス・デイジー」とチャンドラーは言った。

 「日曜ならちょうどいいわ」とデイジーはとりすまして言った。若者が帽子を取りあげたとき、まま母が動こうとしなかったので、デイジーは思いきって玄関まで彼を送ることにした。

 チャンドラーが居間のドアを閉めたので、二人はミセス・バンティングのささやきを聞かずにすんだ。彼女はこう言ったのだった。「わたしが若かったころは、日曜日にぶらぶら遊びに出る人はなかった。お付き合いをしている人はいっしょに教会に行ったものよ、真面目にね――」

第二十五章

 デイジーの十八回目の誕生日は何ごともなく朝を迎えた。父親は十八歳になったらプレゼントしようといつも約束していたものを与えた――時計である。かわいらしい小さな銀時計で、彼が幸せだった最後の日に中古で買ったものだ。それも今思うとずいぶん昔のような気がした。

 ミセス・バンティングは銀時計など贅沢すぎるプレゼントだと思ったが、なにしろあまりにも気分が落ち込み、あまりにも自分のことしか考えられなかったから、いちいち口出しはしなかった。それに夫と娘のあいだで行われることに関しては良識をはたらかせ、たいていの場合は横からとやかく言わないことにしていた。

 誕生日の午前中にバンティングはタバコを買い足しに出かけた。おそらく仕事を辞めてからの一週間をのぞけば、この四日間くらいタバコを吸いまくったことはなかっただろう。あの当時、パイプを吹かすことはえもいわれぬ快楽だった。それは禁断の実を食べるような快楽なのだそうである。

 タバコは今や彼にとって唯一の安らぎだった。それはまるで麻薬のように神経に作用して、恐怖をやわらげ、思考の手助けをしてくれる。しかしささいなことにギクリとするのはタバコの吸いすぎのせいだと彼は思っていた。何でもない外の音や、急に話しかける妻の声にさえ彼は縮みあがったのだ。

 ちょうどそのときエレンとデイジーは下の台所へ行っていた。バンティングはミスタ・スルースと自分のあいだにひと続きの階段しかないことに気づいてやけに落ち着かなくなった。そこでエレンには何も言わずこっそりと外に出かけたのだった。

 この四日間というもの、バンティングは行きつけの店をわざと避けて行かないようにした。とりわけ知り合いや近所の人と会うことを避けていた。彼はあることについて彼らに話しかけられるのを怖れていたのだ。そのこと以外何も考えられなかった彼は、つい口を滑らして知っていることをしゃべってしまうのではないかと不安でたまらなかった。いや、知っていることというより、それは彼のなかに巣くっている疑惑といったほうがいいだろう。

 ところが今日、この不幸な男は人と話をしたい――つまり妻や娘以外の誰かと話をしたい――という奇妙な、本能的な欲求にかられたのである。

 ちがう相手と話したいという、この欲求はとうとう彼をエッジウエア通りにほど近い、小さな人通りの多い街路へと連れ出した。そのときはいつもより人の行き来が多かった。あしたが日曜日であるため、近所の主婦が買いだめをしていたのである。元執事はいつもタバコを買う小さな古い店屋に入った。

 バンティングはタバコ屋ととりとめのない会話をして時間を過ごした。しかしバンティングが安心しまた驚いたことに、隣近所が今でも噂するにちがいない話題について、店のあるじはちらりとすら触れることはなかった。

 カウンターのそばに立っていた彼は手にしたタバコの代金をまだ払っていなかったのだが、ふと開けっ放しのドアからエレンの姿を垣間見、はっと身体が凍りついた。妻はちょうど反対側の果物屋のまえに一人で立っていた。

 一言ことわりを入れて、彼は店を飛びだし道路を渡った。

 「エレン!」彼はしわがれた声で言った。「まさか娘を下宿人と二人きりにして出てきたんじゃないだろうな」

 ミセス・バンティングの顔は恐怖で黄色くなった。「あなた、うちにいるとばかり思っていたわ」と彼女は叫んだ。「うちにいたじゃない!どうして出てきたのよ、わたしが家にいることを確かめもしないで?」

 バンティングは答えなかった。しかし腹を立てながら黙ってにらみ合っているとき、彼らは互いに相手があのことを知っていることに気づいたのだった。

 彼らはむきを変え、混雑した通りをあわてて戻りはじめた。「走るんじゃない」と彼は唐突に言った。「早歩きで充分間に合う。ほかの人が見ている、エレン。走るんじゃない」

 彼は息をきらしながらしゃべった。早歩きのせいではなく、恐怖と動揺のために息が切れたのだった。

 ようやく彼らは門のところにたどり着いた。バンティングが妻の先に立ち、門を押してなかに入った。

 エレンはしょせん、まま母だ。おれの気持ちなんか分かるわけがない。

 彼は小径をひとっ飛びに飛び越えたようだった。そして慌てて鍵をあけた。

 ドアを開け放ち「デイジー!」と彼は怒鳴った。泣き出しそうな声だった。「デイジー!どこだ?」

 「こっちよ、お父さん。どうしたの?」

 「大丈夫だ」バンティングは蒼白な顔を妻にむけた。「大丈夫だよ、エレン」

 彼は廊下の壁にもたれてしばらくじっとしていた。「まったく驚かせやがって」と彼は言い、それから警告するように「娘を怖がらせちゃいけないぞ、エレン」と言った。

 デイジーは居間の煖炉のまえに立って鏡に映った自分の姿に見とれていた。

 「お父さん」と振り返りもせず、彼女は叫んだ。「わたし、下宿人を見たわよ!すてきな紳士じゃない。でも確かに変人みたいね。呼び鈴が鳴ったんだけど、わたし、上に行きたくなかったのよ。そうしたら彼が降りてきてエレンに何かを頼もうとしたの。わたしたち、ちょっとだけお話ししたのよ。今日はわたしの誕生日だって言ったら、エレンも誘って今日の午後、マダム・タッソーの蝋人形館へ行きませんかですって」彼女はやや照れたように言った。「たしかに普通の人とはちがっているわね。はじめて顔を合わせたとき、すごく変な話し方をしたもの。『誰なんです』っておどかすみたいに言ったのよ。だから、わたし、『ミスタ・バンティングの娘でございます』って言ってやったの。『それは幸運な娘さんですね』って、あの人、そう言ったのよ、エレン。『あんなに素敵なまま母がいらっしゃるのだから。だからあなたも善良で、純粋な女性に見えるんでしょうね』ですって。そのあと祈祷書から何か引用したわ。『全き人に目をそそぎなさい』って、首を振りながら言ったの。なんだか、伯母さん(オールド・アーント) と一緒にいるみたいな気分だったわ」

 「下宿人と外出するなんて許さないぞ、絶対に」

 バンティングは押し殺したような、憤慨した声で言った。一方の手は額の汗をぬぐい、もう一方の手は無意識のうちにタバコの小箱を握りつぶしていた。彼は代金を払い忘れたことをはっと思い出した。

 デイジーは口を尖らせた。「あら、お父さん、誕生日には好きなことをさせてくれるんじゃなかったの!土曜日は混んでいるから見学にはあまりいい日じゃないそうですよって、わたし、言ってやったのよ。そうしたら早く行って、ほかの人が昼ご飯を食べているときに見ましょう、ですって」彼女はまま母のほうをむき、嬉しそうに笑った。「あの方は、特にあなたを誘いたいらしいわ。あなたのことが大好きみたいよ、エレン。わたしがお父さんだったら、やきもち焼いちゃう!」

 彼女の最後の言葉は居間のドアをノックする音によってさえぎられた。

 バンティングと妻は不安そうに眼を見交わした。動揺のあまり、玄関のドアを開けっぱなしにしていたのだろうか。誰か、容赦のない法の手先が、こっそりと忍び込んでいたのだろうか。

 二人はそれがミスタ・スルースにすぎないことを知ると不思議な安心感をおぼえた。ミスタ・スルースは外出する格好をしていた。はじめてそこに来たときかぶっていたシルクハットを手に持っている。しかしインバネスのかわりにコートを着ていた。

 「お戻りになるのが聞えたものですから」――彼は甲高いおどおどした声でミセス・バンティングに話しかけた――「ミス・バンティングと一緒にマダム・タッソーの蝋人形館へ行くのはどうかと思いまして。わたしはまだ有名な蝋人形を見たことがないのです。名前はいつも聞いているのですが」

 バンティングは平静を装って下宿人をじっと見ていた。そのとき、ある考えが胸のなかに浮んできて、たとえようもない安堵をもたらしたのだった。

 こんなに穏やかで優しい紳士が、残酷で狡猾な怪物であるわけがないではないか。この恐ろしい四日間というもの、バンティングがずっと信じつづけてきたような怪物であるわけが。

 彼は妻の眼をとらえようとしたがミセス・バンティングはあらぬ方向を茫然と見つめていた。彼女はもちろん買い物用のボンネットとクロークを身につけたままだった。デイジーはもう帽子をかぶりコートを着ていた。

 「いかがでしょうか」とミスタ・スルースは言った。ミセス・バンティングは振りむいた。女主人には相手の眼が彼女を威嚇しているように思えた。「いかがです?」

 「かしこまりました、旦那様。すぐ御一緒しますので」と彼女は力なく言った。

第二十六章

 それまでマダム・タッソーの蝋人形館はミセス・バンティングにとって楽しい思い出の場所だった。彼女とバンティングが付き合っていたとき、午後のデートをよくここで過ごしたものだった。

 執事は蝋人形館の職員の一人、ホプキンスという男と知り合いで、彼がときどきペアの優待券をくれたのである。しかしミセス・バンティングはこの大きな建物のすぐ隣といってもいいところに住んでいたのに、それまでそこを訪れたことがなかった。

 彼らは黙ってなじみのある入り口からなかへ入った。この奇妙な三人連れが大きな階段をのぼり、最初の展示場に着いたとき、ミスタ・スルースは急に立ち止った。奇怪な形で生のなかに死を示す、異様な、動かぬ、蝋人形を見て驚き、おののいたようだった。

 デイジーは下宿人の躊躇と不安を利用してすばやくこう言った。

 「ね、エレン」と彼女は大きな声で言った。「最初に恐怖の部屋に行きましょうよ!わたし、まだ行ったことがないの。前に一回だけここに来たときは、お父さんが連れて行ってくれなかったの、伯母さん(オールド・アーント) があそこには連れて行くなって約束させていたのよ。でも、もう十八なんだから、好きなことをしたっていいでしょう。それに伯母さん(オールド・アーント) には分りゃしないから」

 ミスタ・スルースは彼女を見下ろした。その疲れてやつれた顔に一瞬ほほえみがひらめいた。

 「ええ、恐怖の部屋に行きましょう。名案ですね、ミス・バンティング。わたしも恐怖の部屋はずっと見たかったんです」

 彼らはナポレオン時代の遺物が保存されている大きな部屋を抜け、納骨所のようなおかしな小部屋に入った。そこには死んだ犯罪者たちの蝋人形が何体かずつに分けられて木の台の上に立ち並んでいた。

 ミセス・バンティングは夫の古い知り合い、ミスタ・ホプキンスを見て、困惑すると同時にほっと安心もしたのだった。彼は回転木戸のところで恐怖の部屋に入る客の切符を切っていた。

 「おや、珍しいですな」と彼はにこやかに言った。「結婚なさってからはじめてじゃないですか、ミセス・バンティング、ここでお目にかかるのは」

 「ええ」と彼女は言った。「そうね。この子が夫の娘のデイジーよ。聞いていらっしゃるでしょうけど、ミスタ・ホプキンス。それからこちらの方は」――彼女はつかの間ためらった――「うちで下宿をしていらっしゃるミスタ・スルース」

 しかしミスタ・スルースはしぶい顔をして、さっさと先へ行ってしまった。デイジーはまま母のそばを離れ、彼と一緒に歩いた。

 俗に言う通り、二人なら気が合うが、三人では仲間割れ、である。ミセス・バンティングは六ペンス銅貨を三枚置いた。

 「待ってください」とホプキンスが言った。「まだ恐怖の部屋には入れませんよ。四五分待っていただければいいんですけど、ミセス・バンティング。実は、お偉いさんが団体客を案内しているんですよ」彼は声をひそめた。「サー・ジョン・バーニーです。サー・ジョン・バーニーのことはご存じでしょう?」

 「いいえ」と彼女は興味なさそうに答えた。「聞いたことがないわ」

 彼女は少しだけ――ほんの少しだけ――デイジーのことが気にかかった。まま娘を姿が見え、声が聞える範囲に置いておきたかったのだけれど、ミスタ・スルースは彼女を部屋のむこう端に連れて行こうとしていた。

 「彼とは知り合いにならないほうが――個人的な知り合いにはならないほうが――いいでしょうな、ミセス・バンティング」そう言って彼はくすりと笑った。「サー・ジョン・バーニーってのは警視総監ですよ――新任の。連れて歩いているお客さんの一人はパリ警視庁の総監です。サー・ジョンと同じ仕事をなさっているんですな。この方は娘さんと一緒に来ています。それからご婦人方も何人かいます。ご婦人方は恐いものがお好きですな、ミセス・バンティング。わたしらの経験じゃ、例外なしにそうですよ。『まあ、恐怖の部屋へ連れて行ってちょうだい』――この建物に入ったとたん、そう言いますね!」

 ミセス・バンティングは考え込むように相手を見た。ミスタ・ホプキンスは彼女がひどく青ざめ、疲れていることにふと気がついた。バンティングと結婚するまえ、まだお仕えをしていたころは、もっと元気な様子だったのだが。

 「ええ」と彼女は言った。「まま娘もさっきそう言ったわ。『恐怖の部屋に連れて行って』って。ここに着いたとき、そっくりそのままのことを言っていた」

******

 一団の人々がおしゃべりをし、笑い合いながら木の柵の内側から回転木戸のほうへむかって来た。

 ミセス・バンティングは神経質そうに彼らを見た。ミスタ・ホプキンスが、個人的な知り合いにならないほうがいいでしょうな、と言った紳士はどの人だろうと思った。彼女はほかの人のなかから彼を選び出すことができそうな気がした。彼は背が高くて力強い、軍人のような顔つきのハンサムな男性だった。

 ちょうどそのとき、彼はにこにこしながら一人の少女の顔を上から覗き込むように見ていた。「ムシュー・バルバルーのおっしゃる通り」と彼は大きな、陽気な声で話していた。「イギリスの法律は犯罪者に寛大すぎます。とりわけ殺人者には。わが国がフランス流の裁判をしていれば、今われわれが出てきた部屋にはもっと蝋人形が一杯詰まっていたでしょう。有罪は絶対まちがいないと警察が確信した人間がしばしば無罪放免になるのです。そして一般大衆からは『未解決事件がまた増えた!』と愚弄されるのですよ」

 「サー・ジョン、それって、人を殺しても罰を受けないことがあるっていうことなの?先月から人を殺しているあの男も?きっと絞首刑になるわよね――捕まったら」

 少女らしい声が鳴り響き、ミセス・バンティングはその一言一句を聞き取ることができた。

 一団の人々は彼らのまわりに集り、熱心に聞き耳を立てていた。「いやいや」彼はゆっくりと言った。「あの殺人者は絞首刑にはならないと思いますね」

 「警察には捕まえられないってこと?」少女の澄んだ声には気取ったような、おしゃまな調子があった。

 「われわれは最後にはやつを引っ捕らえるでしょう――というのは」――彼は一瞬ためらって、それから低い声でこう付け加えた――「新聞記者には洩らさないでくださいよ、ミス・ローズ――というのは、われわれは問題の殺人者の正体を突き止めたと考えていますから――」

 そばに立っていた数人の人が驚きあきれ、信じられないといった声を発した。

 「じゃ、どうして捕まえないの?」と少女は憤慨したように叫んだ。

 「犯人の居場所が分かっているとは言いませんでしたよ。ただやつが誰であるのか知っていると言ったのです。いや、それよりも、わたしが個人的に非常に強い疑いを抱いている人物がいると言うべきかもしれません」

 サー・ジョンのフランス人の同僚はすばやく視線をあげた。「ライプシックとリバプールの男かね?」彼はいぶかしそうに訊いた。

 相手は頷いた。「そうです。事件を調査なさったようですな」

 彼はその話題を自分の心からも聞き手の心からも追い払おうとするかのように、ひどく急いでこう言った。

 「八年前に同じような殺人が四件発生しました。ライプシックで二件、その直後にリバプールで二件。どの犯罪にもある特徴があって、同一人物によって犯されたことは明らかでした。犯人は幸いなことに現場で取り押さえられました。犯人は最後の犠牲者の家を出て行こうとしたところを捕まったのです。リバプールの二つ目の事件は家のなかで起きましてね。わたしはこの不幸な男を見ました――不幸というのは、どう見ても彼は気が狂っていたからです」――彼はためらい、声を低めてこう言い足した――「宗教的な妄想に取り憑かれていましたよ。わたし自身、かなり長いことこの男を観察しました。さて、ここからが本当に興味深い点なんですが、わたしは一月前にある知らせを受け取りました。この犯罪的な精神異常者が入院していた病院を脱走したというのです。彼は驚くべき狡猾さと知性で脱走を企てました。彼が逃げるとき、とてつもない額の金貨をくすねさえしなければ、とっくの昔に捕まっていたんでしょうがね。病院の職員に払うはずだった給料を盗んだんです。そのせいで脱走事件は秘密にされてしまったんですよ、非常にまずいことに――」

 彼はしゃべりすぎたことに気がつき後悔したように突然言葉を切った。そのあと一行はサー・ジョン・バーニーを先頭に一列になって回転木戸を通り抜けた。

 ミセス・バンティングは真正面を見つめていた。彼女はまるで――あとになって夫に言ったように――石になったような気分だった。

 彼女は、いくらそうしたいと思っても、下宿人に危険を知らせる時間も力もなかった。デイジーとその同伴者は今、こちらのほう、警視総監のいるほうへまっすぐ向っていたからである。次の瞬間、ミセス・バンティングの下宿人とサー・ジョン・バーニーは鉢合わせした。

 ミスタ・スルースは一方の側にそれた。その青ざめた、細い顔には恐ろしい変化が起きていた。怒りと恐怖にゆがみ、土気色になっていたのだ。

 しかしミセス・バンティングがほっとしたことに――そう、言葉では言えないくらいほっとしたことに――サー・ジョン・バーニーとその友人たちはさっさとそこを通り過ぎていった。まるでその部屋には彼ら以外誰もいないような感じで、ミスタ・スルースと娘のそばを通り過ぎてしまったのだ。

 「早く見ていらっしゃい、ミセス・バンティング」と回転木戸の番をしている男は言った。「お友だちといっしょに貸し切り状態でご覧になれますよ」彼は職員としてではなく、一個の男性として彼らに接していた。かわいらしいデイジー・バンティングにふざけたように話しかけたのは一人の男性としてのミスタ・ホプキンスだった。「あなたのような若い女性がああいう恐いものを見たがるなんて、世のなかいったいどうなっているんでしょうな」と彼はからかい半分に言った。

 「ミセス・バンティング、ちょっとこちらのほうへ来ていただけますか」

 その言葉はミスタ・スルースの唇から語られたと言うより、そこから洩れて出た息のように聞えた。

 女主人はおどおどしながら一歩彼のほうに歩み寄った。

 「あなたとお話しするのはこれが最後です、ミセス・バンティング」下宿人の顔はまだ恐怖と激しい怒りに歪んだままだった。「あなたの忌むべき裏切りには必ず報いが来ます。あなたを信頼していたのに、ミセス・バンティング、なのにあなたは裏切った!でもわたしは天の力によって守られています。まだやるべきことがたくさん残っているからです」彼はささやくように声をひそめ、次のような言葉を吐き出した。「あなたの最後はにがよもぎのように苦く、もろ刃のつるぎのように鋭いでしょう。その足は死に下り、その歩みは陰府の道におもむくでしょう」

 ミスタ・スルースはこの奇怪な、禍々しい言葉をささやきかけるあいだも、視線を彼方此方に走らせ逃げ道を探していた。

 ついに彼の眼はカーテンの上の小さな札に釘付けになった。「非常口」とそこには書かれていた。ミセス・バンティングは彼がそこを目指して一目散に駆け出すのではないかと思った。しかしミスタ・スルースの取った行動はそれとはぜんぜんちがっていた。女主人のそばをはなれて、回転木戸に近寄り、しばらくポケットのなかを探ってから、番をしている男の腕をさわった。「気分が悪いんです」と彼はひどく早口に言った。「気分が悪くてたまらないんです!ここの空気のせいでしょう。どう行けばいちばん早く外に出られますか。こんなところで気を失いたくはないのです――特に女性がいますから」

 左手がすばやくのびて、ポケットのなかで探っていたものを相手の手のひらに載せた。「あそこに非常口がありますね。あそこから出ることはできますか」

 「ええ、もちろんですとも、旦那さん」

 男はそう言って躊躇した。彼はほんのかすかではあったけれど、不安を感じたのだ。デイジーを見ると、彼女は顔を紅潮させ、嬉しそうに、何の心配事もないようにほほえんでいる。ミセス・バンティングを見ると、彼女は顔が真っ青だった。しかし下宿人の様子が急におかしくなったので当然のことながらきっと心配しているのだろう。ホプキンスは十シリング金貨が心地よく手のひらをくすぐるのを感じた。パリ警視庁の警視総監は半クラウンしかよこさなかった――けちんぼの、しけた外国人野郎め!

 「ええ、旦那さん、あそこから出してさしあげましょう」彼はとうとうそう言った。「鉄のバルコニーがありますから、そこで外の空気を吸えば気分がよくなるでしょう。でも、またなかに入るときは正面までまわらないといけませんよ。あの非常口からはなかに入れないんで」

 「ええ、知っていますよ!」とミスタ・スルースは慌てているように言った。「気分がよくなったら正面から入ってきて、もう一シリング払います。それがフェアというものです」

 「そんなことなさらないでも事情をおっしゃれば大丈夫ですよ」

 男は非常口のほうに行き、カーテンを引くと、肩でドアを押した。ドアは一気に開いて、一瞬、光がミスタ・スルースの眼をくらませた。

 彼は手で眼を覆った。「ありがとう」と彼はつぶやいた。「ありがとう。外に出たら大丈夫ですよ」

 鉄の階段が下の小さな庭まで延びており、そこの出入り口から脇道に抜けることができた。

 ミスタ・スルースはもう一度あたりを見まわした。彼は本当に具合が悪かったのだ――具合が悪くて頭がくらくらしたのだ。バルコニーの手すりを飛び越え、永遠の安らぎを得ることができたらどれほど心地よいだろう。

 いや、そういうわけにはいかない。彼はそんな思いや誘惑を頭から払いのけた。ふたたび怒りの表情が顔に浮んだ。彼は女主人のことを思い出したのだ。あれだけ寛容に扱ってやったのに、どうしてあの女はわたしをわたしの最大の敵に売り渡したのか。何年もまえに謀議してわたしを閉じ込めてしまおうとしたあの警官に。わたしは完全に正気なのに、そしてこの世で復讐という偉大な仕事をしなければならないのに、あの警官はわたしを精神病院に閉じ込めようとしたのだ。

 彼は外に足を踏み出した。そのうしろでカーテンが垂れ下がり、彼を見つめていた人々の視界から、背の高い、痩せた姿を覆い隠した。

 デイジーでさえかすかな怯えを感じた。「顔色がよくなかったわね」彼女は振り向いて訴えるような眼でミスタ・ホプキンスを見た。

 「ああ、そうだね。お気の毒に――お宅の下宿人なんですって?」彼は同情するようにミセス・バンティングを見つめた。

 彼女は舌で唇をしめらせて「ええ」と言い、こう力なく繰り返した。「うちの下宿人ですよ」

第二十七章

 ミスタ・ホプキンスはミセス・バンティングとかわいらしいまま娘に恐怖の部屋を見せようとしたが、むだだった。「まっすくうちに帰りましょう」とミスタ・スルースの女主人は断固として言った。デイジーはおとなしく同意した。どういうものか娘は混乱し、下宿人が突然姿を消したことにかすかな不安を感じていた。このいつにない気持ちはまま母の顔に浮んだ驚きと、苦痛の表情によって引き起こされたのだろう。

 ゆっくりと彼らは建物を出た。家に着いたときミスタ・スルースの奇妙な行動を報告したのはデイジーだった。

 「もうすぐ帰ってくるんじゃないか」とバンティングは重々しく言い、妻の顔を不安そうに盗み見た。彼女はまるで胸に苦痛を抱えているような表情だった。彼は彼女の顔を見て、何かよくないこと――非常によくないことが起きたことを悟った。

 時間はのろのろと過ぎていった。三人はむっつりと黙り込み、落ち着きがなかった。デイジーは、今日はチャンドラーが来られそうもないことを知っていた。

 六時頃、ミセス・バンティングは二階にあがった。ミスタ・スルースの客間に入ってガスの火を灯し、恐る恐るまわりを見まわした。ありとあらゆるものが下宿人のことを語りかけてくるように思われた。聖書とコンコーダンスが並べてテーブルの上に置いてある。彼が下に降りてきて、不運な外出を下宿の主人の娘に持ちかけたときとまったく同じ状態だった。彼女は数歩踏み出し、下宿人が戻ってきたことを示す、カチリという聞き慣れた鍵の音が聞えまいかとひたすら耳をすませた。それから窓のほうへ行き外を見た。

 家もなく、友だちもなく、外をうろつき回るには寒すぎる夜だ。しかもほとんど金の持ち合わせがないことを思うと彼女は胸が痛んだ。

 不意に向きを変えて彼女は下宿人の寝室に入り、姿見の引き出しを開けた。

 やっぱりだ。ずいぶん減っているがソヴリン金貨の山がある。このお金を持って行ってくれたらよかったのに!一晩宿を取るだけの持ち合わせさえないのではないかと彼女は思った。そして唐突にあることを思い出しほっとしたのだった。下宿人はあのホプキンスになにがしかの金を与えたではないか――一ポンドだったか半ポンドだったか、はっきりおぼえてはいないけれど。

 ミスタ・スルースの残酷な言葉、脅迫の記憶はさして気にならなかった。あれはまちがいなのだ。すべて誤解なのだ。ミスタ・スルースを裏切るどころか、彼女は彼をかくまったのだ。もっともサー・ジョン・バーニーの言葉が伝えた恐ろしい事実、つまりミスタ・スルースは一時的な錯乱の犠牲者ではなく、もう何年も狂人であり殺人狂であったということを知っていたら、あるいはおぼろげにでもそんな疑いを抱いていたら、秘密を守ることなどできなかっただろうけれども。

 彼女の耳にはフランス人のなかばぞんざいな、しかし自信に満ちた質問がまだ鳴り響いていた。「ライプシックとリバプールの男かね?」

 彼女は衝動に駆られて客間に戻り、ボディスから頭の黒いピンを一本抜き取って聖書のページのあいだに差し込んだ。それから本を開き、ピンの差し込まれたページを見た。

 「わたしの天幕は破れ、綱はことごとく切れ……もはやわたしの天幕を張る者はなく、幕を掛ける者もない」

 聖書を開いたままミセス・バンティングは下に降りた。居間のドアを開けるとデイジーがまま母のほうにむかってきた。

 「わたし、台所に行って下宿人の夕ご飯を作る」と娘は愛想よく言った。「お腹がすいたらきっと帰ってくるわ。でも具合がわるそうだったわね、エレン。ほんとに顔色がわるかった!」

 ミセス・バンティングは答えなかった。彼女はただ脇によってデイジーを下に行かせた。

 「ミスタ・スルースはもう戻ってこないわ」と彼女は沈んだ声で言い、表情を一変させた夫に対して喜びと同時に怒りを感じた。いや、夫の安堵の表情、心の底から喜んでいる様子はひねくれた怒りをはるかに強く喚起し、彼女は思わずこう付け加えた。「私はそう思うってだけの話よ」

 バンティングがまた表情を変えた。以前と同じ、不安そうな、重苦しい表情、この数日間浮かべていたあの表情が戻ってきた。

 「どうして戻ってこないと思うんだい?」と彼は言った。

 「話せば長くなるわ」と彼女は言った。「子供が寝るまで待ってちょうだい」

 バンティングは好奇心を抑えなければならなかった。

 デイジーがとうとうまま母と寝ている裏部屋へ行ったとき、ミセス・バンティングは夫を手招きして二階へむかった。

 夫は階段をあがるまえに廊下を通って玄関のドアにチェーンをかけた。このことについて二人はひそひそ声で鋭くやり合った。

 「あの方を閉め出す気?」彼女は声をひそめて怒ったように言った。

 「デイジーが一階にいるんだぞ。あの男がいつ入ってくるかもわからんような、そんな状態にはできん」

 「ミスタ・スルースはデイジーに乱暴したりしないわ。するとしたらわたしに対してよ」そう言って彼女は半泣きになった。

 バンティングは眼を丸くして彼女を見た。「どういうことだ?」と彼は荒々しく言った。「二階でどういうことか説明しろ」

 ミセス・バンティングは下宿人の客間だった部屋で起きたことをありのままに語った。

 彼はむすっと黙りこくって聞いていた。

 「だからね、バンティング」と彼女は最後に言った。「やっぱりわたしの言うことが正しかったのよ。下宿人は自分の行為に責任はないの。わたしの思った通り」

 バンティングはじっと考え込みながら彼女を見ていた。「責任の意味にもよるが――」と彼は議論をふっかけるように話し出した。

 しかし彼女は聞く耳を持たなかった。「わたしはその紳士が精神異常者って言うのを直接聞いたのよ」と彼女は激したように言った。それから声を落して「宗教的な妄想に取り憑かれている――そう言っていたわ」

 「しかし、おれにはそうは見えなかったがな」とバンティングはゆずらなかった。「ただの変わり者にしか見えなかった。気は狂っちゃいなかったよ」彼はそわそわと部屋のなかを歩き回っていたが、とうとう急に立ち止った。「で、おれたちはどうすればいいと思う?」

 ミセス・バンティングは苛立たしげに頭を振った。「何もすべきじゃないわ」と彼女は言った。「何かする必要がある?」

 ふたたび彼は意味もなく部屋のなかを歩きはじめ、それが彼女をいらいらさせた。

 「あの方に夕食を届けることができたらいいのに!ついでにこのお金も。ここにあるなんて、考えただけでもいや」

 「心配するな――取りに戻ってくるさ」バンティングはきっぱりと言った。

 しかしミセス・バンティングは首を横に振った。彼女のほうが分かっているのだ。「さ、あなたはもう寝たらいいわ。これ以上わたしたちが夜更かししたってどうにもならないもの」

 バンティングは黙ってそれに従った。

 彼女は急いで下に降り、夫のためにろうそくを持ってきた。上の階の小さな裏部屋にはガス灯がなかったのだ。彼女は夫がゆっくりと階段をあがるのを見ていた。

 すると急に彼はまた引き返してきた。「エレン」と、彼は心配そうにささやいた。「おれだったらチェーンをはずして部屋に鍵をかけるね。おれはそうするつもりなんだ。そうすればあいつもこっそり入ってきて、汚い金を持って行けるだろうから」

 ミセス・バンティングは首を縦にも横にも動かさなかった。ゆっくりと階段を降り、バンティングの忠告の半分を実行に移した。つまり玄関のドアのチェーンをはずしたのである。しかしベッドには入らず、部屋の鍵をかけることもなかった。彼女は一晩じゅう起きて待っていた。七時半になったとき、自分でお茶を一杯淹れ、それから寝室に入った。

 デイジーが目を覚ました。

 「あら、エレン」と彼女は言った。「わたし、相当疲れていたのね。ぐっすり眠ってしまったわ。あなたがベッドに入ったのも起きたのも気づかなかった。おかしいわね」

 「若い人は老人みたいに眠りが浅くないのよ」ミセス・バンティングは教え諭すように言った。

 「下宿人は結局戻ってきたの?今、二階にいるんでしょう?」

 ミセス・バンティングは首を振った。「リッチモンドに行くには絶好の日和になりそうね」と彼女はやさしい口調で言った。

 デイジーはごく幸せそうな、自信に満ちたほほえみを浮かべた。

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 その日の晩、ミセス・バンティングは勇気をふるってチャンドラー青年に下宿人が「消えた」ことを伝えた。彼女とバンティングはあらかじめしゃべることを注意深く決めておき、彼らが意図した通りにうまく話ができたので、チャンドラーはいたって冷静にその知らせを受け取った。いや、彼はデイジーと一緒に過ごした長い幸福な一日のことで頭がいっぱいだったので、さして注意を払わなかった、といったほうがずっと当っているだろうけれども。

 「消えたんですか」彼は無頓着に言った。「支払いはちゃんと済ませていったんでしょうね」

 「それは、もちろんよ」とミセス・バンティングが急いで言った。「その辺はきちんとしているわ」

 バンティングは恥ずかしそうに言った。「うん、下宿人はとても正直な紳士だったよ、ジョー。しかしね、心配なんだ。あの人は気の毒なくらいおとなしいからね。一人でどこかをうろうろしているんじゃないかと思うと気が気でないよ」

 「彼のことをいつも変人だって言っていましたよね」とジョーは考え込むように言った。

 「ああ、そうだよ」とバンティングはゆっくりと言った。「正真正銘の変わり者だよ。ちいっとネジがゆるいんだ、ここんところがね」と彼は意味ありげに頭をポンポン叩いて見せた。若者二人は思わずふきだした。

 「人相書きを出しましょうか」とジョーは機嫌良く言った。

 バンティング夫婦は顔を見合わせた。

 「いや、それはいらんよ。ともかく、しばらくのあいだは。あの人もびっくりするだろうから」

 ジョーは同意した。「失踪して、それきり姿を見せない人は、びっくりするくらい多いんですよ」彼は明るくそう言った。それからしぶしぶと立ち上がった。

 この時ばかりはデイジーも遠慮なく彼を見送りに廊下に出て、居間のドアを閉めた。

 戻ってくると肘掛け椅子に座る父親のほうへ歩いて行き、うしろから彼の首に腕を巻き付けた。

 彼女は顔を寄せてこう言った。「お父さん。ちょっとお知らせがあるの!」

 「何だい?」

 「お父さん、わたし、婚約したのよ。びっくりした?」

 「びっくりして当たり前じゃないか」とバンティングは愛情をこめて言った。うしろを振り返って娘の頭に両手を添え、優しくキスをした。

 「伯母さん(オールド・アーント) は何て言うかな」と彼はささやいた。

 「伯母さん(オールド・アーント) のことは心配しないで」と妻が唐突に言った。「わたしが何とかするから。直接会って話をしてくる。彼女とはいつだってうまくやってきたんだから。そうでしょう、デイジー」

 「ええ」とデイジーはちょっぴり驚いたように言った。「もちろんよ、エレン」

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 ミスタ・スルースは戻ってこなかった。いくつもの昼と、いくつもの夜を経て、ようやくミセス・バンティングはカチリという鍵の音がしないかと耳をすますことをやめた。それは彼女が期待し、かつ怖れる、下宿人の帰還の合図のはずだった。

 はじまったときと同じく突然に、そして理由もなく、復讐者の殺人はとまった。しかしまだ春浅いある朝、リージェント・パークで働いている庭師が新聞にくるまれたゴム底の靴と、奇妙な形の長いナイフを発見した。警察はこの事実に強い関心を示したけれど、新聞によって報道されることはなかった。同じころ、ソヴリン金貨を入れた小さな箱が匿名氏によって孤児院の管理者宛に寄付されたという、面白い小さな記事が新聞に掲載された。

 ミセス・バンティングは約束通り伯母さん(オールド・アーント) に結婚を承諾させた。伯母さん(オールド・アーント) は、デイジーが予想していたよりもずっと冷静にこのすばらしいニュースを受け止めた。彼女はただこう言っただけだった。留守宅の管理を警察にまかせたら、まず確実に泥棒に入られるっていうのに、いったい何を考えているのかしらねえ。この一言にはジョーよりもデイジーのほうがかちんときた。

 ミスタ・バンティングとエレンは現在、ある老婦人にお仕えをしている。彼らは尊敬されると同時に怖れられ、老婦人は彼らのおかげでたいそう安楽に暮しているということだ。

後記

この翻訳は Project Gutenberg 版 The Lodger by Marie Belloc Lowndes (https://www.gutenberg.org/files/2014/2014-8.txt)を底本にしました。

翻訳に際し、以下の書籍を参照し、訳文を作成しました。ただし訳者の責任に置いて訳文を変更して使わせていただいた部分もあります。

○安西徹雄訳「マクベス」光文社文庫

○口語訳「聖書」(1954/1955年版)